母堂
薬湯を飲ませて次の朝日がのぼるころ、母親が意識を取りもどした。
「ラシェ……?」
「お母さん!」
顔色もよく容態は安定しており、山は越えたと、ラシャはようやく安堵した。
「少し寝なさい、ラシェ……」
「うん……! うん……!」
ラシェは泣きながらうなずいた。
――ラシェのお母さんは、大丈夫だったのだろうか。
翌日のカサは、ずっとその事を考えていた。
ガタウに迷惑をかけてしまったが、カサが詫びつ礼を言うと、
「うむ」
いつも通りの返事をした。
そのガタウにもちゃんとした報告がしたかったのだが、それにはまずラシェと会わなければならない。
夜、カサはいつも待ち合わせしていた岩の上で待った。
薬を渡した場所で待ったほうがいいかと思ったが、礼を言いたければこちらにも寄るだろうと、やはり岩の上で待つ事に決めた。
ラシェは来なかった。
薬が効かなかったのか、母親の看病で忙しいのか。
それとも母親が元気になり、もうカサに会う必要もないと思ったのか。
――ラシェが笑っていられるのなら、それでもいい。
待ちぼうけを食わされても、カサはもう鬱々としていない。
誰かの役に立てるのは嬉しい事だし、それがラシェならばなお良い。
そもそも礼が欲しくてした事ではない。
一日分だけ欠けた月が、カサを見下ろしていた。
翌日の昼、食休みの間に、ソワクが鍛錬するカサのもとに来た。
ガタウへの挨拶もそこそこに、ソワクがカサにつめ寄る。
「お前、エルに何したんだ?」
その声に、険しいものがある。
「え?」
「エルの奴が、凄く怒っているらしい。ゼラが話を聞いたら、お前が原因だって言ったそうだぞ」
カサの顔が驚きから、これから叱られる子供のものに変わる。
「僕、失礼な事をしたかもしれない」
「何だ。もしかしてお前、強引に迫ったんじゃないだろうな。酔いにまかせてエルを」
「ち、違う、そんな事はしてないよ!」
「じゃあ何したんだ?」
「エルと、話をして……」
「おう」
「それから、踊りに誘われて……」
「うむ」
「だけど踊れないから、途中で帰っちゃったんだ、僕」
「……」
ソワクが絶句した。だがカサを見るその瞳の中に、呆れとは違うものが混じっている。
「ソワク、なんかがっかりしてない?」
「だってお前、こりゃ絶対カサがエルを押し倒したんだって思ったからよ」
「そ、そんな事する訳ないよ!」
「だったらこの話で押し切ってお前にエルを貰わせて」
「何を考えているんだ、ソワク」
「そしたらお前は晴れて俺の弟だなあと思った訳だよ」
えらく勝手な話である。
「何でそうなるの。晴れてないよ。エルも嫌がるだろう」
「何だつまらん。つまりエルはお前に振られてむくれてやがるって訳だ」
「振られたなんてそんな」
「じゃあ貰え」
「どうしてそうなるの」
いい加減疲れてきたカサは、ソワクの相手をしていられなくなる。
「そろそろ時間だ」
二歩下がって二人を見ていたガタウが、カサを促す。
「はい」
カサもこれに従うふりをして、強引なソワクの追及をかわす。
心底残念そうに帰ってゆくソワクの姿が可笑しくて、カサの頬はしばらく弛みっぱなしであったが、何故かいつもより浮ついたように見えるガタウが、
「惚れた女がいるのか」
などと真面目くさって聞いてくるので、カサは返事ができないほどあわてた。
毎度の仏頂面でも、カサにはガタウまで自分の事で面白がっているのが感じられた。
ガタウの変化がくみ取れたのは、いつも一緒にいるおかげだろう。
別にそんな感情は読めなくてもいいのだが。
夜、カサがあの岩にゆくと、ラシェが先に待っていた。
逢えると期待していなかったので、ラシェの姿を認めて驚く。
「お母さん。どうだった……?」
勢い込んで訊くが、振り返るラシェの背筋にまとわりつくのは、儚げな悲しみ。
身にまとう虚脱。
涼しげなまなじりが、赤く腫れている。
力ない頬。
ほつれた前髪。
泣き疲れたその表情で、カサは全てを悟る。
――駄目だったんだ……。
鳩尾に、えぐられるような痛みが走る。
一日がかりで母親を弔い、泣きじゃくる弟を寝かしつけて、ラシェはようやくここに来れた。
体も心も芯まで疲労し、打ちひしがれている。
なのに、
「昨日は来られなくてごめんなさい。それと、薬をありがとう」
空の椀をさしだすラシェの声は、感謝に溢れている。
その健気さが痛々しい。
――僕は、莫迦だ。
カサが無力な自分を責める。
――何をいい気になっていたのだろう。
浮かれていた気分が、見るまに冷えてゆく。
――僕はラシェを、助けられなかった。
椀を握りしめて、カサはうなだれる。
「ごめん」
かみ締めた奥歯が、ミシリと軋む。
「ううん。いいの」
ラシェの声に昂ぶりはなく、それだけに痛々しさが増す。
「ごめん」
カサの目から、悔し涙がこぼれる。ラシェが椀を握りしめたカサの拳を両手で包み、
「ううん。私、嬉しかった。カサが私なんかの事で、こんなに力になってくれて」
――私なんかなんて、言わないで。
心でそう叫べど、実際にカサができたのは、子供のように首を降る事だけ。
「あの薬を飲んだ後、お母さんずいぶん楽になって」
ラシェの声は、どこまでも優しい。
「私に、もう寝なさいって、言ってくれて」
とても優しい。
「最後に、ありがとうって……!」
優しすぎる声が、涙に潰れる。
カサはラシェを引き寄せ、その涙を胸に受けとめる。
ラシェが声もなく泣きはじめる。
カサも泣いている。
あの夜、大巫女が調合したのは、病気を回復させる薬湯ではなく、主に仙人掌に含まれる麻痺成分を用いた鎮痛剤、もしくは麻酔に近いものだった。
症状を聞いて、ラシェの母はもう助からぬと判断していたのであろう。
愛し合う二人が、互いを支えるように抱きあい、声を殺して泣く。
一年越しの二人の邂逅が、悲しいものに終わった事を知るのは、二日欠けた月だけ。
風が吹く。
固く抱きあい、互いの胸に秘めた悲しみと、漏れだす嗚咽を、いずこかの地へ運んでゆく。
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