逢引

 夜更け。

 カサとラシェか並んで座っている。

 並んで、とは言っても、座り方は昨日と同じ、岩の両端に引っかけるような腰のかけ方である。

 お互いにずっとためらっていて、ほとんど口が利けない。

「……ねえ……」

「え?」

「なんでも、ない」

「そう」

 そんなやり取りを、ずっとつづけている。

 話したい事は幾らでもあるのに、恥ずかしくて口にできない。

 歯がゆく、もどかしく、焦れったい沈黙がつづく。

 せめて月がなければ、こっそり相手の顔を覗き込む事もできるのに。

「くっ……!」

 欠伸が出た。

 結局ソワクたちの所為で、余り眠れなかったのだ。

「……眠いの?」

 かみ殺し、カサ。

「ううん。大丈夫」

「眠いんだったら……」

 来なくてもいいのに、とは言えなかった。

 カサに来て欲しいに決まっている。

 でも、逢うことが重荷になるのなら、それはラシェにとっても本意ではない。

「……ねえ、ラシェ?」

「……え?」

「もしよかったら、唄ってくれないかな」

「…………えっ!」

 思わずカサを凝視する。

 気まずそうに目を逸らすカサ。

「ラシェの唄、聴きたいんだ」

 慌てふためくラシェ。

 初めて会話したあの夜、カサの前で唄い踊った記憶は、ラシェの中で羞恥を覚える物に変貌しつつあった。

――自慢げに、なんて事したんだろう……。

 カサに異性を強く意識した途端、それまではしゃいでいた自分を一歩下がって見てしまったのだ。

 だから、ラシェはうろたえる。

「……駄目、よ。恥ずかしいもの」

「どうして? 僕はラシェの唄が聴きたいよ」

 同じやり取りを、以前もした気がする。

「ねえ、ラシェ?」

 カサの声は、請うようでいて、底抜けに優しい。

「……短いので、いい?」

 ラシェは抵抗できなかった。

 今、カサに何を頼まれても、言われるままにしてしまいそうな気さえしている。

「どんなの?」

 カサが顔を寄せてくる。その視線に熱を感じて、ラシェはカサを見れなくなる。

「竈の唄……」

「かまどの唄……?」

 カサは知らないようだ。ラシェはあわてて説明する。

「竈の、守り唄なの。火が落ちないように……」

 言葉尻がすぼまる。

「……カサが知らないのなら、やめる……」

「それでいい」

「いいの?」

「うん。それがいい。それを唄って」

 カサが体半分、膝を詰めてくる。

 ラシェは離れようと身をよじるが、これ以上岩の上に逃げ場はない。

「じゃ……」

 んっ、と咽喉を調え、ラシェが美しい声で唄いだす。


  竈の前には精霊が

  死んだカラギの精霊が


 唄い始めでほんの少し詰まるが、カサは気がつかない。

 ラシェの滑らかな声に、陶然としている。


  竈の前の精霊は

  竈を使う者を守る


 ラシェの体から力が抜け、睫毛の長い目蓋がおりる。

 心が唄に入りこむ。


  竈の前の精霊は

  竈にくすぶる熾き火を守る


 ラシェの瞳の奥に、毎日使う、質素な竈と火が浮かぶ。

 唄が心にすべりこむ。


  竈の前の精霊に

  供物を絶やさず捧げましょう

  供物を絶やさず捧げましょう


 澄んだ声が静寂に溶けてゆく。ラシェはうっすらと目を開いた。

「……あ……」

 カサにもたれかかっている自分に気がついた。

 左腕一つで、カサがそのラシェを抱きとめている。

「……ごめんっ……!」

 飛び退こうとするラシェを、カサの逞しい腕が優しくさえぎる。

 ラシェもそれ以上抵抗せず、されるがままにしておく。

――カサの匂いだ。

 カサの胸の中で、ラシェは切ないほど幸せに満たされる。

――ラシェ。

 ラシェを抱きしめるカサも、花のような薫りに陶然とする。

 唄の途中でラシェがもたれかかって来てから後は、その姿も、その声も、その薫りもが、カサを魅了せずにはおれない。

――ああ、ラシェ。

 抱きしめた左手の平から伝わる柔らかさと暖かさが、カサを麻痺させる。

――僕の、ラシェ。

「……ラシェ……」

 その言葉は、カサの中でまだきちんと形になっていなかった。だ

 からその言葉は、カサの魂そのものが語る事を欲したのであろう。

 首筋に鼻をうずめてカサは、言った。


「好きだ」


 ラシェの目が、驚きを形作る。

 言葉にしたカサ自身も驚いている。

――僕は、ラシェが好きなんだ。

 言葉にした事で、初めて気がつく。

 どれほど自分がラシェを好きだったのか、どれほど自分が、ラシェに心を奪われていたのかを。

 ラシェもまた、自分の本当の心に気がつく。

 カサのこの言葉を、ずっと待ち焦がれていた自分を。

 カサの胸の中で、見開かれていたラシェの瞳がとろけるほど潤み、体から力が抜け、身も心も全てをカサにゆだね、そして、

 そして、ラシェはカサから飛び退いた。


「駄目!」


 突然の拒絶に、カサは訳が解らなくなる。傷ついたカサの表情が、ラシェをも傷つける。

「駄目」

 絞りだすように言う。苦渋に満ちた顔。そんな顔を、ラシェにはして欲しくないのに。

「ラシェ?」

「ごめんなさい!」

 身を翻し、駆けてゆく。

 目には涙。

 嗚咽をこらえ、口元に手を当てたまま、ラシェの背中が、月明かりに照らされた砂漠の向こうに消えてゆく。

 月明かりの下、カサがただ一人立ちつくす。

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