邑衆
懇心
獣の牙は精霊に捧げられ 戦士の槍先に変ずる
槍先は獣を狙う 毛皮を突き破り心臓を貫く
獣は死に触れ 瞳が死の暗闇に色付く
戦いの精霊に護られた 真の戦士が生まるる
ラシェの母が容態を崩したのは、戦士たちが狩りに出てすぐである。
まず、体が重いと一日中横になっている。
夜も眠れず、苦しそうにうめく。
ラシェも一心に看病したが、母の病状は改善しなかった。
何か滋養のつく物を食べさせようと思っても、食糧不足はサルコリ全体を暗い影でつつみ、隣人にも頼れぬ日々がつづいた。
夏営地にもどってしばらく、やっと作物が採れはじめ、戦士たちが多くの獲物を持ち帰り、それでようやく邑の食料状態が改善した。
その頃には母親の衰弱はどうにもならないほど進行しており、せっかくの滋養も一口として受けつけられなくなっていた。
そして、ついに母の容態が急変した。
高熱を出し、息が弱々しく長く、耳障りになる。
何よりもラシェを怯えさせたのは、口から発し始めた死臭である。
生命活動が終わりに近づくと、内腑が弱り、異臭を発するようになる。
こうなるともう、手の施しようがない
ラシェはうろたえた。
死臭を漂わせはじめた者が次の朝には死んでいるのを、冬の間に幾度となく見てきた。
――お母さんが死んでしまう!
泣き叫ばなかったのは、弟が居たからだ。
「お母さん、死んじゃうの?」
目に涙を溜め、姉に訊く。
胸が張り裂けそうになった。
「大丈夫。明日にはきっと良くなるから」
同じ言葉を、毎日のように言う。
自分ですら信じられないその空疎ななぐさめは、自らに言いきかせるための言葉でもあった。
「大丈夫。お母さんは死んだりしないよ」
この子を怯えさせてはいけない、その一念で、ラシェは気丈に看病しつづけた。
やがて弟が疲れ果てて眠り、そのあいだも刻一刻と弱ってゆく母の姿に、ラシェは居ても立ってもいられなくなり、天幕を抜け出して走った。
――カサ……!
手前勝手は痛いほど承知していた。
それでも、他にすがれる者はいなかった。
カサのもとに行こう。
カサなら何とかしてくれるかもしれない。
暗天よりのしかかる不安をふり払い、ラシェは懸命に駆ける。
最初にラシェが向かったのは、二人で一緒に座ったあの岩の上である。
――居るはずよ。居てくれなきゃ。
涙がこぼれ始めた。
――居て!
肩で息をしながらも、ようやく目的地にたどり着く。
だが、ラシェの心からの叫びもむなしく、そこには通りすぎる風のみが。
「……どうして……?」
脱力し、へたり込むラシェ。
――居るはず、ないじゃない。
ラシェの心の最も冷めた部分が、嘲るように言い放つ。
――莫迦じゃないの? あなたカサに何をしたと思っているの?
――今さらカサに助けて欲しいだなんて、良くそんな事思えたものね。
――母が死ぬのはその罰。あなたが死ねばいいのに。
それらの言葉を投げつけているのは、ラシェ自身。
自分を傷つけ惨めさを思い知る事によって、どうにか自分を保っている。
――そうだ、あの場所。
その時ラシェに天啓が降りる。
もう一つ、カサと逢えそうな場所がある。
――そうよ、あそこなら。
ラシェは走る。
息が切れ、つまづいて転び、また立ち上がって走る。
――カサ!
手足が重い。あえぎ声が頭の中でゼエゼエとうるさい。
――カサ!
もうずっと涙は止まらない。
――カサ……!
