克明なる闇

 夜闇、カサが寝苦しさを覚えて天幕を出る。

 狩りから帰ったその夜だというのに、またあの岩へと向かう。

 もうラシェに会えるとは考えていない。

 ただ静か過ぎるウォギに一人でいると、あれこれと嫌な考えばかり浮かんでしまうし、それに

――それに、もしもラシェが待っていたなら……。

 わずかでもそんな気持ちがわくと、いても立ってもいられなくなる。

 いまだラシェを失った渇きは、癒えていない。

――……ラシェ……。

 心のどこかで、ずっと、その名を呼びつづけている弱い自分がいる。

 カサがラシェを忘れられるのは、獣と対峙している時だけ。

――僕の心は、戦士になったときから少しも成長してない。

 ヨッカと自分を比べて、わが身の幼さに悲しくなる。

 ふと、少し向こうの人影――男の気配に気づき、とっさにカサは身を隠す。

 並ぶ居住区の天幕を陰に、呼吸を殺して身を低く保つ。戦士が獲物を捕捉する時の動作が染み付いている。

――ウハサン……?

 闇で顔は判別できないが、歩き方や背格好は間違いなくウハサンである。

――こんな夜に、なんだろう。

 以前のカサのように、想い人に会いに行くのだろうか。

 どこの世界にも通い婚の風習はある。

 だが人目をはばかるまではよしとして、険しい視線を抜け目なく配りながら歩く様子は、恋人のもとに通うにしては殺伐としている。

――あれほど緊張しながら会う相手とは、誰だろうか。

 カサは決して詮索や噂話が好きな人間ではないが、このウハサンの異様さには目が離せない。

 しばしためらった後、カサはウハサンを尾けた。

 月のない空。

 ウハサンは慎重だったが、カサの尾行はそれより遥かに巧妙だった。

 やがて、ウハサンがひとつの天幕に入るのを確認する。

――ここは……邑長の天幕。

 個人用としては大きな、ナークという十人以上が入れる天幕である。芯柱が長いため背が高い。

 その邑長の天幕に、辺りをはばかりながら小動物が巣穴に飛び込むように、ウハサンが入っていった。

 戸幕から中を覗くと、邑長カバリがウハサンを歓迎する様子が見えた。

――邑長の所に行くのを、見られたくなかっただけなのか。

 コールアのもとにでも通っているのかとも考えたが、そんな行為が同じ天幕の邑長に知れぬはずもない。

 天幕内での会話の盗み聞きはさすがにすべきではないと、カサも深追いはやめた。

 ウハサンに邑長、いずれも関わりあいになりたい人間ではない。

 ただ周囲を警戒するウハサンの様子が、この平穏な夜の中で、あまりにも異質だっただけである。

――二人が何をしていようと、僕には関わりない事だろう。

 カサは踵を返す。

 心の虚を埋めるなにかを求め、夜をさまよう。

 足は自然、あの岩に向かう。

 月のない闇の中、白く滲んで浮かびあがる輪郭は、その上にいるはずの人間がいないと、カサに訴えかけている。

 心の最も深い所が、狂おしく求めるその名を、カサは苦悩のうちに押し込める。

 その名を思い浮かべるだけで、いまだ真新しい切り口をのこす胸の内奥のその傷口は、またとめどなく血を流すだろう。

 人目につかぬ場所に、ヒルデウールに流されぬよう纏めて重石を置いてあった布を取り出し、肩からくるまり岩の上に身を横たえる。

――……ああ。僕は今、こんなにも寂しい。

 布に沁みこんだ残り香が、カサの欠落の多い心を焦がす。

 夜空の下、目を閉じ、心を埋める何かをただ待ちつづける。

 カサのがらんどうの胸に、冷たい風が吹きすさぶ。

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