少女ラシェ
月だけが、ラシェを見下ろしていた。
サルコリの集落の近くまで走った所で立ち止まる。
荒い息を整える。
動悸で胸が内側からはちきれそうだ。
――見られた……!
気をつけていたのに、いつの間にか踊りに夢中になっていたようだ。
――顔を見られた……!
赤いトジュを身につけていた。
ショオは身に纏っていなかったが、戦士に違いない。
――ベネスの人に、顔を見られた……!
踊りたいからといって、祭りの音が聞こえる所までなんて、行くんじゃなかった。
ラシェは怖くなる。
サルコリは穢れた存在だから、祭りに出る事はかたく禁じられている。
サルコリが祭りに出ると、精霊が穢され災いをなすと言われていた。
――だけど、祭りの音を聴いていただけだし。
そんな言い訳が精霊に通じるかどうか、ラシェには判らなかった。
きっとベネスの者の胸一つなのだろう。
理不尽な世界を呪ってももう遅い、ラシェは罰を受けてしまうだろう。
――私も、お父さんのように足が動かなくなるまで打たれてしまうんだろうか。
ゾッとする。それから己の油断を悔やむ。
「ハア……」
ため息。
そして今さっきの出来事を、思い起こす。
目を開けたとき、深い瞳がそこにあった。
あわてて逃げようとしたら、腕を取られた。
――片腕の、あの子だ。
見覚えがあった。いつか、水汲みのときに見たあの子だ。
――どうしてあんな顔をしていたんだろう……。
叱責する様子はなかった。それどころか、
――あの、今にも泣きそうな顔……。
すがるような瞳。
想像していたのとは、全然違う顔だった。
戦士に選ばれる子は、体が大きく乱暴な者ばかりだと聞いていた。
なのに、さっきラシェが見たのは、深い色の瞳を持つ、背もラシェとさほど変わらない、内気そうな少年だった。
――もしかして、
ラシェは思う。
――私を叱ろうとして声をかけたんじゃないのかもしれない。
そう考えてから、やはり違うかもしれないと自分を戒める。
期待すると、裏切られた時に辛くなる。
いつも最悪の想像を胸に留めておくべきだ。
そうすれば、傷つく時も痛みは小さく済む。
――きっとそうだ。油断させておいて、そして私に辛くさせるつもりなんだ。
そう心に刻みつける。
この砂漠は、痛みと悲しみで満ちている。
それはラシェの思想でもあった。
だが幾らそう思えど、ラシェにはどうしてもあの悲しそうな少年が自分に罰を与える存在とは思えなかった。
「だって、泣きそうだったし……」
つい声に出してしまい、周囲を見渡す。
もちろんラシェ以外、ここには誰もいない。
サルコリの集落はすぐそこだが、声が届くほど近くもない。
気恥ずかしくなって、歩き出す。
音を立てないように天幕にもぐりこみ、母と弟を起こさないよう気をつけながら夜具を引きよせる。
横になり、目を閉じる。
まだ動悸がおさまらない。肌を興奮が撫でてゆく。
――私は何を期待していたのだろう。
莫迦莫迦しい、そうラシェは考える。
――明日にはベネスから人がやってきて、私をひどく打つに違いないのに。
身をぎゅっと縮める。
その時はただ平静でいようと、ラシェは瞳を閉じる。
打たれても、せめて気高くいようと思う。
天幕の外では、月だけが、全てを見下ろしている。
祭りに参加する邑人も、参加しない者も、踊り疲れて寝てしまった者も、呑みつぶれてしまった者も。
そして今なお誰もいなくなった大地で、孤独に立ちすくむカサも、天幕の下で、思い煩うラシェも。
ただ月だけが、物言わず、全てを見下ろしている。
更けてゆく祭りの夜に、浮かんでいる。
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