にじむ視界を拳で振りはらい、ラシェは走る。
そして目的地、初めてカサと出会ったあの場所に来る。
風。
誰もいなかった。
そこにはラシェ一人が、立ちつくすのみ。
頬をさらう風が、ラシェをあざ笑っている。
ラシェは絶望し、崩れ落ちた。
母は死ぬだろう。
ラシェに打つ手はなく、ただその死を待つのみ。
「うっ、ッうっ……うう―――――っ!」
泣き崩れても、差しのべられる手はない。
己の無力さに怒りがわき、やがて悲しみが取って代わり、そして泣き疲れ、心が虚無に満たされる。
グッタリと横たわり、無力に嗚咽し、見上げた空には満月が。
遠くから打鼓の囃子が届く。
――ああ、今日は祭りなのね……。
麻痺しきった感情の中で、平静な自分がいる。
――そういえば、初めてカサに出会った時も、こんな満月だった。
初めて会った時、どうして逃げたりしてしまったのだろう。
あんなに優しい人など、他にいないのに。
――そうか。あの時も祭りの夜だもの。満月なのは当たり前……。
横たわったまま、あの時カサがいた辺りを見る。
もちろん誰もいない。
風が吹き、ラシェは目を閉じる。
そしてゆっくりと開く。
ラシェは見た。
こちらに歩いてくる、カサの姿を。
よろめきながら身を起こし、ふらつきながらカサに近づく。
「カサ?」
それは、紛れもなくカサ。
「カサ……?」
誰よりも愛しい少年。
「カサ……!」
片腕の、優しい戦士。
カサが、夜闇の中のラシェに気づいた。
「ラシェ……!」
その声を、その瞳を待ち焦がれていた。
ラシェの心があふれだす。
涙がふたたび流れ、しゃくりあげる喉が言葉を邪魔する。
「……カサ……」
ようやくカサのもとにたどり着くと、疲れと安堵で気が遠のいた。
よろめき、ひざまずき、ラシェは声をしぼりだして乞う。
「お願いします……!」
カサの足元の砂をにぎりしめて悲痛に叫ぶ。
「……助けて……! カサ、助けて……!」
困惑したカサの顔を見上げる事もなく、ラシェが泣きつづける。
事情を知らないカサはただ当惑する。
だがやがて口を引き結び、ひざまずいてラシェの手を取る。
「そんな事、しないで」
いたわる声。
「どうしたの?」
体を起こさせ、涙で崩れたラシェの顔を正面から見る。
きづかわしげなカサの目。
長い緊張がとけ、ラシェはまた泣きはじめる。
カサはラシェに見とれている。
少し痩せただろうか。
だけど涼しげだった切れ長の眼は、涙に濡れてなお綺麗なままだ。
「お願い……助けてカサ。お母さんが、お母さんが死んじゃう……」
「何だって?」
ラシェの母。
母は唄と料理が上手いのだと、ラシェは嬉しそうに話してくれた。
母と弟を、ラシェがとても大切に思っているのは知っていた。
その母が、危ないという。
「冬に、物が食べられな、くって、お母さん大変だ、ったんだけどっ」
しゃくりあげながら、切れ切れに話す。
「こっちに帰ってきて……いきなり悪くなって……もうご飯も食べられないの!」
重篤である。
事態は切迫している。
カサは立ちあがる。
「わ、わかった。どうしよう……少しここで待っていて!」
ウロウロと
ラシェはその横で、途方に暮れた顔でカサの答えを待っている。
「そうだ……!」
何か思いついたようだ。
「大戦士長のこと、話したよね」
カサはラシェの肩をつかみ、
「あの人なら、何か力を貸してくれるかもしれない。今は祭りだから、誰もかもお酒を飲んでて踊ってて、だけど大戦士長はそういうの関係ない人だから」
またウロウロし、
「と、とにかく! 行ってくるから、待ってて!」
ラシェはコクコクとうなずき、カサを見あげる。
カサが風のように走り出す。
鍛え上げられた足腰は、地面の起伏など物ともしない。
あっという間に消えてゆくその力強い背中を、ラシェは初めて頼もしく感じていた。
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