悔苦

 カサの告白から逃げるように離れ、誰もいない、何も見えない砂漠の真ん中で、ラシェはうずくまって泣いた。

 誰にも聞かれぬよう、声を殺してただ泣いた。

 膝をつき、砂を両手で握りしめ、悲しくて悲しくてどうしようもない心の叫びを、美しい歌声を紡ぐ口をきつくつぐんで泣く。

――どうして私は、サルコリに生まれてしまったのだろう。

 暴れまわる心の最奥で、自分の出自を呪う。

――私がサルコリでなければ、カサに何もかも捧げられるのに。

 幸せの頂点から、残酷な痛ましい現実を見た。

――私がサルコリでなければ、カサの全てを受け止めてあげるのに。

 いつも助けを求めるような、カサの悲しい瞳を想う。

 優しくて繊細で、傷つきやすい心を想う。

――私はカサを傷つけた。

 我が身をかき抱く。

 その手に力がこもり、爪が白い皮膚にくい込む。

――カサの気持ちを受け入れれば、カサは命を投げ出しても私を守るだろう。

 あんなに傷ついて、それでも必死にがんばって戦士階級に自分の居場所を作ったのに、ラシェのために全て捨てることになる。

 そうなれば、カサは酷く鞭打たれてサルコリに転落する。

――あんなに優しいカサを、私は殺そうとしたのだ。

 血の滲み始めた肩は、己に対する怒り。

――私なんか、生きていてはいけない。

 かみ締めた唇が破れ、顎に血がつたう。

――私なんか、死ねばいいんだ。

 粗末ない服の胸元で、漏れる嗚咽を押し殺してラシェが泣く。

 カサが愛しく、サルコリに生まれた自分が呪わしかった。

 見下ろす半分を少し欠けた月は、何も言わない。ただ冷たく見下ろすだけであった。



「フッ!」

 ドカッ!

 カサの槍が砂袋に撃ちつけられる。

 その傍らには、いつものようにガタウの姿があるが、その顔はいささか強張っている。

 いつもの無表情ではない、不機嫌なのである。

「フッ!」

 ドカッ!

 原因は、カサ。

 槍が乱れている。

 打ち込みが乱雑で、昼になる前に、石輪を三つも砕いた。

 散漫な突きを改めよと叱りつけるガタウを、カサは胡乱な眼でにらみ返すばかり。いつものように、素直に謝る様子もない。

――こいつは、言っても無駄だな。

 ガタウは徒労を嫌い、カサを放っておく事にした。

 若い戦士だ、心揺さぶられる事も多かろう。

――だが長引けば、運動に悪い癖が染みついてしまう。

 それをガタウは危惧するが、今しばらくは静観を決める。

 無駄に浪費する事はないと、石輪は取り外したままだ。

「フッ!」

 ドカッ!

 打ち込むカサの腰に、槍尻から強烈な衝撃が伝わる。

 打ち込むごとに痛みは益々増し、陽が天頂を過ぎて久しい今では、一撃ごとに激痛を超え、脊柱に無感覚が広がる。

 朝、ガタウが来る前から一度も休む事なく、カサはここで槍をしごきつづけている。槍を握る左手は、血豆が潰れ、厚くなったはずの手の平がずる剥けて、槍が前後するにあわせて赤黒い血が飛び散っている。

――やり過ぎだな。……だが、

 ガタウは体力の限界を見極めるために、カサの動きを凝視している。

――今は、止めてもやめるまい。

 砂袋をにらむカサの目に、強い光が宿っている。

 食い縛る歯が軋み、口の端に血が滲む。

 体の苦痛など何ほどのものであろう、眉間の皺に刻まれた魂の深手は、カサをひたすら駆り立てている。


 突け。


 もっと強く突け。


 まだまだ強く突け。


 その身が滅ぶまで突け。


 そこまでカサを駆り立てるのは、怒り。


――……ラシェ!

