少女の幻影

 カサは煩悶していた。

 あの少女の事が、頭から離れない。

 何故こんなにまで心奪われるのか、解からない。

 空いている時間があると、カサはあの娘の姿を求めて、邑を歩き回る。

 何をしていても、あの娘の顔がうかんできて集中できない。


 あの夜。


 あの踊り。


 あの唄。


 あの瞳。


 その全てが、カサの脳裏から離れない。

――こんなの、おかしい。

 足をつかんで引きずり込もうとする流砂のように、もがけばもがく程、心が煩悶に沈んでしまう。

 槍、人間関係、あらゆる事に小さな失敗が重なって、もはや自分ですらわかるほど明らかに調子がおかしい。

 何としても以前の調子を、几帳面なくらい無機質な日々を取りもどしたい。

 なのに、思わずつかんだ、あの手の感触。

 あの華奢な腕と、滑らかな肌が、頭から離れない。

 少し冷静になって、解かった。

 あの少女は、サルコリだ。

 同年代の女の子で、これだけ邑を探しても、見かけない。

 せまい邑、普通に考えれば見つからない訳がない。

 カサと同じ年の少年少女は、合わせて五十一人。

 その全ての顔と名を、カサは知っている。

 一年ちがいなら皆の顔を知っているし、二年ちがっていても、顔も判らぬはずがない。

 何より、あの少女が走り去った先。

 そちらにはサルコリの集落がある。

 近くに幾つか人の住んでいる天幕もあるが、その辺りを歩いても、あの子の姿を見かけない。

 だから、あの娘はサルコリの者に違いないのだ、と。

 それに、である。

 あの夜、カサの心にあの娘の姿が強く焼きつけられたのは、カサが打ちひしがれていたからではないか。

 ずっと気が張っていたカサの心に、祭りの熱気にゆるんだ隙間から、あの娘の唄と踊りが迷い込んだのだ。

 誰でもいいから、誰かに認められたいと強く願うカサの心に、あの少女が入り込んだのだ。


 だから


 あの姿が、


 あの踊りが、


 あの唄が、


 あの瞳が、


 あの夜が、


 カサの心から、離れないに違いない。

 これは事故なのだと

 偶発的な

 獣との遭遇のようなものなのだと

 祭りの熱気が見せた、幻影なのだと

 カサは何とか己の心を納得させようとする。

 あの夜の出来事を、色々な理由をつけて、この気持ちはくだらない物だと切り捨てたいのだ。

 なのに、地中深く根を張る砂漠の植物のように、あの少女の存在はカサの心の奥深くに食い込んで、幾ら掘りおこしてもその主根にはたどりつかない。

――僕は、一体どうしてしまったんだろう。

 苦悩がある。

 だが、あの夜を、あの娘を想うだけで、いいしれぬ甘い高揚もあるのだ。

 人生経験の少ないカサには、その正体が判らない。

 それが戸惑いを生み、焦りを生む。

 普段のように生活したいという焦り。

 そして、もう一度あの少女とまみえたいという熱望である。

 焦燥が、カサの心を焼く。

 その正体が、まだカサには判らない。



 ガリン。

 カサがまた、小さな石輪を割る。

「何をしている」

 ガタウの叱責がとぶ。

「……すみません」

 カサは新しい石輪を取り出し、革袋に結びなおす。

 その顔に浮かぶのは、何もかもが上手くいかないという焦り。

 集中を欠いたまま、カサはまた槍をしごき始める。



「おいカサ! また大戦士長に叱られたんだってな! 愛想つかされるのも遠くないな!」

 わざわざトナゴが寄って来て、大声で嫌味を言ってきたのに、カサは誰もいないかのように歩きつづける。

「おい! 聞こえないふりなんてするんじゃねえよ!」

 トナゴの罵倒も、カサには届かない。

 カサの体はここに在りながら、心は遠くに在る。その事に、カサ自身も気づいていない。



 夜。

 砂漠。

 カサは少女と出会ったあの邑はずれ、広がる砂漠の始まりに、また来ている。

 あの夜以来、カサは毎晩ここに来るようになった。

 もしかして、またあの少女と会えるのではないかという、僅かな希望を胸に抱いて。

 カサ以外、誰一人いない夜がつづく。

 月が、日、一日と、欠けてゆく。

 その中で、カサは一人、夜また夜を、待ちつづける。



 あの夜以降、ラシェはいつか来るであろうベネスの者を恐れつつも、ある意味待ち焦がれていた。

――早く来れば、それだけ早く楽になれる。

そんな投げやりな気持ちもあるが、

――その時は、あの子も来るのだろうか。

という淡い期待もある。

 何故だろう。来て欲しくないのに、来て欲しい。

 ラシェの中に、相反する二つの心がある。

 なのに、誰もこのもどかしい時間の終焉を、ラシェに告げに来ない。

 朝早く起きて、水を汲みにいく時も。

 ベネスから渡された少ない食料で、食事を作る時も。

 弟をあやし、遊ばせている時にも。

 ラシェはその誰かが、大股で無遠慮な足音を鳴らして、我が身の終わりを宣告しに来るのを、待った。

 幾日待てど、誰も来なかった。

 あの寂しい瞳の少年が、ラシェの前に現れる事はなかった。

 だから、

 だからラシェは、もう一度あの場所に行く事にした。

 もしかして、またあの少年と会えるのではないかという、僅かな想いを胸に抱いて。



 夜。

 部族が冬営地へと引き払う、前の夜。

 新月近い弓月が、地平線近くを、這うように浮かぶ。

 ラシェは地に伏せながら、そっとあの場所をうかがった。

――いた……!

 大地に顔を伏せ、あの少年が佇んでいる。

――どうしてあんな所にいるのだろう。

 ラシェは思案する。

――やっぱり、私を捕まえるためにいるのだろうか。

 出てゆこうかどうか、迷っているうちに、少年の方がラシェを見つける。

「あっ」

 反射的にラシェは逃げ出す。

「待って!」

 足を止める。止めてしまったのは、少年の声がすがるように必死だったからだ。

 動きを待つ静寂。

 だがどちらも、お互いの空間を狭めようとはしない。

 物問いたげな沈黙。

 先に口を開いたのは、少年の方だった。

「あの……」

 うわずった声。

「……僕は、カサ」

 ラシェが振り向く。

 カサと名乗った少年は、恥ずかしそうに顔を伏せる。

「私は……」

 ラシェは少年を向いて、真っ直ぐに相手を見つめる。

「私は、ラシェ」

 少年が、顔を上げた。

 記憶にあるままの、寂しげな表情。

 いつか見た、優しさ溢れる悲しさがあった。

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