愚物
そして、最悪の事態が発生する。
夜通しエサを探し求め、獲物をえられなかったコブイェックと、出立前の戦士たちが遭遇したのである。
最初に遭遇したのはセリブ隊。
よりによって、カサのすぐ隣の五人組であった。
後発のカサたちが追いついた時には、すでに一人犠牲者が出ていた。
肩口を引き裂かれ、片腕が血まみれの戦士が倒れている。
セリブの隊の戦士だ。
他の四人が獣と相対し、倒れた戦士を囲んで守る。
――餓狂い、それも完全に我をなくしている。
目は濁った金色、餓えて狂乱した獣、開いた口から粘りの強いよだれが糸を引いている。
――こちらを喰らう気だ……!
食欲が、戦士たちに向いている。
カサが飛び出して獣の鼻先を塞ぐ。
これがいけなかった。
その時カサについてきた戦士は二人。
それもよりによって、カイツとトナゴ。
トナゴはいつものように、カサよりも二歩は下がった所にいる。
ある意味、これは正しい選択だった。
だがカイツは、カサの真横に並んで槍をかまえたのだ。
「カイツ! 下がれ!」
「で、でも戦士長……」
「下がるんだ!」
「俺だって戦えます!」
若造が何を言うのか。
相手はコブイェック、それも餓えに猛り狂った個体である。
相手としては最悪の部類だ。
「下がるんだ! 戦士長の命令が聞けないのか!」
カイツが口惜しげに黙り、一歩下がる。
カサが、カイツとトナゴをかばうように、立ち位置をずらす。
その動きを敏感に感じ取った獣が、カサたちの方に牙を向ける。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
腹の底から絞りだされた吼え声。
地面が振動するような大声量。
食欲に粘つく唾液が、カサの頬にかかる。
距離が近い。
接しすぎて、カサすら動けない。
獣が狙うは、カサたち三人。
しかも援護はなく、実質獣に槍を突けるのはカサただ一人。
これほど絶望的な狩りを、誰も経験した事がないだろう。
いや、カサとトナゴは経験している。
奇しくもカイツの父親、ブロナーと今のカサは、全く同じ立場にいるのである。
――何て事だ……!
なくした右腕が痛み出す。
――あの時と同じだ。
この右腕を喰らった飢狂いのの記憶が、またカサを闇に引きずり込む。
心が千ゞに乱れ、視野が狭窄し、ラハムがいない事にすら気づかない。
泰然と状況を掌握できない。
交錯する獣とカサの視線。
時々チラチラと動く獣の瞳に、狙いをカサではなく弱いカイツに向けている。
――そうはさせない……!
この身が滅んでも、カイツだけは生きて帰らせる。そう決めたのだ。
カイツだけは、殺させない。
何を犠牲にしても。
だがその覚悟が逆にカサの心と体から柔軟さを奪う。
カサは槍をかまえ、一撃で相手の膝を縫いとめる姿勢にでる。
まだ獣は立ち上がっていない。
四足でカサたちを伺っているのである。
これでは一の槍が突けない。
「ゴフッ…、ゴフッ…、ゴフッ…!」
荒い息。
空腹に狂った獣の目。
金色の二つの光。
――無理だ。
理想は最初の狩り。
カサが相手の動きを全て制することだ。
だがこの獣は、興奮しすぎている。
飢えと怒りで、正常ではない。
最初の狩りも剣呑だったがその比ではない。
獣を立たせるためには、まず槍先を脅威に思わせねばならないのだが、ここまで昂ぶっていては無理だ。
せめて槍の数だけでも揃えば、周囲を囲んで動揺を誘えるのだが、応援の手は四方に全く見えない。
――なぜ誰も来ないんだ……!
焦燥で噴き出した脂汗で手がヌルつき、目に沁みる。
まさしくブロナーと同じ状態に陥っていた事を、カサは知る由もないだろう。
深呼吸をひとつ。不完全な状態ながら、カサは獣に槍を突きこむ覚悟を決める。
――この一撃で決めねば、みなが死ぬ。
冷汗が、背中をべっとりと濡らす。
――落ち着け。
呼吸を、低くする。
――落ち着くんだ。
ジリ。
カサは槍をかまえる。
狙うは、ただ一箇所。
心臓。
正面から一撃で獣を無力化できる、唯一の場所。
カサの背後で、カイツとトナゴが、獣との間に緊張が高まってゆくのを、感じとる。
そしてカサが少し、前方に体重を移し、一の槍を、突こうとしていた、まさにその瞬間、
「ヒアアアアアアアアアアアアア!!!」
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