花の頃

 夜。

 ラシェは物音が立たぬよう、息を潜めて天幕を出た。

 集落は、シン、と沈んでいる。

 誰の注意も引かぬよう、夜の深くまで待ったのだ。

 だが、ラシェはまだ警戒を解かない。

 サルコリの集落で人目を気にする時は、並んでいる天幕だけに注意を払えばいい訳ではない、夜具だけで地に寝ている物も少なくないのだ。

 彼らを蹴飛ばして起こさぬよう、足元に気をつけて集落を抜ける。

 そこから大回りに迂回し、カサと初めて逢ったあの場所へ向かった。

――カサは、いるかな。

 ふと、不安になる。

 あの夜の薄い月、暗闇、唄、そして涙。

――来てないかもしれない。

 足取りが止まる。

 男の子が、それも戦士が泣くなんて、いけない事だ。

 それを見てしまったのだから、カサはラシェを敬遠するかもしれない。

――でも、あの後も仲直りした。

 その後、心変わりしたかもしれない。

 サルコリと一緒にいるなんて、やっぱり嫌だと思うかもしれない。

 一度悪い方へ考えると、想像は涸れ谷に転げ落ちる石くれのように、どんどん傾いて勢いを増す。

――そんな事ない。カサはそんな風に思わない。

 自分がサルコリであると言う事実が、ラシェに重く圧しかかる。

 カサと出会ってから、サルコリ、という言葉が以前に増して気になりだした。

――戦士にとって、サルコリと会うなんていけない事だ。

 弱気は、益々膨らんでゆく。

――戦士もサルコリも関係ない。私がカサに会うだけなんだから。

 ラシェは歩き出す。

――たとえカサが私の事を嫌いになっていても、平気だ。

 荒々しく、歩く。

――そんなの、関係ないんだ。

 小走りになる。何故だか腹立たしくなり、大きな目には、葉裏の朝露のように涙がにじんで、今にもしずくが落ちそうだ。一人勝手に盛り上がって早足で歩くうちに、目的の場所に着く。

 緩やかな丘に身を隠し、そっと見わたしてみる。半分の月が半ば上り、夜とはいえ視界はよい。

――いた……!

 砂漠の方を向いて立っている、赤い戦士の衣装。

 カサだ。

 思わず頬が弛むが、嬉しそうな顔を見せるのも気恥ずかしく、何とか渋い顔を作り直す。

 特に乱れてはいない前髪を整えて、それからカサの方に歩きだす。

 カサもすぐにラシェを見つける。

 無防備な笑顔にラシェの頬が、また弛んでくる。

――そんな顔を見せるなんてずるい。

 あと二歩の所で立ち止まる時には、こらえ切れなかった口許から小さな歯がこぼれていた。頬に垂らした髪を整える振りをして、ラシェは口許を隠す。

 カサはうつむき、正面に立つラシェが気になって仕方がないというふうに、どぎまぎしながら視線を送る。

「あ……」

「きょ……」

 しゃべりだしが重なる。二人は気まずそうに目をそらし、それから気を取り直して、

「きょ……」

「なん……」

 また重なる。もう一度気を取り直して、

「なに?」

「なに?」

 今度は言葉まで重なる。ラシェが笑い出し、カサもつられて笑い始める。

「私達、何してるんだろう」

 ラシェがさも可笑しそうに言う。

「そうだね」

 ひとしきり笑い、納まる頃には気恥ずかしさはかき消え、初々しい爽快さが残る。

「……久しぶり、ね」

 と、ラシェ。

「もう、来ないかと思った」

 と、カサ。

「どうして?」

「だって、」

 カサは迷う。

「あんな所、見られちゃったし」

 あんな所、というのがカサが泣いた事だと、ラシェはすぐに判る。

「関係ないよ」

「そうかな」

「そうよ」

 嬉しそうな顔になり、それから

「す、座ろうか。あっちに良い場所があるんだ」

「うん」

 カサについて行くと、そこに半分地面に埋まった、大人のひと抱え以上もある岩があった。腰かけるには程よい高さで、全体楕円形で上側が平面になっている。この夏、最初のヒルデウールの後に見つけた場所である。その上に布を敷いて、

「座って」

「……」

 ラシェが逡巡すると、カサはうろたえて

「汚くないよ。洗ったから」

「ううん、そうじゃなくて……」

 カサが敷いた布は、最高級とまではいかないが真新しく、ラシェたちサルコリには手に入らないような品物だった。地面に敷くどころか、衣服に使う事も許されないだろう。

 カサを見ると、不安そうにこちらを見ている。ラシェは途端に、ボロのような布をまとっている自分が恥ずかしくなる。

――もう一枚の、いい方の服を着て来れば良かった…。

 いい方の服、といってもラシェのたった二枚のうちの、比較的綺麗なもう一枚の方でも、カサのこの敷き布に比べればやはりボロといって差し支えない代物なのだが。

――どうしよう……。

 躊躇するラシェだったが、カサの請うような瞳にあきらめて腰をおろす。

 布地は厚く艶があり、つまむと指に馴染んだ。

 ななめ格子柄の薄い青に染め抜かれていて、それが見た目の軽快さを生んでいる。

「こんなに良い生地、初めて触った」

「え?」

「……なんでもない」

 ラシェの声が堅いのが少し気になったが、聞き返すのはやめておく。ラシェとの間隔を気にしながらカサも、一人分の幅をとって腰をおろす。座り心地は良い。カサが隣に座ると、ラシェはホッとした。

「あの、平気?」

「え?」

「お尻、痛くない?」

「う、うん。平気」

 カサの優しさに、ラシェは居たたまれなさをおぼえる。

――カサは、私がサルコリだなんて、思ってないのかもしれない。

 そう考えてから、

――違う。カサは私がサルコリだなんて、気にしていないだけなんだ。

 サルコリを蔑まないベネスの人間を、ラシェは見た事がなかった。大人たちもそう言っていたし、ベネスの人間は皆、サルコリを動物かなにかのように思っているのだと思っていた。

 だが違う。

 大切な宝物のようにラシェを扱うカサ。

 生まれてこの方、男の子にこんな風に優しくされた事などないのだ。それでどうにも背中がむずつくのである。

「場所、変わろうか?」

「ううん。ここで良い」

 そう言って手元の敷き布をもてあそぶ。手持ち無沙汰でしていた動作だったが、

「欲しいの?」

「え?」

「これ。欲しければ、もらって」

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