瑕跡の疼き

 コールアは不機嫌であった。

 原因はもちろんカサである。

 あの日、コールアの自尊心は大きく傷つけられた。

 これまで男性に拒否される事などなかったコールア、それをまるで邪魔者のように扱ったカサに、コールアは激しくいきどおっていた。

――許さない……!

 コールアは荒れている。

 目の前にいるどんな人間に対してもきつく当たり、時には手を振りあげる。

 邑長の権威を嵩にきておこなわれる理不尽な暴力にもの申せるのは、邑長をのぞけば戦士階級の者ぐらいのものであろう。

――絶対に、許さない……!

 この時も、前を横切った水を運ぶ女を突き飛ばしたばかりであった。

 女は悲鳴をあげて倒れ、桶を落とし、ぶちまけられた水と泥にまみれるという醜態を演じてみせた。

「邪魔よ」

 睨め下ろして言い放つ。

 女のおびえる表情に、わずかに満足を覚える。

 それでもコールアの気分は晴れない。

 当たり前である。

 苛立ちの大本であるカサはその瞬間も、のうのうとどこかで女と会っているのかもしれない。

 それを考えると、コールアの怒りはさらに膨れあがる。

――お前は一体どこの女と会っているの?

 見知らぬカサの恋人に、コールアは嫉妬する。

 全く気にならなかったカサの女が、どうしてこれほど心に引っかかるのか。

 それは一体、誰なのか。

 この自分を邪険にしてそちらを選ぶとは、どんな女なのだろう。やはり以前話に聞いた、エルであろうか。

 ありえる、と思う。

 エルははつらつとして美しく、それはコールアにはない魅力である。

 もしもカサがエルのような女に惹かれる性質ならば、コールアに対する冷たい仕打ちも納得できる。

 それとも、別の女だろうか。

 それは一体どのような女なのだろうか。

 顔は美しいのだろうか。よく仕事をするのだろうか。よく気がつくのだろうか。

 コールアは煩悶する。

 カサが気になる。

 その全てに気を取られる。

 こんな気持ちは初めてであった。

 ヤムナでさえ、これほどコールアを惹きつけはしなかった。

 今まで欲しいものは全て手に入れてきたコールアに、ただ一つ手に入れられないもの、それがカサなのである。

 手に入れられない鬱屈が、また欲求を膨らませる。

 螺旋を描いて木をのぼるツノ蛇のように、コールアの欲は募ってゆく。

 衝動に堪え切れず、その日もコールアはカサのもとにゆく。

 冬営地の、少しはずれ。

 また、槍を突いている。一心に汗を流すカサ。

 以前は忌々しく醜く思えたその姿に、何故こんなにも惹き寄せられるのであろう。

 コールアが傍らにあれど、カサがこちらを向く事はない。

 コールアが幾ら望めど、カサが振り向く事はないのである。

 甘く、切ない欲求。

 今までの男とは、根本的に違う。

 カサは、コールアに魅力を感じていない。

 何故? 邑の男たちは誰もが、彼女の顔にも、体にも、心を奪われているというのに。

 コールアは解っていない。

 カサという人間の本質は、とても臆病なのだ。

 欲望に任せて迫れば、身をかわすのがカサだ。

 体は発達しても、カサの中心はまだ少年なのである。

 心が未熟な段階で、戦士階級という禁欲的な社会に放りこまれ、そこで生まれた欲望の受け止め方も発散のしかたも知らない。


「フッ!」

 ドシンッ……!


 最後に一つ、力の限り突き込み、そのままの姿勢で残心する。

 ジン……。

 身体を奔る衝撃、目蓋を閉じると、汗がひとしずく顎から落ちた。

 何もかもが静止した一瞬。

 グイ、と押し込んだ石の槍先。

 脳裏では、怒り狂う獣を仕留めている。

 この瞬間、カサは純粋な一本の槍であった。

 それは、戦士たちが真実の瞬間と呼ぶ心持ちである。

 喩えようもない静けさと、刹那すべてを閉じこめた美しさ。

 コールアは一瞬、カサの姿に魂まで奪われた。

 その時、攻撃的で自己中心的なコールアの自我は消え、ただカサを見つめるだけの存在になっていた。

――何故こんな気持ちになるの……?

 コールアは戸惑う。

――何故こんな気持ちにならなければならないの……?

 苛立ちまじりの感情。

 人より上から物事を見るのが当たり前のコールアにとってこれまで、他者を敬う気持ちは忌むべきものであった。

 カサが息をつき、ふり返り、コールアに気づく。

 先手を取って圧倒すべしと構えていたコールアだったが、この時は羽化したての蝶の羽のごとく脆く無防備で、頬を染めてうろたえる。

「コールア……」

 カサが警戒する。

 その表情にコールアは傷つき憤慨する。

 それがカサだとはいえ、たかだか戦士にそんな顔をされるなど、コールアには許せない。

「どう、して……どうして逃げたの?」

 どうにか言葉は発したが、カサには響かない。

「腰紐抜けね。女から逃げるだなんて、優秀な戦士だというのも、どうせ噂だけなんでしょう?」

 そんな事を言いに来た訳ではないのだが、無視を決めこむカサに、コールアの口は止まらない。

「ヤムナを殺した事、みな忘れてないわよ」

 帰る用意をしていたカサの手が止まる。

「……僕だって、片時も、忘れた事はない」

 そして去ってゆく。

 拒絶する背中を、コールアは追えない。

 ヤムナの事などまるで思い出していなかった。

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