邑人たちの帰還

 冬営地での冬篭りを終え、邑の者たちが夏営地に帰って来た。

 先頭を率いた邑長カバリは、閑散とした夏営地をざっと眺める。

「フン」

 視界の端に、槍の鍛錬をつづける戦士の師弟を見つける。

――迎えに出もせんか、たかが戦士風情めらが。

 その戦士に依存しなければ、邑は生きてゆけない。

 彼らが命を賭して狩り場から持ち帰る肉と毛皮と牙がなければ、塩を運んでくる商人すら邑に立ち寄らない事は、カバリとて理解している。

 塩は古来より水と並び、砂漠に住む者の生命線であった。

 自らの命をかけて動物性蛋白と塩という、生命活動にもっとも根源的な物資をもたらす戦士は、ゆえに部族全ての者から恐れ敬われるのである。

 砂漠で戦士たちが誰よりも敬われるのは、至極当然であろう。

――何とかして、戦士階級を思う通りに動かせぬものか。

 だがその戦士たちをふくめた邑の全ての支配を、カバリは望む。

 だいそれた野心である。

 だがカバリは野望を達成する道筋を、頭の中で形にしつつある。

「邑長」

 呼ばれて思考が途切れる。

 不機嫌に睨み返すと、声をかけた邑人がギクリとする。

「何だ」

「皆揃いましたんで、荷物をそろそろ降ろさないと……」

 振り返ると、長い隊列を作る邑人たちが皆、カバリに注目していた。

「フン」

 鼻を一つ鳴らし、

「荷を降ろせ! 天幕を組み立てるぞ!」

 指示を飛ばして自分も荷運びをする。

 率先して動かぬ長は、砂漠では能がないと見られてしまう。

 邑長とて、それは例外ではない。

 その彼らを、荷車の上から見下ろす者がいる。

 周囲から浮き上がるような華美な衣装を身につけ、生真面目な彼らを傲然と見下ろしている。

 邑長の一人娘、コールアだ。


――こんな生き方、下らない。

 コールアは苛立たしく思う。

 このまま、つまらない人生が死ぬまでつづくなんて、許せない。

 コールアには、カバリのような野心はない。有るのは性急な欲求のみ。

――もっと刺激的に生きたい。

 それに尽きる。

 その点において、コールアの昔の恋人、ヤムナは申し分なかった。

 大きく引き締まった体躯、自信に満ち溢れた態度、女の扱いの巧さ、そして何よりも整った容姿。

 情事を終え、その横顔を見ているだけで、優越感が湧き上がってきたものだ。

 そしてコールアはヤムナに夢中になり、ヤムナもコールアに耽溺した。

 ヤムナが、戦士になるまでは。

 あの狩りの遠征に参加するまでは。

 ヤムナの死を知り、コールアの心に最初に浮かんだのは、怒りであった。

 己の大切な物を奪った者への怒り。

 コールアは、怒りをぶつけるべき対象を探し、誰彼かまわず問い詰めた。

――あれは、カサの所為だ。カサが逃げ出したから、ヤムナが死んだんだ。

 答えたのはトナゴ。

 周りから腰紐抜けと侮られる太った男。

 低脳、とヤムナが評していた男である。

――あいつが逃げて、獣が襲ってきたんだ。それがなけりゃ、ヤムナはあの獣を倒してたはずなのに。

 話が大きくなっているのがトナゴらしい。

 コールアが、そのカサを見つける。

 夏営地から少し外れた所で、槍の鍛錬に精をだす姿が目に入った。

――死んでしまえばいいのに。

 図らずも考える事が、昔の恋人と同じである。

 全体ヤムナとコールアは、よく似ていた。

 姿かたちだけではなく、魂が似通っていた。

 お互い勝ち気で自尊心が強く、自分以外の存在は全て低く見ている。

 このような二人だと、事ごとに衝突するものだが、それでも二人が上手くやっていけたのは、男女であったからと、どちらもまだ年若かったからだ。

 そのヤムナも、今はいない。

――それも皆、あいつの所為。

 荷車の上に大きく立ち、恨みがましい目をカサに向ける。

 周囲の邑人は、コールアのそんな尊大な態度に何も言わない。忌々しく思ってはいるが、邑長の娘という地位が、彼女を触れがたい存在にしている。

