飢餓の冬
やがて邑はフェドラィ、冬営地へと移動を始める。食料が少ないため、運ぶ荷物はやや少ない。
移動と冬営地での生活は辛いものになるであろう。
足元を駆け回る幼子たちは無邪気だが、荷物を担ぐ大人たちの表情は一様に暗い。
――辛い冬になる。
そんな危惧を共有している。
陰気な集団は列をつくり、後ろにゆくにしたがって、みすぼらしさを増してゆく。
そしてその最後尾に、小さな男の子の手を引くラシェの姿が。
ラシェが後にする
そのはずれに見つけた、小さな人影。
――カサ……!
人影は二つ。傍らに立つのは件の大戦士長であろう、その前で槍をふるいつづけるカサの姿。遠目にも判るその悲しげな背中。
――カサ……!
狂おしいほどの切なさ。
振り向いて欲しい。
駆け寄って、その肩にすがりつきたい。
その胸に額をうずめ、乾いた薫りを胸いっぱいに満たしたい。
いくらカサへの想いを打ち切ろうとしても、ラシェの心はカサに引き寄せられてやまない。
湧き起こる衝動を抱え込み、隊列の進む方に向きなおる。
厳しい冬の待つ冬営地へ、弟の手を引いて歩きはじめる。
背を向けたまま、ラシェに気づかぬカサ。
お互いに惹かれあいながら、二人の気持ちが交わる事はない。
悲しい二人を、青すぎる空が見下ろす。
夏営地で迎えるヒルデウールは、いつものように激しかった。
冷え込む手足を引きずり寄せ、微かな体温をかき集める。
絶え間ない閃光と雷鳴と豪雨。激烈な環境下で、カサはじっと息を潜めている。
この苦痛は罰だと、自らを苛む感覚こそが、自分に与えられるべき罪の解消になるのだと、カサは盲目的に念ずる。
いつまでも晴れぬヒルデウールを、カサは睨みつづける。
この苦痛が、ずっとつづけばいいのに、そう祈りながら。
その年の冬営地でのサルコリの生活は、貧困の極みであった。
頻繁に、特に寒い日には毎日のように誰かが死ぬのをラシェは目にした。
力なく泣くわが子を、サルコリの母たちが気だるげにあやす姿があちこちで見られた。
最初はきちんと葬られていた死者たちも、そのうち朽ちるがままにされるようになった。
集落は腐臭に満ち、誰もがいつも空腹を抱えていて、盗みが集落で横行した。
もともと貧困の中で育った者たちである。
信頼関係の薄い者も多く、特に食糧などは見えない所で奪い合いのようになった。
貧しいゆえの助け合い、というのは、余裕あってのもので、明日はわが身となれば、親兄弟さえ裏切る者がいる現実をラシェは知った。
「お姉ちゃん、おなかすいた……」
涙ぐんで懇願する弟に、ラシェは泣いて謝る。
「ご免ね、もう少し我慢して……」
ラシェの弟、カリムは、育ち盛りだというのにもう昨日から何も食べていない。
そういうラシェ自身も、この三日ほど口に入れたのは水だけという有様で、せっかく手に入れた食料も、母と弟にほとんど与えているために、
狭い天幕の中で最も飢えているのはこのラシェのはずである。
最初は腹部の空虚な感覚だけだった。
次に手足に力が入らなくなってきた。
そこまでの空腹感は、これまでも当たり前のようにあった事で、ラシェ自身それほど辛いとは思わなかった。
空腹感よりもつらいのは、始終関節がきしみ、口が乾き、歯茎や舌のつけ根に腫れものが出て、喋る事までが億劫になった事だ。
今、疲労は全身に回り、肌の裏側に老廃物がこびりつき、息をする事さえも労苦を要する。
それでもラシェは、また食料を手に入れたなら、自分は食べずに家族にその分を与えるだろう。手に入る食料などどこにもないだけで。
「お姉ちゃん……」
涙ぐむ声。ラシェは切なくなる。
せめてこの子だけには、お腹一杯に食べさせてあげたい。
「我慢して、カリム。明日になれば、ベネスの人たちから何か貰えるかもしれないから」
カリムがすすり泣く。
そこに、誰かが無造作に天幕に入ってきた。
痩せてみすぼらしい中年男。
名も知らぬ、サルコリの男だ。
彼らが弱っているのを知って、堂々と盗みを働こうというのだろう。
ラシェにとってもこんな事は一度や二度ではない。
男はゆっくりと天幕内を見わたすと、母の夜具に手をかける。
奪うつもりだ。
「やめて!」
ラシェが必死で抵抗した。
体の弱った母は、ここ数日意識あいまいで、夜具がなければ死んでしまう。
男は驚いたが、夜具から手を離そうとはしない。
ラシェと男の引っ張り合いになったが、飢えはどちらにも平等に体力を奪い、ラシェの必死の形相に男もやがて諦め、逃げるように転げ出てゆく。
肩で息をしながらへたり込む。
夜具を母にかけ、力つきてそのまま突っ伏す。
カリムがまた泣き出す。
――カサ……。
閉じてゆく視界で、今一番そばにいて欲しい人の名を、心の中で呼ぶ。
――もう嫌だよカサ……。
涙で視界がにじむ。
弟の息が荒い。
それができるなら、この身を引きちぎって食べさせてやりたい。
――助けて……カサ……。
ケヘッ。
力のない咳が出た。
口の中が腫れてしゃべるのもつらく、顔にたくさんの吹き出物が出ている。
今の自分は、さっきの男に負けないぐらいみすぼらしいに違いない。
――こんな姿を見られたら、嫌われちゃうだろうな……。
苦しみの中で、考えるのはカサの事ばかり。
――死ぬと思った。
カサは何度もそう言った。
――死んでしまいたいと思った。
その言葉の意味が、今のラシェなら理解できる。
この苦痛に満ちた生を、誰か終わらせてくれないものか。
――私にも解るよ。カサの苦しみ。
指一本動かせぬ倦怠感の中、ラシェは生まれて初めて死を望んだ。
何一つ懸念する事のない、死の安息を。
夏営地に邑人たちが帰ってくる。
食料事情の逼迫で、みなやせ細り、顔色が悪い。
驚いたのは、邑人の後につづくサルコリ集団の数が、目に見えて減っている事である。
カサも後ほど知ったのだが、この冬だけで、サルコリの五分の一が死んだ。
そのほとんどが餓死および衰弱死で、老人、乳幼児、病人などがその多くを占めていた。
――ラシェは無事だろうか。
人づてに聞いた惨状が、カサをいっそう焦れさせる。
さりとてラシェの安否を知る術はなく、何の手立てもないまま日が経ち、戦士たちが狩りへとおもむく日が来た。
――僕には、すぐそこにいるラシェの様子を知る事も出来ないのだ。
邑はずれに整然と並ぶ戦士たちに、カサは埋もれている。
やがて遠征が始まると、心配しても仕様がないと諦め、新米の戦士たちを引き連れて進む隊列の中、ガタウについて狩り場への道のりを、足どり重く歩いた。
青い空。
見上げる底知れない青に、カサはめまいを覚える。
初めて狩りに向かう空も、これほど青かっただろうか。
あの頃はただ無我夢中で、今では思い出せない事も多い。
――せめて遠目に見るだけでも。
今すぐ取って返したい衝動を押し殺し、狩りの空へと、カサは向かう。
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