獸性

 戦士たちが帰ってきた夜から幾晩たてど、カサは現れなかった。


 戦士階級の動向など、すぐにサルコリに伝わるものではないし、聞いてまわる訳にもいかない。

――どうして来ないの、カサ。

 もしや、カサの身に何かあったのではないか。

 だとすれば、それは命にかかわる事なのだろうか。

 ジリジリと心を焼く恐ろしい想像に、ラシェは焦り始める。

 前にカサに会ったのは、狩りの遠征に行く前夜であった。カサの背に背をもたせ、腕に絡みつき、睦みあった夜が、まるで百年も昔の事に思える。

「もしも僕が死んだら」

 カサはあの時、そう言った。

「気にせず、他に誰か見つけて」

 自分が死ぬのが、決まった事のように言うのが、ラシェをひどく慌てさせた。

「やめて」

 ラシェはあの時どんな顔をしていたのだろう。

「絶対に、死なないで」

 カサの顔を両手で挟み、瞳を自分に固定して、ラシェは言ったはずだ。

「絶対に死なないと、約束して」

 長い逡巡のあと、カサは

「――うん」

 そう肯いたはずだ。

 だから、カサは絶対に死んでいない。死んでいるはずがない。ラシェが強引に結んだ約束だとしても、カサがそれを破るはずがないのだから。

 だが次の夜も、その次の夜も、カサは来なかった。

 募る焦りに、心の中でもがきつづけるラシェ。

 その次の夜も、カサは来なかった。

 半ば諦めの気持ちがラシェの心を占めはじめ、そんな事はない、カサはまだ生きていると抗う部分を押しつぶそうとする。

 その次の夜も、カサは姿を見せようとはしなかった。

――今晩も、来ないか……。

 それでも。朝まで待つだけは待ってみよう。

 どうせ天幕に戻っても、この事ばかり考えるに違いないのだ。

 来なければまた明晩待とう。

 明晩もこなければ、明後晩またここで待とう。

 大きく満ち始めた月に、ラシェがそう呟いた時である。

 カサが姿を現した。



 酒に曇った浅い眠りから覚めると、強い喉の渇きを覚えた。

——ひどく喉が渇く……。

 夜具を払いのけ、水を張った甕を取る。ヨッカが火傷の始末に使ったため、水は少ししか入っていなかった。仕方なしにそれを飲み干すが、喉の渇きはしつこくカサをいたぶる。

——喉が渇く……。

 グラグラと頭を振り、天幕から這い出す。

 月の大きな夜だった。

 満月が近い事すら、いや、今が夜である事すら、カサは判っていなかった。

 昼とも夜ともつかぬ、後悔と心痛に身を浸しつづけた時間。

 眉間の奥の強い疼きは酒の所為か、それとも己を攻めつづけた重圧の所為か。

——ひどい渇きだ……。

 内腑がむかつき、心が逸る。

 よろめき、つまずきつつカサが歩き出す。

 冷たい夜気にさらされ、喉の渇きは引っこんだ。

 代わって覚えたのは、心の渇きである。

——今、僕の渇きを、最も癒してくれるのは、

 カサが無防備に歩く。

 足取りあやしく、途中二度転んだ。

 だが転んだ事も、立ち上がってまた歩き始めた事もおぼろげだ。

 意識はすでに、求める人の所に飛んでいる。

 緩やかな丘を越え、平たくなった岩の上に、その人はいた。

 ひどく頼りない足取りで、カサはそちらに歩く。

 向こうも気づき、こちらに駆けてくる。

 伸ばした手が、相手に届く前に、もう一度転ぶ。

「――カサ!」

 助け起こされる。

 花の匂い。

 そうだ、この人はいつも、こんな匂いをさせていたっけ。

 涼しげな顔。

 瞳が潤んでいる。泣いているのかもしれない。

 どうしてこの人は泣いているのだろう。何か、悲しい事があったのだろうか。

「カサ、大丈夫? カサ?」

 肩をまわされ、岩の方に連れて行かれる。

 どうしてそんな事をするのだろう。

 僕は、座りたい訳じゃない。

「カサ、お酒飲んでるの?」

 飲んではいけないのか? 飲んでも飲まなくても、カイツは死んだ。

 もう生き返らない。

「カイツって誰? カサ、変だよ……どうしたの? 手を、ケガしたの?」

 関係ない。僕は生きていてはいけない人間なのだから、もう逢いに来ないほうがいい。

「……どうして、そんな事、言うの……?」

 僕といると、死んでしまう。みんな死んでしまう。

 ヤムナも、ウォナも、ソナジも、戦士長も、

「……カサ……?」

 カイツも。

「カサ……!」

 揺すらないで。頭が痛い。

「あ……ごめ……」

 どうせみんな死ぬんだ。

 僕が殺すんだ。残ったこの腕も、獣に食いちぎられて、喉を食い破られて、頭を割られて、腹を引き裂かれて、

「カサ!」

 死ぬんだ。

 僕の目の前で。いつか大戦士長も、僕を助けられなくなる。

 だって、大戦士長は、僕を見捨てたんだもの。

 ソワクだって、死ぬ。

 ソワクの槍には、ブレがある。この間気がついたんだ。

 ソワクは腕の力に頼りすぎる。もっと腰を矯めないと。

「カサ!」

 うるさい。

 頭が痛い。

 ヨッカだって死ぬ。

 ヨッカはいつも僕の傍にいてくれる。

 僕がつらいとき、いつも力を貸してくれる。

 だからヨッカも死ぬんだ。

「カサ!」

 死んで欲しくないんだ。

「カサ!」

 大きい声を出さないで。

「カサ! しっかりして! カサ!」

 うるさい! 押しのける。あっさりひっくり返る。なんてもろい。そんなにもろいと、簡単に死んでしまう。僕がこうやって押しただけで、服が裂けて、胸元がはだけて、中から薄絹の下着が覗いている。

 ああ喉が渇く。

 酷い渇きなんだ。

「……カサ?」

 薄絹をつかみ、引き裂く。ほら破れた。なんてもろい。

「や、やめて! カサ!」

 暴れる。押さえつける。引き寄せ、手を這わせる。

「カ、サ……やめ、て……!」

 いい匂いだ。隠そうとする腕をひきはがし、素肌の敏感な箇所に、包帯を巻いた手が触れる。

「――!」

 抵抗がなくなった。どうしたのだろう。死んでしまったのだろうか。


  死んだ?


  誰が?


  誰が死んだの?


  ラシェが。


――嘘だ。

「……ラシェ?」

 ラシェが、泣いている。どうして?

――僕が?

 やっと自分のした卑怯な行為を理解する。

 脳天から冷水を浴びせかけられたように酒精の砂嵐が晴れる。

「ラシェ?」

 ラシェが泣いている。

 はだけた胸元を隠そうともせず、横たわっている。

 慌てて顔を背けるが、印象は強烈で目に焼きついている。

 あまりにも美しく、痛々しい裸体。

 カサはラシェを見ないようにして、服の前をとじて肌を隠す。

「カサ……?」

 しゃくりあげながら、ラシェがカサを見る。

「ごめん、ごめん」

 カサが震えながら前髪を握りしめる。

 強く閉じたまなじりが、カサの後悔の強さを物語っている。

 ラシェが膝立ちになる。乳房がこぼれ見えて、カサはきつく瞼を閉じる。

 自分の中に燻る、身勝手な欲望の火が蠢くのを感じる。

「ああ、ごめん、ラシェ、ごめんよラシェ」

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