捕食者
カサはいつものように砂袋に向かっていた。
修練に集中し、槍と標的しか見えない状態。
この時間だけ、カサは全ての憂いから開放される。
その集中力こそが、槍をもてばガタウに迫るといわれるほどの、カサの強さの根源だ。
二刻もの間その状態がつづき、ひと息ついた時である。
「熱心ね」
すぐ傍で、声。
そこに、コールアがいた。
白と黒の鮮やかな衣装。腰の高い位置で刺繍入りの帯を固く結んだ姿は、邑の人々の着物に比べて明らかに華美で、生まれの高貴さをかもし出している。
「もう終わり?」
カサは何も答えない。
ただコールアの狙いを推し量るように、黙って相手を見つめている。
「何か答えなさい」
無視を決め込もうというのだろう、カサはコールアに背を向け、また槍の鍛錬に戻る。
「待ちなさい」
コールアが苛立つ。どうしてこの男は、自分に対してこれほど無礼に振る舞えるのだろう。
そんな事は許せないとばかりに、精一杯おちついた声音を作り、コールアがカサに言い放つ。
「あなたなんかに、可愛い恋人がいたものね」
――可愛い、恋人?
とっさにラシェの姿が脳裏に浮かび、カサに警戒がはしる。
寸時コールアは、優位に立った喜びに浸る。
だがその直後、そのカサから突き殺さんばかりの視線を向けられ、嗜虐的な歓びは、一気に腹の底まで冷え込むような恐怖に変質する。
頭上の空のように青い目。
その青が、射抜くようにコールアを刺す。
「な、何よ」
装束の下で、膝が震えるのが判る。
生まれて初めて、コールアは死の恐怖に接した。
カサの内部に蠢く暴力性に初めて触れ、その手に下げられた槍が、今にも自分を貫くのではないかという恐怖にとらわれる。
逃げ出したい衝動を抑えたのは、コールア自身の強い自意識。
そんな無様な姿は、自分自身が許さない。
――私は、全ての男に美しいと崇められるべき女なのだ。
「この話、みんなに知られたくないんでしょ?」
カサの殺意がつかの間揺らぎ、それから槍先の先端のごとく鋭くなる。
だが、もうコールアはひるまない。しかとその視線をとらえ、
「黙っていて欲しかったら、今晩私の天幕に来なさい」
それだけ言うと、さっさと踵を返して立ち去る。
その背を、なす術なくにらむカサ。
一方のコールアも、怒り狂ったカサが背後から襲ってきやしまいかと、心中穏やかではない。
カサから充分に離れたと判断し、人目の多いカラギ(食糧管理階級)のセイリカ(大天幕)の隙間で、コールアはようやく胸をなで下ろす。
――上手くいったようね。
どっと冷や汗が背筋を濡らす。
結局グラガウノの娘たちからは大した話を引き出せず、色々訊いてまわったものの、カサの逢引相手どころか、毎夜外出しているのかどうかすら判らなかった。
だが、今は確信している。
――あいつには。絶対に女がいる。
あの様子では間違いあるまい。
それもどうやら、道義に反した関係のようだ。
だからこそ隠れて逢うのであろう。
――これは、姦通ね。
すぐさまそう考えたのは、コールア自身が妻帯者との情事を好むからだ。
それにしても、コールアはまた身震いする。
――あんなに恐ろしい奴だったなんて。
いつもおとなしく見せておいて、激した時のあの鋭利な目。
ずっとまとわりついていた退屈などどこへやら、コールアは思い出して興奮する。
――つまらない奴だと思っていたけれど。
カサへの欲求が、彼女の中で飢えたな獣のように膨らんでゆく。
久しぶりに、夜が待ち遠しいとコールアは感じている。
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