苦魂

 夜、ラシェと約束していた、あの岩の上にカサが座っている。

 誰も来ない。

 朝になっても、誰も来はしないだろう。

 カサの中で、生まれて初めての恋が死に、冷たくなってゆく。

 カサは一人で、それに耐えている。



 ラシェにとって、毎日が身を焦がすほどの痛みに満ちたものになった。

 まず、笑えなくなった。

 弟に何をせがまれても、虚ろな作り笑いを返し、おざなりに相手をするだけである。

――カサ!

 時折、火を飲み込んだように呼吸がつまる。

 少年の顔を、声を、姿を思い出すたびに、痛みは訪れた。

 それはラシェを容赦なく打ちのめし、癒す事なく地上に放りだした。

 時が経つほどに、ラシェは自分が失った物の大きさを知る。

 いつの間にかこんなにも、カサの事を想っていた自分を、いまだ血を流しつづける胸の奥で思い知る。

――こんなにも大切に想っていただなんて。

 そのカサの胸の中を、ラシェも自分自身の臆病さゆえに、逃げ出してしまった。

 いくら想えどラシェは薄汚いボロを纏ったサルコリだ。

 誉れ高き戦士と添い遂げるなど、許されるはずもなかろう。

ーーだから、これでよかったのだ。

 これ以外に、選択の余地はなかったのだ。

 そんな事は判っている。

 なのにこの胸の痛みはどうだろう。

 この、狂おしいほどカサを恋しがる気持ちはどうだろう。

――私なんか、生まれて来なければよかった。

 ただ呼吸をするだけの一刻一刻が、灼けた炭を押しつけられるように息苦しい。

――私のような者は、死んでしまえばいいんだ。

 ラシェもまた、カサと同じ結論に達している。

 だがラシェの場合それを実行できない理由がある。

 幼い弟と、体の弱った母である。

 もしもラシェが斃れれば、二人もまた厳しい砂漠では生きてゆけず、時を待たず死ぬであろう。

 二人に対する責任感だけで、ラシェは生を選んだ。

 槍で苦痛を紛らわす事で、カサもまた、惰性の生を選んだように。

「……ラシェ?」

 母が、ラシェを呼ぶ。

「なに?」

 返事はあるが、顔に生気がない。

「ずっと顔色が悪いよ。大丈夫なのかい?」

 元気のない娘に気を揉んでいる。

 母に気苦労をかけてはいけない。

 ラシェは無理に笑いを形作る。

「大丈夫よ。月のものが来ただけ」

「本当かい? この前も、そう言ってたじゃないか」

「本当よ。そんな事もあるわ」

 あれこれと理由をつけて、母の追究をかわす。弟が膝に絡みついて、

「つきものもの? ってなに?」

 澄んだ目を向けてくる。

 瞳の色の深さに、つかの間カサの面影を見る。

 胸の痛みがぶり返す。

 あの夜から慟哭しつづける、身の程も知らずカサを想いつづける愚かなサルコリの娘を、ラシェは胸の奥深くに押し込む。

「何でもないのよ。カリムは遊んでらっしゃい」

 優しく答える姉に、だが弟は首を振る。

「つきもものがわるいの?」

 ラシェの目が、戸惑いを隠せなくなる。

「つきもものをやっつければ、お姉ちゃんはげんきになるの?」

 幼い真っすぐな目に浮かぶ涙。そんなに自分は心配をかけていたのかと、ラシェの胸が痛む。

「大丈夫。もう元気になった」

 ラシェは笑う。さっきより、少しだけ自然な笑み。

「ほんと?」

「本当よ? カリムのおかげね」

 カリムが可愛い笑いを浮かべる。

「さあ遊びに行きましょ。なにをして遊びたい?」

「いしけりっ」

 ずっとそうするつもりだったのだろう。手の平から蹴りやすそうな、丸く滑らかな石を取り出す。

「そうね。石蹴りをしよう」

 ラシェはふり返り、

「ちょっとカリムと遊んでくるわ。ご飯の前には戻るから、火だけお願い」

 母は幾分ホッとして、

「解った。ベネスには近寄らないようにね」

 子供の頃から繰り返された注意が、ラシェの心の傷に、微かに触れる。その痛みを無視して、

「うん、判ってる。お母さんも、ゆっくりしてて」

 薄汚れたウォギを出ると、やや強い風が吹いていた。

 カリムとラシェの衣服にツェガン、乾燥したつむじ風がからまる。子供の姿の少ない、サルコリの集落の向こうに、カサと待ち合わせたあの荒野が待ち受けている。

「お姉ちゃん! はやく! はやく!」

 カリムが一人で駆けてゆく。

――あの岩にゆけば、今もカサは待っているのだろうか。

 ラシェを待ちつづける、あの寂しげな後姿。

 思い出すだけで、無性にその背が恋しくなる。

 首を振り妄想を払い、潤いの少ない現実に目を向ける。

 あの場所にはもう行くまい。

 あのようにカサを傷つけておいて、また会いに行こうなんて、あまりに身勝手過ぎるし、それにもう一度カサに会ってしまえば、恋しくて二度と離れられなくなってしまうのだろう。

 カリムの笑顔がこちらを向いている。

 それだけが、今のラシェの救いになっている。

――カサが、今も私を待っているなんて、あるはずがないわ……。

 自分は、カリムの笑顔のためだけに生きていこう、そうラシェは誓う。

――……さよなら、カサ……。

 決別。

 ラシェもまた、カサの存在を、人生から切り離す努力を始めた。

「お姉ちゃんお姉ちゃん!」

 カリムを見つめる、優しい瞳。

 睫毛が濡れて、陽光が色彩豊かに分裂する。

 その中で、愛しい弟の姿が、逃げ水のように揺らぐ。

「お姉ちゃん?」

 カリムが困ったような目を向けてくる。

「お姉ちゃん?」

 どうしてそんな顔をするんだろう。

 ラシェは笑っている。


 笑っているのに

 瞳にはとめどなく流れる大粒の涙が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る