掟の超越者

 邑が騒いでいる。

 表向きは平静を保ち、邑人は皆いつもと変わらない風を装うが、その内側には何十年ぶりという邑を沸かせる事件が進行している。

 戦士カサによる、真実の地へ臨む試練。

 この物語は、やがて砂漠全域に伝えられるだろう。

 カサは戦士ガタウが手塩にかけた戦士。

 砂漠の試練を見事乗り越えた、生ける伝説、あの戦士ガタウのすべてを継ぐ者として、その冒険は喧伝される。

 そして風が吹き、カサが邑を立つ日が、来る。

 そのとき、更なる大風が吹く。

 それは砂漠を震撼させるほどの、嵐であった。



 前夜、カサは長たちの集まる、戦士の大天幕セイリカに呼ばれた。

 ガタウに言われた物、食料、槍身、槍先、革紐や革袋、そして槍を持ち運びしやすいように改良した背負子、それらすべての用意を終え、カサは言われるままにこのセイリカまで持ってきた。

「来ました」

「入れ」

 大きな戸幕をよけて、中に入る。四人の二十五人長、そして二十人の戦士長、カサの代理として、ラハム、皆が座って待っていた。

 彼らの面々を見て、カサは胸が熱くなる。

 孤立無援のカサとラシェを救ってくれたのは、彼らなのだ。

 邑全体を敵に回す事も厭わず、カサに手を貸してくれた。

 その心意気に、カサは言葉にできないほど感謝の念を抱いた。

 カサは座る一同の前に進み出、

「みんな、有難うございます。僕なんかの為に……」

「もうよい、カサ」

 直接の上役に当たるバーツィが、頭を下げるカサを手で制する。

「荷物を置いて、座るがいい」

 カサは言われた通りにする。

「それが、大戦士長が用意しろと言った物か?」

 ソワクだ。

「はい」

 カサは恭しくうなずく。

 見回すと、妙に気の抜けた空気。みな尻の座りの悪い顔をしている。

 件のガタウがまだ来ていないのである。

 皆を集めたのが、ガタウであるにもかかわらず。

 時間に厳しいガタウである。遅れるなどという話はついぞ聞かない。

 バッ。

 戸幕がはじかれたように跳ねよけられる。

「皆揃ったか」

 噂をすれば、ガタウである。

 皆が言葉を失っている。

 ガタウは、カサが持ってきた物と、まったく同じ荷物を背負っている。

 その意図をすぐに察し、ラハムが立ちあがってつめ寄る。

「大戦士長ガタウ、どういうつもりか!」

 呆気に取られていた他の者たちも、その意味に気づき、

「大戦士長!」

「な、何を考えておられるのか!」

 騒然とする一同を前に、ガタウはまた信じられない行動に出る。

 荷物を背負ったまま、口元をぐいと持ち上げたのだ。

 皆が声を失う。

 今ここに獣が乱入しても、これほど驚かなかったかもしれない。

――大戦士長が、笑っている。

 そう、あのガタウが戦士たちを前にして、笑っているのだ。

 不敵に、いや悪戯っぽくとも取れる笑いである。

「俺は、真実の地にゆく」

 カサについて、自分も向かうと言う。

「何を言われるのだ! 大戦士長たる身でそのような勝手が、まかり通ると思われるのか!」

「カサが心配なのは判るが、考え直してくれ!」

「大戦士長! 我らにはまだ、大戦士長が必要なのです!」

 熱くなる戦士たちの中で、座ったまましかとガタウを見つめるのはソワク。

 珍しく狼狽をあらわにして、ラハムが言う。

「確かに真実の地には、一人で向かわねばならないという決まりなどないが」

 真実の地に一人で向かい、帰ってきたのは、ガタウだけ。

 多くの場合、志を同じくする者や親しき戦士がその旅路に同道する。

「だが何も、大戦士長が行く事はあるまい。皆の言う通り、考え直してはくれまいか」

 だがガタウは、顔に笑いを貼りつかせたまま、

「ついて行くのではない。俺が行きたいから、行くのだ」

 そしてこう言い切る。

「誰も俺を止める事はできぬ」

 その目がすっと細まる。

「砂漠の真実を手に入れた者には、一つだけ、掟を超える事を許される」

 皆は何が言いたいのかと、互いの顔を見合わせる。

「俺は、砂漠の真実にふれた時に、掟を超えることを許された身なのだ」

「あ……!」

 声を上げたのは、ラハムだ。

 当時の事情を知るのは、戦士階級では今やラハムただ一人だった。

「そうか……あの時……!」

 ううむとラハムが唸る。

 ガタウが邑に戻った時、全ては失われていた。

 ゆえに、ガタウの望みはこの数十年の間、行使されず宙に浮いたままになっていたのだ。

「今の話、真実か」

 訊いたのは、唯一沈黙を守っていたソワクだ。

 ガタウがカサについて行くという話には、納得している顔だ。

「……うむ」

 悔しそうに、ラハムがうなずく。ガタウを止める手がないと知り、己が腹立たしいのだ。

「もうマンテウ(大巫女)には伝えてきた。許しは得ている」

 それでもう、誰も抗議できなくなる。

 もはや説得は不可能であった。

 誰もが歓迎しがたい面持ちである。

 ガタウなのだ。

 これまで永きに渡って彼らを導いてきた、比類なき戦士。

 それが今、彼らの元を去るという。

 生きて帰ってこれるかどうかも判らぬ所へ行くと言うのだ。

 これを惜しまぬ者がいようか。

 ガタウが、大戦士長として最後の言葉を与える。

「戦士長ソワク」

 ソワクは立ち上がり、

「はい」

ガタウの言葉を待つ。


「明日からお前が、戦士たちを導くがいい」


 意味は単純にして明確。

 大戦士長の座の禅譲である。

 誰もがその言葉に込められた重さに、耳鳴りを覚えるほどの重圧を覚える。

――これで、戦士階級は変わってしまうのだ。

 ソワクを頂点とした新たな戦士階級。

 皆が予期し、そしてやがて来るであろうと思っていた未来の唄。

 それが今突然現実となった。

「戦士九十五名の命、全てこの戦士ソワクに任された」

 ただ一人、覚悟していたのはソワクだろう。

 片膝をついてガタウに最上礼を示し、それを受ける。

 大役をまかされた身内に、奮えるような重みを知る。

「これにて俺は、大戦士長ではなく、ただ一人の、戦士ガタウとなる。皆、しぶとく生きよ」

 背を向け、天幕から出てゆく。

「だ、大戦士長……!」

 カサがその背に追いすがろうとしたが、半ばで足を止めてしまう。

「お前が行かずとも、俺は行く」

 ガタウは歩みを緩めず、振り返りもせず、戸幕の向こうに姿を消す。


 ここ数年激動のつづいたべネスの戦士階級で、もっとも大きな事件が静かに起こり、そして閉じる。

 これより戦士階級は、再編成へと向かうであろう。

 だがそこに、ガタウの姿はない。

 残された彼らは、まだ動けない。

 この大きな異変を受けいれるには、今しばしの猶予が必要だった。

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