酸鼻

 すべてが瓦解する。

 カサが何としても回避しようとした、あの呪わしい夜。

 あの夜の、カサと同じ悪夢を引きずっている者が、ここにもいた。

 トナゴ。

 腰紐抜けのトナゴ。

 臆病者の肥満男。

 その男が、またも背を向けて逃げた。

 獣が背を向けた者を追うのは、子供でも知っているのに。

 カサが全精力をあげて抵抗してきた悪夢から、だがトナゴは逃げつづけてきたのだ。

 つまり、再びあの夜と同じ状況となれば、トナゴはもう一度同じように逃げるに決まっていた。

 だからトナゴは逃げる。

 あの夜と同じように、槍を放りだし背を向けて。

 そして、あの夜と同じように、獣はトナゴの背を追いかける。

 餓えてギラついた目で、唾液に濡れた牙を剥き出しにして。

――くそっ……!

 カサが槍を突きこむ。

 狙いはたがわず獣の膝を射抜いたが、前肢を用いて移動する獣の勢いは止まらない。

 よろめきながらもトナゴの背に殺到し、鋭い爪でトジュごと背中を浅く裂く。

「ギヒエッ!」

 つぶれた悲鳴を上げて、トナゴが倒れる。

「クッ……!」

 カサは槍に体重をかけ、獣を押さえこむ。

「ゴウアッ!」

 縫いつけられた左膝を支点に、獣がまわりこむ。

 そして、

 そこに、カイツが鉢合わせる。

 獣の前肢が上がり、その爪が、まだ幼さを残す戦士の頭上から、緩慢に、叩きつけられる。

――……!!

 なす術もない、一刹那。

 時間が圧縮され、

 そして、

 止まる。


 「エ……?」


 血飛沫が舞う。

 小さな体が半回転し、砂の大地に倒れる。

 力の抜けた手から、槍がこぼれる。

 土煙があがる。

 獣が圧し掛かり、その牙をカイツの体に

 その柔らかな肌に、己の牙を


 ゴォンッ!


 喰い千切る紙一重。

 横合いからの槍が獣のこめかみを右から左へ貫いた。

 真っ黒な槍先。

 槍を持つは、腰だめにかまえた黒き影。

 放心したカサは、目の前の光景を、理解できない。

「大戦士長……!」

 うめくように口にしたのは、戦士長セリブ。

 だがカサはその声を聞いていない。

 周囲を取り巻く戦士たちを、見ていない。

 ただ目に映るのは、血まみれで横たわるカイツの体。

 動かなくなった、小さな体。

 さっきまで笑っていた、あのブロナーの息子。

 カサを慕い、うるさい位にまとわりついてきていた、戦士になったばかりの少年。

「カイツ……?」

 乾いた声でカサが呼ぶ。カイツは答えない。うつぶせに倒れたままだ。

「……カイツ?」

 呆けたカサの呼びかけに、カイツは、答えない。

 血まみれで横たわったままだ。

 よろめきながら、カサはカイツに歩み寄る。

 その傍にひざまずき、仰向けにさせ、倒れた体を起こす。

 左頭部から袈裟懸けにたたきつけられた爪は、顔を引き裂き、首筋をえぐり、胸元中央から右わき腹まで、巨大な損傷を刻んでいた。

 カサの腕の中の体にはまだ体温が残っているのに、肌は既に血色を失い、見開かれた目は運動しておらず、呼吸も止まっている。

 カイツが、死んでいた。

 流れ出た血が、カサの腕を濡らし、体温を奪ってゆく。血は流れているが、脈はすでにない。

「カイツ」

 揺さぶる。カイツは死んでなんかいない。ただ出血して気を失っているだけだ。

「カイツ、起きてカイツ」

 血が、たくさん流れている。

 このままでは危ない。出血を止めないと。

「カイツ? 起きなきゃ、カイツ?」

「カサ……!」

 苦渋のラハム。

 間際にガタウを呼ぶという選択が裏目に出てしまった。

 もし自分がカサについていれば、別の結末もあり得たのだ。

「誰か。カイツの血を止めて。このままじゃ死んじゃう」

 カサはまだ、カイツの死が受け入れられない。

 同じ痛みをラハムも知っている。

 戦士長みんなが知っている。

 だからラハムはカサに言う。

 これを言うのは自分の仕事だ。

「カサ……!」

「ラハム、カイツが死んでしまう。早く血を止めないと」

「クッ……!!」

 子供のように不安げなカサの仕草がラハムの胸をえぐる。

 悔やんでも悔やみきれぬが、ここで立ち止まらせてはいけない。

 カサは戦士長なのだ。

「戦士長カサ!」

 カイツを抱くカサに向かい、腰をおろしてカサの肩をつかむ。

「ラハム、お願いだ早くラハム」

 悪戯がばれた子供のような、頼りないカサの態度。

「戦士長カサ……!」

 ラハムはカサの肩を持つ手に力を込める。

「何してるの? カイツが死んじゃうよ」

 カサの目はカイツもラハムも見ておらず、ただカイツを失う恐怖に怯えている。

「戦士長カサ!」

「早くして! 早くしてよラハム!」

「戦士長カサ!」

 ラハムは力の限り肩を揺さぶり、その頬を叩いて叫んだ。

「戦士カイツはもう死んでいる!」

 カサは絶句し、ラハムの目を見、カイツに目を落とし、もう一度ラハムを見る。

「戦士カイツは、もう、死んでる!」

 カサはただ呆然とラハムを見る。

「死んでるんだカサ! 見ろ! もう息をしていない! 心臓も動いていない! カイツは死んだのだ!」

 愕然と、呼吸をせず冷たくなってゆくカイツの身体を見おろす。

「死んだ……?」

「死んだんだ! カサ! カイツはもう死んだんだ!」

 カサは、泣いていた。

 無表情にカイツを抱き、命とともに流れ出た血を浴びて体中真っ赤に染めながら、泣いていた。

「カサ……」

 ラハムが血を吐くように苦しげに、

「……済まぬ」

 カサに詫びる。その目にも涙。

 血の気の引いたカイツの体。

 カサが嗚咽を漏らす。

 ラハムも悔恨の涙を落とす。

 すぐそばには、カイツの命を奪った獣の屍と、それを仕留めたガタウ。

 そして、続々と集まってきた、彼らを取り巻く戦士たち。

 それはあまり悲痛な情景であった。

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