カサの一の槍

――ここ暫く、こいつは槍に集中できている。

 カサの私生活を、ガタウは何も知らない。

 ガタウがカサに託すのは、槍の使い方だけで良い。

 それ以外に人に教えられる事など、自分には何ひとつ無い。

 だから、カサの事情も知る必要はない。

 ガタウは刻が訪れた事を知った。

――こいつに一の槍を経験させるのは、今だ。

 今カサは、戦士として幾度目かの成長期に入っている。

 今のカサなら、一の槍の骨子を、少ない経験で完全に掴むであろう。

 その時カサはソワクを超える。

 一の槍の骨子を掴んだならば、カサの前にある姿はただ一つ。

 ガタウの立つ孤高の頂。

――その全てを受け継ぐ能力を持つ戦士を、俺は遂に手に入れた。

 込み上げる熱い感情は、歓喜に似ている。

――あとはお前が、その一の槍を、完璧に務めて見せるだけだ。

 ガタウの期待通りになった時、カサには資格が与えられる。

 ガタウと同じ場所に立てる素質を持つ、その孤独な資格を。

 この狩りの成功を願う戦士長たちに反して、カサの失敗を願う者もいる。

 ナサレィやトナゴ、ウハサン、そしてラヴォフたちである。

――死んでしまえ。

 カサの槍を見るたびにそう願っている。

 そしてその願いは、ずっと裏切られつづけてきた。

 だが今回はカサにとって、初めての一の槍である。

――あいつが死ぬなら、今この時しかない。

 槍先落としの結果になれ、強くそう願っている。

――だがもしもこの狩りを、カサが無事に乗り越えてしまえば……。

 その時、カサの名声は揺るぎなき物となろう。

 カサはまだ、齢十八(我々の暦で十四歳~十五歳)。

 その歳で三の槍、四の槍を取ったという話すら聞いた事がないのに、よりにもよって一の槍である。

――もしもこの狩りを、カサが成功させてしまったら……。

 そうなれば、カサはラヴォフたちなど手の届かない人間になってしまうであろう。

 カサは戦士長として名誉を受け、ラヴォフたちの明るい未来は閉ざされる。

 死んだヤムナが、彼らに約束した未来を、あのカサの槍が殺してしまう。

 だから、願う。

――……今ここで死んでしまえ……!

 渦巻く思惑の中心で、カサが獣に立ち向かう。

 獣の目にぴたりと止めていた槍を、ゆっくりと下ろす。

 一の槍、最後の予備動作。

 もはや引き返す事のできぬほど、カサと獣の間に漂う緊張感は張り詰めている。

 次にどちらかが動けば、全てが決する。

 指一本動いていないのに、カサの顔にはびっしりと汗が浮き、獣の息は上がっている。

 交錯する視線。

 熱気がわだかまり、ゆらゆらと立ちのぼる。

 カサの眉に汗が溜まり、顎から雫が落ちる。

 そして、その雫が砂に弾ける直前。

「フッ」

 カサが動いた。目にもとまらぬ瞬速の槍先の軌道を、確認出来たのはガタウのみ。

――良し。


 ボギュッ!!


 膝元に滑り込み、膝蓋骨を砕いた槍が、頑健な獣の後肢をあらぬ方向にへし折る。

 一瞬、風が停止する。

 想像を超える一撃に、誰もが唖然とした。

 無理もなかろう。

 今カサが突いた槍は、

 この一の槍は、

 これは紛れもなく、

――大戦士長と、寸分違わぬ槍だ……!

 それは、多くの戦士が挑戦し、あのソワクでさえ会得する事の叶わなかった、後肢を砕き圧し折る最高の一の槍。

「ゴワァッッッッッ……!!」

 唯一動けたのは、カサに突かれた獣のみ。激痛に悶えるその体を、カサは槍を突いた姿勢のままどっしりと受け止める。

「何をしている」

 獣の両隣の、二の槍と三の槍を受け持つ八人の戦士長に向かってガタウが叱咤する。

「二の槍! 三の槍!」

 ガタウに喝を入れられ、ようやく戦士長たちが動く。

 左右八本の槍が連続し、それぞれが獣の急所を的確に突く。

 苦痛に身をよじる獣を、戦士たちは完全に押さえ込んだ。

 そして終の槍。

 獣の背後にソワクが進み出る。

――カサ……!

「エイッ!」

 裂ぱくの気合い。

 ソワクの槍が獣の心臓を貫く。

 獣の体から生命が抜けてゆき、戦士たちが一斉に槍を抜く。地響きを立てて崩れる巨体。

 砂煙の向こうで、カサが冷徹な目で全てを見通していた。

――お前の、勝ちだ。

 いくばくかの口惜しさと、心を埋め尽くす賞賛。

 ソワクは、カサが己よりも優れた戦士である事を、心から認めた。

——お前はその歳で、大戦士長の孤独をも継ぐのか。

 その道の険しさを想い、ソワクの胸を悲しみが埋めた。



 周囲の注目の中、カサは倒れた獣の前で残心していた。

 汗はすでに乾き、表情からは緊張が抜け落ちている。

 手のひらに残る、一の槍の余韻に心を委ねるカサ。

 何年にもわたってカサを苦しめつづけてきた、餓狂いの金色の眼が、槍を握る手の中で風化してゆく。

 なのに、後に残るのは空虚さばかり。

――終わった。

 心の独白は、狩りの終わりだけを示したものではない。

 カサの内部で、大切な何かが終焉を告げてしまった。

 悲しみを忘れるために、必死でしがみついていた何かが。

――僕にはもう、何も残っていないのだ。

 力なく腕を下ろす。

 あれだけ恐ろしげに見えていたコブイェックの眼が、今はただもの悲しい。

 無残に殺されてしまったこの生命の怨念が、恨めしげにカサを責めているように見える。

 カサの槍先が血に濡れている。

 カサ自身の骨で出来たその槍先は、以前は純白だった。

 今その槍先は、数え切れないほど獣の血にまみれ、磨滅し、褐色がかっている。

――これはきっと、僕の魂の色だ。

 大量の返り血に染め上げられ、殺した獣たちの生命を吸い取ったカサの魂は、きっとこんな色に違いない。

 艶のない、乾いた血の色。

 今までカサが重ねた罪の色。

 そんな自分に、愛される価値を誰が見いだせよう。


 砂漠に風がもどる。

 血まみれの骸の上にも、

 悲しい眼をした戦士の足元にも、

 隔てなく吹きつける。

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