解放
「ラシェ……」
恋人の求めに、戸惑うカサ。
「腕よ。私に見せるの」
ラシェは優しくも強硬だ。
「だ、駄目だよ……許してラシェ」
「カサ、手をのけて」
カサは黙したまま、固く握りしめた手をどけようとしない
「カサが、失くした腕の事で苦しんでいるのは知ってる」
カサは聞きたくなかった。
ラシェの言わんとしている事は、カサが、常日頃から決して考えまいとしている事だ。
「でも、私を信じて」
「やめて!」
「カサ。私を見て」
「嫌だ……!」
ラシェはカサを見つめる。
「どうしてそんなにひどい事を言うの?」
カサが叫ぶ。
ラシェは驚く事もなく、荒げたカサの声を受け止める。
「腕がない事なんて……」
泣きながら吐き捨てる。
「僕が一番知っている!」
一流の戦士といわれたカサだが、我々の社会ならまだ十代半ば、その心は完成しておらず、サナギから脱皮したばかりのスナマユ蝶の羽根のごとく崩れやすい。
ラシェとて傷つける気はない。
カサの痛みはラシェの痛みだ。
だがここでカサを再び殻の中に閉じこもらせてはいけない。
「僕は醜い。僕は腕がないから、本当は邑に居てはいけないんだ」
だからラシェは、カサの痛みに我が身を投じる。
「大戦士長も、片腕よ?」
ラシェの声が、ささくれたカサの心をを優しくいたわる。
「だけど誰も、大戦士長を醜いなんて言わないって、カサは言ったわ。それは、カサが大戦士長を醜いと思っていないから。私の言葉、カサになら解るはずよ」
カサは何も答えない。
「カサ」
ラシェは寄り添い、懇願する。
「怖がらないで、私を、信じて」
誠実さだけをこめた瞳で、恋人の心を引き寄せる。
「砂漠の全てが貴方を裏切っても、私だけは、信じて——私は、この砂漠で唯一人、カサになら殺されてもいいと想っている、一人の女よ」
その目には、我が身全てをカサに授けた意志の強さが現れていた。
名もなき風。
カサの左手が、ゆっくりと下がってゆく。
少しだけ、欠けた部位があらわになる。
緊張で息が荒い。
ラシェが両手を、伸ばす。
カサの腕に、触れる。
「アウッ……!」
熱すぎる物に触れたように、顔が苦痛に歪む。
「大丈夫」
ラシェの優しさに、カサは逆らえない。ゆっくりと、力を抜く。
ラシェは慈しむように、カサの右腕を撫でさする。
「ああ!」
カサがうめく。
左手はトジュの膝を、これ以上ないほどきつく握りしめている。
痛みや痒み、疼き。
大きなケガの痕は、感覚が敏感になる。
そしてそこを触れられる事に、カサは慣れていない。
ラシェは手を離し、カサのトジュ、外気に触れぬように包まれている左腕の布を、解きはじめる。厳重に巻きつけられた布のすき間から、やがて左腕が見えはじめる。
「ラシェ、恥ずかしいよ……」
そして欠けた右の腕が、露出する。
「ああっ」
カサにとって獣に食いちぎられた腕を見られるのは、裸の姿を見られるよりも恥ずかしい。
「カサ」
上半身もろ肌脱ぐ形になったカサの右腕を、ラシェは優しく持ち上げ、
「ウッ」
傷口にそっと、そして長く口づけする。
柔らかな唇が、カサの一番大きな傷に、カサの心の最も痛む所に、温かく触れる。
「もうつらくないわ」
ラシェは優しく言う。
「カサの右腕は、愛おしいカサの一部なのだもの」
――ああ。
カサの首筋に、ずっと篭っていた力が、抜けてゆく。
それは、ずっとカサが抜く事のできなかった力。
「私にとっては、カサの全身の傷一つ一つが、いにしえの歌のように美しいわ」
それは、腕を失ったその日からずっと篭りつづけていた力みだった。
――ここを見ると、誰もが気味悪く思うに違いない。
だから誰にも見せる事が出来なかった。
特に、ラシェにだけは見られたくなかった。
――ああ、ラシェ!
熱い吐息。
力が抜けてゆく。
今、カサはようやくカサは解放された。
ずっとカサの魂を束縛していた、カサ自身の心から。
それは、まだ完全な解放ではない。
だがこの瞬間から、カサの魂の解放が始まるのだ。
ラシェが、カサを抱き寄せる。
この砂漠に数多の人間がいて、だけどがんじがらめになったカサの魂を解き放てるのは、愛しいラシェただ一人なのだ。
カサは心と体、そして胸のうちでずっと泣いていた少年の涙も開け放し、全てをラシェにゆだねた。
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