「コールア。皆を手伝え」

 さすがに苦い顔で、カバリが嗜める。

「フン」

 仕方なしに手近な小さい荷を一つ取る。苛立ったときの鼻の鳴らし方は、父親にそっくりである。

 荷車を飛び降り、父親の目の届かないどこかに、さっさと歩いてゆく。

 その後ろ姿を、カバリは複雑な感情をにじませて見つめる。


 邑長親子の横を、山のような荷物を背負いソワクが通りかかる。

 互いに眼を合わせもしない。

 以前カバリの娘との縁談を蹴って以来、邑長と若き戦士長、この二人の間にも焦くさい風が吹くようになった。

 その後方を、さらに若い戦士たちの一団が通る。

 トナゴやウハサン、それと最近彼らと行動を共にするようになったナサレィたちである。

 みなカサに厳しい目を向けながら荷を運ぶ。

 そのトナゴたちとカサを、ヨッカが後ろから見比べている。

 彼もまた大きな荷を背負い、幼い頃からの友人を、心配そうに見ている。

 片腕を失いながらも、厳しさで名高い戦士階級の中において、夏営地の太陽のごとき勢いで上昇してゆくカサの存在は、多くの邑人にとって目が離せないものとなっている。

 最近ではカサに憧れる小さな子もいるそうだ。

 そのはるか後方、邑人たちから少し離れた隊列の最後尾にも、カサに向けられた目がある。

 少女だ。

 小さな子の手を引き、周りに注意しながら、うかがうように盗み見ている。

 サルコリ、被差別集団の彼女らは見るからにみすぼらしく、衣服は薄汚れ、あちこち継ぎ接ぎだらけ。

 視線の主はその最後尾のラシェ。


 ラシェの荷物がひときわ大きいのは、天幕の材料を一人で背負っているからだろう。

 カサを見ているのを、誰にも悟られぬために一番後ろをゆっくりと歩いている。

 ようやく夏営地にたどり着き、カサの姿を目にした時、ラシェの胸が一拍、強く打つ。

――カサ……!!

 駆け出したい衝動を抑え、すぐに目をそらす。周りを見る。大丈夫、誰もラシェの方など見ていない。

「姉ちゃんわらってる」

 弟のカリムが、ラシェを見上げる。それからカサの方を見て、

「せんし!」

 カリムの歓声。眼を輝かせて、はるか遠方のカサに手を伸ばす。

「……そうね」

 ラシェが優しい笑みを浮かべる。

 カサに憧れる弟に、愛しさと、悲しさが混じる目を向ける。

 いくら望んでも、この子は戦士にはなれないのだ。

 戦士どころか、ほかの職種階級にもなれない。

 サルコリは、サルコリとして生き、そしてサルコリとして死なねばならぬのである。

 その現実を、やがてこの子も知り、そして失望するのだろう。

 ラシェの胸が痛む。

「ラシェ。カリム」

 前から呼ぶ声。杖を突いた母だ。

「早く歩きなさい」

「はい」

 名残惜しそうなカリムの手を引き、ラシェは母を追いかける。

「ぼく、せんしみたいよ、お姉ちゃん」

 カリムがぐずる。

 後ろ髪を引かれるのはラシェとて同じである。

 カサをひと目見て、ラシェは想いを振り切る。

「だめよ、天幕の設営をしなきゃならないんだから。だからカリム、いこ」

 ぐずるカリムの手を引き、サルコリの集団に溶けこむ。

 隊列の方を見たその目に、遠いカサの背中が、焼きついている。

 半年待ち焦がれたその姿が、今はもう手の届く所にある。

――夜になったら、会えるかな……。

 そう思うと、夜が待ちきれない。ただカサがこちらに気づかなかったのが、心残りだった。

――ちょっとだけでも、こっちを見てくれればいいのに。

 ほんのり恨みがましく、ラシェは思う。

――あとでちょっと、困らせてやろう。

 あれこれと困らせる手口を考える。その足取りは軽い。

 やがて集団に紛れ込み、ラシェの姿も判別できなくなる。


「フッ」

 ドシン!

 青い空に、カサの呼気が響き、消えてゆく。

 邑人たちに、夏が訪れる。

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