禍兆

 だがその決意とは裏腹に、カサを動揺させる事件が、ついに起こった。

 発端はウハサン。

 時は朝。

 場所は、狩り場の宿営地であった。



「おいカサ」

 背後からウハサンに呼ばれる。

 えらくにこやかな態度に、カサは内心身がまえる。

――何をしに来たんだ。

 笑顔の下には、裏がある。

 折りしもその日、狩りへの出発の直前であった。

 朝の気だるいさざめきが戦士たちを被う中、いったいカサにどのような用があるというのだろう。

「元気か?」

「うん」

「俺もだ」

 貼りついたような笑み。

「驚いたよ、カサ」

 たまらなく嬉しそうに、ウハサンが言う。

「まさか、相手が」

 その先の口の動きが、カサにはまるで、水の中で揺らぐ茶葉のように緩慢に見える。

「サルコリだったなんてなァ」

 その言葉に、最悪の想像がカサの全身を駆けめぐる。

 足元が崩壊し、落下するような浮遊感。

 地面が大きく傾いたように思えた。

「お前も案外」

 ウハサンが親しげにカサの肩をたたく。

「火遊びが好きだな」

 ウハサンはそのまま去ってゆくが、残されたカサの頭の中では、彼が残した言葉が渦巻いている。

――サルコリだったなんてなァ。

 耳鳴りがする。

――サルコリだったなんて。

 破滅のうなりが、耳の横まで迫ってきている。

――サルコリ。

 喉が、やけに渇く。

――ラシェ……!

 平穏で幸福な時間が、今、終わる。



「戦士長?」

 すぐそばでカイツが呼ぶ声を、カサは聞いていない。

 そろそろ狩りに出ないと、隊列に加われない。

 立ちすくむカサを急かすために、カイツは声をかけたのだが、

「どうしたんですか? 戦士長」

 カサの目には、何も見えていない。

 どこか遠くを見てはいるが、そちらには何もない。

 おぼつかない足取り。槍を握りしめた手が震えている。

 カイツはラハムに助けを求める。

 だがラハムが顔を覗き込んでも、カサの様子は変わらない。

「戦士長。どうした戦士長」

 肩を揺すると、怯えたように振り返る。

 ひどく動揺している。

「あ……」

 そこに至ってようやく、三人の部下が、全員怪訝な眼でカサを見ているのに気がつく。

 カイツやラハムは言うまでもなく、トナゴまで妙だといった顔でこちらを見ている。

「どうした。何かあったのか?」

「いえ……」

 カサはあわてて目をそらし、何かをふり払うように首を振る。

「なんでも、ないです」

 何とか平静を装うが、動揺は隠せない。

 早足で歩き始めるカサを追いながら、ラハムはカイツを呼びつけ、

「バーツィの所に行ってくる。カサから目を離すな」

「は、はい!」

 ラハムは小走りで使いに出る。年に似合わぬ身の軽さだが、動きには焦りがある。

――これは、由々しき事態だぞ。

 いくらカサが優秀な槍持ちとて、あの様子では事故も起こりうる。

――となると、バーツィとリドーが狩りを主導する事になるのか……。

 となると危険な一の槍と終の槍、どちらにも不安がつきまとう事になる。

 二人とも、優秀な槍持ちだが、カサやソワク、ガタウといった面子よりも、槍際の安定性では落ちる。

 そして何より、リドーは二十五人長になって日が浅い。

 経験が絶対的に不足しているのである。

 ラハムが槍を持てれば。

 そうも考えたが、衰え著しい自分では、リドーと似たようなものだろうと歯噛みする。

――ガタウが力を貸してくれれば良いのだが……。

 言っても始まらない事ばかり頭の中を駆けめぐる。

 生半な理由では、ガタウは手を貸そうとしないであろう。

 このような事態も、カサが一人で越えねばならない試練と判断するかもしれない。

――せめて後衛にまわってくれぬものか。

 ふと、苦しまぎれに考えた。

――後衛、か。

 良い考えかもしれない。

 二列目にガタウがいれば、危うい狩りも確実さを増す。

 何か事故が起こっても、被害が最小限で抑えられる。

――そうと決まれば、まずバーツィに話を通さねば。

 ラハムが走る。

 嫌な予感が、老いた戦士の胸の内を、黒く焦がしている。

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