叛逆の獣

 誰の主はカサ。

「どうして僕だけ、みんなよりも三年も早く、こんなに怖い目に遭わなければならないんだって、ずっと思ってた」

 感情の抜け落ちた、平板な声。

「誰も、腕を喰われた僕の心を楽にする方法を教えてくれなかった。教わったのは、獣を殺す事だけ。死ぬかもしれないと思いながら、ずっとがんばった。それしか知らなかったから」

 上に五人以上の人間を乗せながら、ソワクが何とか首をめぐらせる。

 カサの顔はうつぶせになったままで、その表情は読み取れなかった。

「……ラシェだけが、ラシェの優しさだけが」

 首と膝、つま先だけで十人からの男を支えている。

「うっ、おい……」

 グラリ、カサを押さえ込む男たちの山が盛り上がり、男たちが動揺する。

「苦しむ僕の魂を、救ってくれたんだ……」

 ユサリ、人の山はさらに盛り上がる。

「ラシェだけが、僕が泣いても、優しくしてくれたんだ……」

 地面にへばりつくように押さえつけられていたカサが、いつの間にか膝立ちになっている。

――まさか……!

 信じられない。そんな動揺が男たちに拡がる。

「……ラシェのいないこの砂漠などに……」

 手をつき、上体を持ち上げる。

「だ、誰かそいつを取り押さえろ!」

 カバリが叫ぶ。

 だが、カサの上にはすでに、十人近い男が圧し掛かっていた。

「何の意味があると言うんだ!」

 大きく伸び上がり、力まかせに振り払う。

 上に乗っていた男たちがの山が崩れ、振り飛ばされて回りを巻き込み転倒する。

 絡み合って地に伏す男たちの中、カサ一人がその中央で大きく立つ。

「じっとしていろっ……!」

 慌てふためいてカサを押さえにかかろうとした男が、前歯を撒き散らして吹き飛ぶ。

 打ち据えたカサの拳が見えた者はいない。

 他に跳びかかろうとする者たちに、カサが一瞥をくれる。

 全員が踏みとどまり、後退る。

 カサの様子が、これまでとはまるで違う。

 憤怒の大立ち。

 見るも恐ろしい面相。

 触れるだけで火傷しそうな怒りの肌色。

 獣に立ち向かう時と同じく手加減なしの、荒々しい殺気を身にまとったカサは、歴戦の戦士にとってすら剣呑な存在だ。

 殴られて倒れた男は、意識を失っている。

 カサを囲んでにらみ合いがつづく。

「……ウハサンを……」

 嵐の中心のように無風状態の中心。

 そこに立つカサが、カバリに強烈な視線を投げつける。

「……ウハサンをけしかけたのは、邑長カバリではないのか」

 カバリがうろたえる。

 何を根拠にして、カサはそんな事を言うのか。

「邑長の天幕を、ウハサンが訪ねていたのを、僕は、見た」

 ほう……?

 新たな疑惑。

 ここまで無表情を保っていた戦士階級の男たち、その幾人かの顔が、厳しくなる。

 今度は視線が、カバリに集中する。

「な、何を言う……そのような出鱈目、許さぬぞ……!」

 カバリが気圧されている。

 此度の不祥事、確かにカバリの指示ではない。

 だが、カサの指摘に憶えがあるのが始末に悪い。

 焦りが顔に出たと気づき、カバリはそれを打ち消すように叫ぶ。

「下らぬ! あのような者の言葉に惑わされるな!」

 迷いが伝染しだした一同に、カバリの怒号が飛ぶ。

「一斉に行け! そうすれば手も足も出ぬ!」

 カバリの指示に従い、カサを取り囲む男たち。

 それはまるで狩りである。

 カサという獣を狩る、狩り。

 だが彼らは、狩りの作法を知らない。

「ゆくぞ!」

 男たちが威勢をつけ、一斉に跳びかかる。

 その機先を制し、カサが相手の懐に踏み込んで打擲する。

 一人、二人、あっという間に三人が打ち倒された。

 倒された者たちはいずれも意識を失い、それを眼前に見たものがしり込みして包囲が崩れる。

 背中に二人の男が飛びつくが、圧し掛かってもカサを倒しも止めもできない。

 カサはただ一心にラシェを目指す。

「ラシェ――!!」

 さらに、二人の男が打ち倒される。

 その隙にカサの両腕を封じようと、男たちが殺到する。

 カサの前進が止まりその体が押し寄せる人間に埋もれる。

――止めたか……?!

「アアアアアッ!」

 だが、カサが吠えつつ獣のように胴ぶるいすると、押さえつけていた男の大半が倒れ、吹き飛んで転がる。

「ア————ッ!」

 カサが歯を剥いて吼える。

 怒号が入り混じり、群集は手に得物を持つやら逃げ出すやらで、まるきり統制を失っている。

 跳びかかる男の一人が、手にした壺でカサの後頭部をブン殴る。

 壺は砕け、入っていた水が、カサの上半身をずぶ濡れにする。

――やったか!

 確かな手ごたえに、男がカサの顔を覗きこんで様子をうかがう。

 顎からしたたる水滴。

 ギョロリとこちらを見据え、灼けた石のごとく光るカサの目。

「ヒッ――!」

 避ける間もない。

 鼻の骨が砕けて顔の中央が陥没し、男は世にも奇怪な面相で後ろに吹き飛ぶ。

 また乱戦。

 カサの腕に、肩に、胴に、足に、すべての部位に誰かの手が絡みつく。

 カサが絶叫し、誰かがおびえて逃げ出し、誰かが悲鳴に近い声で指示を飛ばし、カサが渾身の力で押し寄せる人間の群れを振り飛ばして前進する。

 大巫女の周りの唄い手たちが悲鳴を上げながらも必死で大巫女を守ろうとしている。

 それ以外の女たちも、悲鳴を上げて逃げまどう。

 そして、ソワクも動いた。

 カサのように力任せではなく、隙を見て一気に、爆発的に動く。

「カサ! そこを動くな!」

 上に乗っている男たちを振り落とし、一気にカサに迫る。

 そして腕を大きく振りかぶり――そのとき、カサは背中に複数の男たちによって身動きが出来なかった——ソワクがバカでかい拳を叩きつけてくる。

 眼前に迫るソワクの拳、それを瞬きもせずカサはにらみ、衝撃に備えて奥歯を食いしばる。


 ゴツン。


 ソワクのばかでかい拳が、カサの背中に組みついていた男を殴り飛ばした。

 さらに返す手でカサの左腕に食いついていた男も殴りたおす。

――え?

 カサを拘束する者への突き、継いで蹴り。

 瞬く間に合わせて四人を打ち据え、ソワクが邑長派の男たちに対峙する。

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