 魂が、乾いた砂のようにラシェを欲している。

 怒りはラシェに対してのものではない。

 身の程をわきまえず、幸せを望んだ、自分への怒り。

 片輪者のくせに、皆と同じものが手に入れられると自惚れた、自分への怒り。

 その驕りが今、自分を苦しめているのだとカサは思う。

――お前なんかが、ラシェを好きになる事が間違っていたのだ。

「フッ!」

 ドカッ!

 背骨を痛みが駆け上がる。そのおかげで、一瞬だけ自分の惨めさを忘れられる。

――ラシェのような娘が、お前のように醜い者を受け入れてくれる訳がないだろう。

「フッ!」

ドカッ!

 痛みがまだ足りない。もっともっと、もっと苦痛を。一撃で我が魂を砕く強き苦痛を。

――お前など、あの夜、獣に引き裂かれて死んでしまえばよかったのに。

「フッ!」

 ドカッ!

 胃液がせり上がり、食いしばった歯の間から飛沫が噴き出す。だがカサは槍を止めない。

――お前のような、お前のようないびつな存在が、ラシェを好きになっていいと思ったのか。

「フッ!」

 ドカッ!


 脳裏に、悲しそうなラシェの顔。


 涙を浮かべた、絶望の表情。


――ラシェを傷つけて、許されると思うな。

「フッ!」

 ドカッ!

――ラシェ……。

 どうして、こんなに心を奪われてしまったのだろう。

 今のカサには、ラシェが必要なのだ。

 無くてはならない存在なのだ。

 抱きしめられなくていい。そこにいて、時々笑ってくれるだけで良いはずだった。

――なのに、ああラシェ。

 その幸せを、自らの手で壊してしまった。

 幸せで仕方がなかった時間を過ごすうちに、更なる幸せを、あともう少しの幸せをと、高望みしてしまった。

 蜃気楼のように、見えるが触れないものに、手が届くと錯覚してしまった。

 許せなかった。

 カサからラシェを奪った、カサという欲深く、醜い男が許せなかった。

「フッ!」

 ドカッ!

 だからこれは、罰。

「フッ!」

 ドカッ!

 カサが、カサに与えた、罰。

「フッ!」

 ドカッ!

 カサは与えられたこの罰を、甘受せねばならない。いや、甘受するだけでは飽き足らない。その身が滅んでも、魂は苦痛に満ちた旅をつづけるべきだ。未来永劫、そうやって苦しみつづけるべきだ。

「フッ!」

 バキャッ!

 槍先を保持する槍身の先端がついに砕けた。

 革紐にからまった石の槍先が、拘束に身もだえし、無残に転げ落ちる。

 ゼエゼエと肩で息をするカサ。

 疲労で手から槍が落ち、乾いた音を立てた。

「気が済んだか」

 ガタウが訊いた。

 ずっとそこにいたのを、カサは忘れていた。

「いいえ」

 首を振るカサ。

――こんなものじゃ、足りない。

 膝も腕も唇も、瘧のように震えているが、カサはまだ満足しない。

――もっと、痛みを……。

 だがガタウはそれを許さなかった。先の潰れた槍を拾い上げ、

「今日はここまでだ」

 一方的に宣言し、去っていった。槍がなければ、何をする事もできない。

「クッ……!!」

 ドスンッ。

 砂袋に拳を叩きつける。

 滅茶苦茶に槍を叩きつけられた革袋は、この一日で、なめした表面が粉を吹いたようにささくれ穴が開いていた。

――ラシェ……。

 膝が落ち、砂袋に力なくもたれかかる。

 だが名を呼べど、胸の中にラシェの姿はない。これからも、ないだろう。永遠に、ないに違いない。

 いつの間にか陽は落ち、夕焼けに気づかぬまま、夜が訪れていた。

 そんな事にも気づかないで、カサはただ胸の中の大きな傷口を持て余している。

 周りから見れは、それはただ若者が幼い恋に破れただけだろう。

 違うのだ。

 傷ついた孤独な魂同士が、互いに純粋すぎるがゆえに触れ合う事を赦されぬのだ。

――ラシェ。

 飢えたカサの魂が、ひたむきに一人の少女の名を叫びつづけている。

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