燃え殻

 この年、戦士たちが狩った獣の数は、二十と八頭。

 食糧不足の影響がまだ残っていたために、普段よりもやや多く獲物を持ち帰った。

 戦士たちの帰還は七日ほど遅れたが、祭りはいつも通りの満月に行われた。

 作物は豊作で、次の冬は問題なく越せそうなことに、邑人たちは安堵していた。

 作物というがこの民族は根本的に農耕をしない。

 動物は人の手で狩るもので、植物は精霊たちの贈り物、という訳だ。

 ただ食用になる植物が密生する場所の雑草を抜いたり、石を取りのぞいたりという簡単な手はかける。

 ごく原始的な農耕作業といえるかもしれない。


 さて、食料が豊富に手にはいったこの夏、祭りはいつにも増して盛大なものとなった。

 部族外民であるサルコリにまで、酒が振る舞われるという具合である。

 忌まわしい冬を振り払うように人々は踊り、飲み、かつ大声で唄う。

 辛い記憶を、湧き立つ興奮で洗い流す。

 彼らの感情の奔流から、少し離れた所に、カサはいる。

 踊る事もなければ、唄う事もない。

 酒すら、舌を湿らせる程度に口にするのみ。

 篝火からまき散らされる火花の中で熱狂する人々の中に、カサはいない。

 もう何年も、そこにカサの居場所はない。

「――カサ?」

 自分を呼ぶ女性の声に、過剰に反応してしまう。

 驚いた顔を見られたのは、ソワクの義理の妹、エルである。

「どうしたの?」

「ああ、いや……やあエル」

 失望の色を隠しきれないカサに、エルの自尊心が刺激される。

「誰だと思ったの?」

 動揺を見透かした質問に、カサがうろたえる。

「来なかったの?」

「え?」

「待ち合わせていたのでしょう?」

 エルは勘違いをしているようである。

 カサは憂いを含んだ目で、

「――いや、別にしていないよ」

 そう答えて遠くを見る。

「じゃあ、私がここに座っても、いいよね」

「うん」

 何がしたいのだろうと、傍らに席を取るエルをカサは見る。

「頂戴ね」

 そう言って置いてあったカサの椀を取り、酒をクッと流しこむ。

 滑らかな喉が、きれいに動くのに、カサは見とれる。

「あっ……ダメだ。きついね、このお酒」

 特別に振る舞われた火酒である、酒精の強さは醸造酒の倍以上。

 エルにはきつ過ぎたかもしれない。

「ソワクが、戦士は強い酒に慣れなきゃって言うんだ。でも飲めないから、どうしようかと思ってた」

「いやだ、ずるい。私が手伝ってあげた事になるのね」

 エルが笑い、つられてカサもふっと頬を緩める。

 カサのまとう陰鬱な薄雲が、エルの明るさに吹きはらわれてゆく。

「どうして踊らないの?」

「うん……」

 言葉をにごす。

 エルもそれ以上は深追いせず、

「聞いたよ。狩り場で他の邑の戦士たちと一緒になったんでしょ?」

「うん。イサテの戦士たち。みんな良い戦士たちだった」

「カサはそこで皆に褒められたって聞いたわ。すごいじゃない」

 エルに褒められ、カサが苦しそうに笑う。

「そんなは事ない」

「でもみんなが褒めてるわ、カサのこと。カサは若い戦士の誇りなんだって」

「誰が言ってたの?」

「ソワクとか、他に一緒にいた戦士も」

 寂しげな笑い。賞賛を受ける事は、カサにとってまだまだ苦痛である。

「みんな、大げさに褒めてるんだよ。僕はそんな……」

 言葉をさがす。

「そんなに、大した戦士じゃない」

「そんな事ないわ」

 カサは黙りこみ、会話が途切れる。

 どんな話題を選んでもカサの心にもぐりこめない事に、エルは疲労を覚える。

 カサを讃える声は日に日に高まっているのに、どうしてカサはこんなにも頼りなげなのだろう。

 最初に会った時、エルはカサの持つ繊細さに惹かれた。

 手を差しのべたくなるもの悲しさ、小動物にも似た懸命さ、そんな雰囲気を、エルはカサの中にかいま見た。

 だが、カサの消極的な姿勢に、一旦は仲を進める事をあきらめてしまう。

 以後、たくさんの男たちから誘いを受けたが、いずれもエルの心を惹くには足りなかった。

 いつも心にカサを据えていた訳ではないが、見かければ気にかけるし、祭りになると探してしまう。

――私はカサの事を、好きなのだろうか。

 それが判らない。

 そうだと断言できるほど、エルはカサを知らない。

――そろそろ結婚相手を見つけたら?

 ここの所、姉がよく言う。

 カサが理由で相手を決めかねている訳ではないが、自分が結婚を考える年頃なのもわかる。

 この部族における貞操に対する観念は明らかではないが、倫理観が厳密で閉鎖された社会では、お互いの目が監視となり、男女にあまり自由はないという。

 簡単に男と女が関係を持つという事は、思うほどにはなかった。

 とはいえコールアの様に性に奔放な者もおり、自由な性愛もあったろう。

 いつの時代も若い者たちは、周囲の目をはばかりながらも、お互いの相手を心のままに選ぶものである。

 そして今、エルの横にはカサがいる。

 酒精がまわり始めた頭の中で、片腕を失くし背を丸めたカサの姿に、手を差しのべたい衝動を覚える。

 背中にすがりつき、元気づけてあげたいと思う。

 それは男女というよりも、姉が弟に、母親がわが子に持つような感情である。

「――来て」

 エルがカサの手を取る。

「踊ろうよ」

 その笑顔に引き寄せられるように、カサも立ちあがる。

「僕は、いいよ」

「駄目よ。お酒を飲んであげたじゃない。さあ来なさいな」

 まるで姉のような口ぶりで、エルはカサを牽引する。

 酒気に頬を染め、とろけるような笑いを浮かべるエルに、カサは導かれる。

 祭りの囃しにあわせて踊る邑人の中に割りこみ、エルと向かい合わせで踊る。

 最初遠慮がちに体を動かしていたカサも、やがて踊りの中に飲みこまれてゆき、そのうちに大きく踊るようになる。

「そうそう! 巧いよカサ!」

 笑いながら踊るエル。拍子に身をまかせ、恍惚となり始めている。はつらつとしたその体がカサに預けられ、花のような匂いに、カサの頭は麻痺する。

 その姿に、カサの記憶の深い場所が、刺激される。

――カサ。

 脳裏に閃いたのは、ラシェの笑顔と、なめらかな声。

 閃光のように訪れた痛みに、カサの踊りは唐突に終わる。

「……カサ?」

 異変を感じたエルがカサを見あげる。

 その瞳の奥にたたえられた底知れない悲しみに、エルはひるむ。

「帰るよ」

 人々のあいだを抜けて、カサは姿を消した。

 後に残されたエルが、呆然とそれを見送る。

 祭りの囃子は、まだ鳴り止まない。

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