聖性

「誰が死んだの?」

 口からその名がこぼれそうになる。

 だが今のカサに、弱音を吐く資格はない。

 ラシェがカサの肩に手をかける。そして優しく引き寄せる。

 カサの頬が、裸のラシェの胸に触れる。

「いいの、あなたが自分を許さなくても、私がカサを赦すわ」

 ラシェはカサを責めない。

 酒に任せて、ラシェを傷つけようとした事も簡単に許す。

 カサが、ラシェの腰にそっと手をそえる。

 なんて細く脆い体。

 カサは、それを壊そうとした。

 いや違う。

 人として、決して覚えてはならない衝動に突き動かされたのだ。

——あの瞬間、僕はラシェを……。

 己が内に、獣と同じ情動がある。

 そいつは憤怒と悪意という牙を以って、人間を壊したがっている。

 カサが恐怖に身震いする。

「どうしたの、カサ?」

「ごめん。ラシェ、ごめん」

「いいの。何があったか、話して」

 ラシェの優しさに、猛る獣性が鎮まってゆく。

「……カイツが、死んだんだ」

 言葉が自然にこぼれる。

「カイツって?」

「戦士長の、息子。僕が初めての狩りにいった時の戦士長ブロナーの、息子」

「息子……」

 ラシェが絶句する。

「うん。よく似ていた。戦士長が死んだのは、僕らが狩り場に勝手に入って行ったからだったんだ」

 ラシェの胸の中で、カサは目を閉じている。

「だから僕は、カイツだけは生きて連れて帰ろうって決めていた」

 瞼に力が入り、こぼれた涙が、ラシェの乳房の隙間に落ちる。

「なのに、僕は、カイツを守る事が、できなかった……!」

 ラシェがカサの頭を抱きしめる。

「邑でも指折りの槍持ちだなんて、そう言われて、きっとどこかでいい気になっていたんだ……!」

 カサの涙が、ラシェの胸元からしなやかな腹部をつたって腰に落ち、薄絹の下着にしみこんでゆく。

「僕には、何の力もない……!」

 ラシェに回した手に力が篭る。

 カサのつむじに唇を押しつけ、ラシェは優しく諭すように、言う。

「それでも、カサは生きて帰ってくれたわ」

 カサの顔を、胸にうずめさせて、ラシェ。

「帰ってきてくれて、ありがとう。ずっと待っていたのよ、私」

 感極まったカサが、大きく息を吸う。

「お帰りなさい、カサ」

 カサが、号泣する。

 言葉にならない声で、子供のように泣く。

 顔を涙と鼻水だらけにし、嗚咽する。

 ラシェはそんなカサを、優しく抱きしめている。

 膝立ちから、仰向けに身を横たえ、胸元にカサを招き入れる。

 カサは背を丸め、ラシェの腕の中で、裸の胸に顔を押しつけ、子供のように泣きつづける。

 ぼんやり見上げた空に、ラシェは月を見つける。


  夜の帳に 大きな穴が

  それが 月

  その穴に向かって 風が舞い

  その穴から砂が こぼれ落ち

  その砂が ここに降り積もる

  それが 我らのこの砂漠

  空と風と砂で出来た

  人が生きて 死ぬ砂漠


 『夜の穴』と呼ばれる唄だ。

 ラシェが唄を謡う。

 澄んだ歌声が、カサの心を、優しく優しく撫でてゆく。

「本当はね、」

 ラシェが恥ずかしそうに告白する。

「次にカサと逢ったら、抱いてもらおうと思ってたの」

「え……?」

 カサが顔をあげる。

 暁の光が、東の空を赤く照らし始めたあたりである。

「顔を見ないで。言うの、恥ずかしいから」

 ラシェは服を整えているが、二人は岩の上に横たわったままである。

 敷き布を広げ、並んで寝そべり、お互いの息遣いと匂い、体温を感じながら、ずっと抱き合っていた。

「だけどカサが跳びかかってきた時、怖くなって抵抗しちゃった」

 ラシェは照れくさそうに笑うが、カサはうなだれる。

「ごめん……」

 ラシェはふふふと笑い、

「あのね、カサ……」

「なに?」

 カサは言葉を待つが、

「……なんでもない」

 サルコリの中での出来事が汚らしく思えて、この幸せな空気を壊したくなくて、ラシェは言葉を胸に収める。

――そんなに急がなくても、いいか。

 カサが姿を現してくれた事で、ラシェは少し楽天的になっている。

 またいつかの機会に、お互いの気持ちが重なりあったときに、契れば良い。

 無遠慮に朝が訪れ、恋人たちの時間に終わりを告げる。


「……じゃあ、カサ」

 寂しそうに笑うラシェ。

「……うん……」

 名残惜しそうなカサ。

 ずっとこのような黎明を、二人は迎えつづけてきた。

 それすら、いつまでつづくか分らない逢瀬であったのに。

 消えてゆくラシェの背中を、カサは飽きもせず眺めている。

 その視線を背中に感じながら、ラシェは想われる幸せをかみ締めている。

 やがて関係が終わるとを知りながら、この幸せがいつまでもつづくものと二人は疑いさえしていない。

 二人の秘せし蜜の刻限の終焉が、すぐ傍まで迫っている事にも気づいていない。

 朝陽が昇り、長い夜を駆逐してゆく。

 ラシェの細い体躯が朝陽の中に溶けてゆく。

——ラシェ。

 ブルリと身震いを覚えた。

 カサは己に怯える。

 ラシェを組み敷いたあの時、心の奥底で、金の眼をしたあいつが言ったのだ。

——ああほら見ろ、なんて旨そうな……。


  肉だ、と。


 この夜が、カサとラシェが二人きりで忍び逢えた、最後の夜となった。

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