卑小
「おいカサ」
背後から呼び止める刺々しい声。
ラヴォフだ。
後ろにトナゴやウハサン、他ナサレィたち三人を引き連れている。
小莫迦にしたような笑いを顔に張りつかせながら、カサを取り囲む。
小枝を拾い集めている所だったから、周囲に人目はない。
以前にも全く同じ事があったので、カサはすぐにその意図を察する。
――まだそんな事をしてるのか、くだらない。
無視をして通りすぎようとしたが、回り込んでいたナサレィがカサの胸元を突き飛ばし、囲みの中心に押しもどす。
酷薄な笑みを浮かべ、あからさまな侮蔑の目でカサを舐めまわすように見ている。
「何か用?」
カサの平静さが、ラヴォフの凶暴性を刺激する。
「お前、最近つけ上がり過ぎだぞ」
苛立ちがその肌から噴き出すようだ。
目の高さが、ラヴォフと自分ではもう変わらない事にカサは気づく。
実際くらべるとラヴォフの身長はカサとそう変わらない。カサの年齢を考えると、ラヴォフの背を超える日も遠くないのではないか。
「俺達を、槍先外れと見下しているんだろ」
斜めににらみつけるラヴォフを、カサは不思議そうに見つめる。
「有望な戦士のお前にはわからねえだろうな」
意に介さないカサの態度が、ラヴォフの熱量を徐々に上げてゆく。
「片腕が無いってくらいで大戦士長に可愛がられやがって」
ラヴォフがどうしてそんなに執着してくるのか、カサには解らない。
「たかが槍を突かせて貰ったぐらいででかい顔しやがって!」
ラヴォフが激する。
カサへの劣等感は日々肥大しつづけ、今やラヴォフを支配する肉食獣のよう強大な存在となっていた
「お前のそういうとこが、頭に来るんだよ!」
ラヴォフの拳がカサの頬を捉えた。
乾いた音が響く。
「莫迦野郎! 顔は殴るなと言っただろう!」
あわてたのはウハサンだ。
戦士同士の、それも狩りの間の暴力沙汰は、戦士階級では無視できない掟破りなのである。
露見すれば謹慎では済まない、戦士階級を追われてしまうほどの重罪である。
――カサが大戦士長に言いつけなくても、顔を殴れば見ただけでばれてしまう。
だがカサは、何もなかったような生気のない目でラヴォフを見返すだけだ。
「何それ」
不思議そうな声のまま、カサはラヴォフに問う。
「僕を殴りたかったの?」
ああそうだ、という答えを返す間もなく、打たれた頬を触った手を見て、カサはつづける。
「これで、殴ったつもりなの?」
一瞬でラヴォフの心は沸騰した。
「手前! 殺してやる!」
顔といわず腹といわず、滅茶苦茶にカサを打つ。
その間もカサは、何の感情も閃かない目でラヴォフを見ている。
それを侮りと受けとったラヴォフはさらに激する。
不思議な事に、幾ら殴ってもカサは倒れない。上体をゆらりと戻し、またラヴォフに向き直るだけなのだ。
「野郎」
苛立ったのはラヴォフだけではない。ナサレィが横から蹴り飛ばす。
が、カサは倒れずナサレィに石くれを見るような目を向けただけ。
ナサレィが手を出した事が、他の男たちが一斉にカサに掴みかかる合図になった。四方から掴まれ、殴られ、無理やりに引きずり倒される。馬乗りになったラヴォフが力いっぱいカサの顔を打ち据えるが、カサはじっと相手を見て反撃どころか防御もしない。
「おい止めろ! やり過ぎだ! 不味いぞ!」
唯一冷静だったウハサンが止めに入った時には、ラヴォフも、トナゴも、ナサレィも、デリも、キジリも、全員が肩で息をしていた。
その中心に居るカサだけが静かで、それは不思議な光景であった。
「それだけ?」
くだらなさそうに言う。ラヴォフが再び激したが、ウハサンに抱え込まれ、それ以上カサに掴みかかる事はかなわなかった。
「これじゃ済まさねえぞ。覚えとけ」
それだけ吐き捨てて、逃げるように去ってゆく。
残されたカサは空を見上げ、思う。
――何てくだらない事をする奴らなんだろう。
認められたければ、カサのように槍の修練でもすればいいのに。
カサだけではない。
心身に恵まれたソワクでも、優れた戦士たるために人知れず己を鍛えている。
何もせず、妬心にまかせてカサを打ち据えても、彼らの槍が強くなる訳ではあるまい。
腫れ始めて、重くなった目蓋を閉じて思う。
――こんなものは、痛みでも何でもない。
舌でさぐると、頬の裏側が繊維状に浮いている。打たれた時に歯で切ったのだろう。痛みよりは痺れに近い。汁物を口にする時に沁みるかもしれないが、槍の訓練にくらべれは苦痛というほどの事もない。
砂漠に風が吹くように、痛みは常にカサと共にある。
――いっそ殺してくれれば良かったのに。
戦士になって、幾度そう思ったであろう。
カサを憎んでおきながら、そんな事すらできないラヴォフたちの弱さを、カサは初めて軽蔑した。
カサが腫れた顔で戻ってくると、戦士たちの間に少なからず動揺が広がった。
暴力沙汰だとすれば、手を出した者を処罰されなければならない。だが問い詰めてもカサは、
「転んだだけだから」
と答えるだけで、犯人に関することは一切口にしなかった。
実際は誰の仕業であるか大体判るのだが、何もないで押し通すカサに、
「ならば良い」
と大戦士長ガタウが追求の姿勢を見せなかったために、この一件はうやむやのままとなった。
納得できないのはソワクである。
もとより正義感の強い男であったし、何よりも槍持ちのカサを狙うというのが許せない。ガタウには不問に付されてしまったが、いつの日か太陽の下に張本人を引きずり出して、きっちりと筋を通させねばならぬと、強く誓う。
肝を冷やしたのはウハサンたちだ。
周囲に知れたのではないかと震えて固まっている所に、全身に怒気をはらんだソワクがきた。
ソワクは据えた目で一人ずつ全員を睨みつけ、下手人が誰かを知っていると暗に示し、
「覚えておけ」
人望も実力もガタウにつづくと言われる戦士長ソワクの、烈火のごとき怒りにさらされ、ナサレィたちは腹の底まで縮みあがる。
「戦士の誇りを無くした者たちの魂の行き着く所は、栄光ある戦霊ではなく、永劫の苦痛だ」
視線を受け止めたのは、ラヴォフだけだ。
そのラヴォフも、ソワクの怒りを前にして気圧された。
「この事、ゆめ忘れるな」
言い残して、ソワクは戦士長たちの中に戻ってゆく。
「ハッ!」
ラヴォフは吐き捨てたが、ソワク相手では分が悪い事を察してか、反抗する態度にも力がない。
トナゴは言うまでもなく、ナサレィたちも縮み上がり、計算高いウハサンは、
――ラヴォフがやり過ぎた所為で、しばらくカサには絡めなくなったが……。
処分が有るのなら、ソワクがわざわざ警告には来ない。
つまり、この件は保留扱いになったのだ。
自業自得の現状ではあったが、自分たちに処分が及ばない事には、安堵していた。
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