冬営地へ

 前年の反動か、その年の食料は豊富であった。

 備蓄も多めに用意され、しばらくは食糧問題は起こらないだろうという楽観的な空気が邑を包んでいた。

 不作がつづいては堪らないという、逃避の心理も働いたのだろう、ともあれ冬を前にして、邑の雰囲気は例年より開放的だった。

 そんな中、カサも一つの決断を下す。

 それは、今までとは違う生き方を手に入れるための選択であった。



 冬営地フェドラィへの移動が迫るある夜、カサはガタウのもとを訪ねた。

 毎日会うのだから、用向きは昼間に話せば良いのだが、ガタウは何かある時、いつもカサを天幕に呼ぶか、自分から訪ねるようにしている。

 だからカサもそれに倣い、何か話がある時には、夜にガタウを訪ねるようになった。

「大戦士長」

 ガタウの家族用天幕バライーの戸幕の前で、カサが声をかける。

「入れ」

 すぐに返事があり、戸幕をくぐって中に入る。

 いつもの如く、槍の手入れをするガタウの姿。

 促されるままにカサはその前に座す。

「何だ」

 カサは逡巡し、心を決めて口に出す。

「だ、大戦士長!」

「何だ」

「こ、この冬は……」

 ゴクリとつばを飲み、そして自分を奮いたたせ、再び挑む。

「この冬は、僕、冬営地に行きたいんです!」

 言ってしまった。

 もう後戻りはできない。

 自分がいなければ、ガタウはこの夏営地で独りっきりなのである。

 それがどれほど大変な事か、カサは理解している。

 それを理解してなおカサは、冬営地に行かねばならないと決めている。

 どのような叱責を受けようと、カサは全てわが身一つで耐えようと決意を見せる。

 その代わり、この希望だけはいかなる反対にあえど、押し通すつもりである。

「そうか」

「え?」

 呆気ないガタウの返事。

「どうした」

「僕は、冬営地に行っていいのですか?」

 なまじ大きな叱責を予想していただけに、カサは余りに拍子抜けの返答に呆然としている。

「自らそう決めて冬営地に行くのだろう」

「は、はい」

 ガタウはカサを見もしない。怒っている訳ではなさそうだが。

「いいんですか?」

「なぜそれを俺に訊く」

「ですが、僕がいなければ、大戦士長は一人になります」

「お前が居なければ、俺はどうだと言うのだ」

 カサなしだと、ガタウはヒルデウールを越せないとでも言う気か、という詰問である。

「い、いえ……」

 抵抗あるものと覚悟していただけに、事が簡単に進むのに、カサは釈然としない。

——僕は、その程度の存在なのか。

 ガタウが自分を傍に置いておきたいというのが、カサの勝手な思い込みであり、そう信じる事でカサはガタウに甘えていたのだ。

「まだ何か有るのか」

「い、いえ……」

 ガタウに追い出されるように天幕を出る。その際、

「おい」

「え? は、はい」

 呼び止められ、戸幕を上げた格好で止まるカサ。ガタウが重い口調で、告げる。

「冬営地では、気をつけろ」

 その視線が油断のないもので、カサはまたつばを飲み、

「はい」

 生真面目に答えた。



 カサが数年ぶりの冬営地への移動を心に決めたのは、もちろんラシェの事があってである。

 傷ついてしまったラシェを、一人ぼっちにはできない。

 傍にいて支えてやりたい思うと、カサは居ても立ってもいられなくなってしまった。

 一方、ガタウのもとを離れて過ごす事に、得体のしれぬ不安もある。

 この夏営地パラバィでガタウと越す冬は過酷であったが、何も考えずに済んだという点において、カサを楽にもしていた。

 そういえば、ガタウがカサの冬営地行きをあっさり承諾した事について、カサに思い当たる事がある。

 マンテウに作ってもらった薬湯の甲斐なく、ラシェの母が逝去した事を大まかに伝えると、

「そうか」

 いつも通りの返事が返ってきたのみであった。

 ガタウは、ラシェの存在に気づいているのだろう。

 ソワクが来た時にもそんな質問をされたし、容易に冬営地ゆきを認めたのには、そんなカサを察したのではないか。

 ガタウがそんな甘やかしを認める日はこないだろうから、真相は分からないが。

 

 邑人たちが夏営地を引きはらう日は刻々と近づいてくる。

 砂漠に冬が来る。



 冬営地までの道のりを、カサは他の者よりも新鮮に感じていた。

 思っていたよりも長く短い道のり、記憶と違う地形と道標、忘れていた風景。

 久しぶりの営地移動を楽しみながら、カサは体重の倍以上の荷物を運ぶ。

「さすが戦士だなあ」

 感心しながら追いついてくるのはヨッカ、こちらも背負子に両手に、一杯の荷物を運んでいる。

「何が?」

「軽々って感じだもん。カサ、やっぱり力あるんだなあ」

 照れくさそうに笑い、

「力が、要る仕事だから。あ、何か持とうか?」

「ううん。大丈夫」

「本当に?」

「……じゃあ鍋を一つ、持ってくれる?」

「貸して」

「重いよ」

 ヨッカに渡された家族用鍋は確かに軽くはないが、鍛えあげられたカサには重くもなかった。

「持っていられる?」

「うん」

 カサが言うとヨッカはまた感心し、

「さすがだなあ」

 並んで歩くうちに、まだ二人とも子供だった頃の思い出がよみがえる。

 二人のソワニ、大柄のセテが優しく彼らを引率してくれたあの頃を。

「カサ?」

「何?」

「カサはどうして今年、冬営地に行くつもりになったの?」

 カサは黙り込む。

 ラシェの事は、ヨッカにすらおいそれとは話せない。

「あれからセテの所に、行った?」

 あれから、とは、カサが怪我をして以降という意味だ。

 ヨッカもまた、今は遠い日々を連想していたらしい。

 カサは、苦しげに首を振る。

「どうして?」

 訊ねられてもても困る質問である。

 あの日、セテに拒絶されて以降、カサはセテを肉親と思うのをやめた。

 そう決めて生きてきた。

 そうする事にも慣れた。

 今更蒸し返されても、それは変えられない。

「行けないよ」

「どうして」

「……行けない」

 カサは首を振る。

 それ以上の質問が友人を追い詰めると知りながら、ヨッカはつづける。

「セテは、すごく後悔しているよ」

 ヨッカの口調は、誠実だ。

「カサも大変だっただろうけど、あの日からセテは、ずっと沈んだままだ。明るい顔をしなくなったし、夜、一人でよく泣いてるって」

 育ての親であるセテは、カサにとって、実の親よりも近い存在だった。

 だが拒絶されたあの日、カサが何もかも失った日以来、セテは自分を捨てた両親と同じ種類の人間だと思うようになった。

 ただソワニとしての義務だけで、セテは自分を育てたのだ。

 そう思わなければ、辛くて生きてゆけなかった。

 今更その事について考えるのは、全てをなくした日の痛みを、追体験せねばならない事でもある。

 世の中には取り返しのつかない事がある。

 世の中のほとんどは、取り返しのつかない事である。

 それが、カサの骨身に沁みついた、血の匂いのべったりついた教訓なのである。

 いくらヨッカが望めど、それが覆る事はあるまい。


 カサたちの前方に、冬営地フェドラィの空はまだ遠い。

 夏営地パラバィを出てまだ、三日の道のりの事であった。

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