それぞれの朝
戦士が狩りへの遠征に出立するその日、カサは早めに起きだして、黎明の空を見た。
肌が引き締まるような冷たい明け方の風。集落から少し離れた所で、遠く地平線を見た。
黒ずんだ地平が橙色の暁光に照らされる瞬間、自分が光に包まれる充実を、カサは満ち足りた気持ちで受けとめる。
――きれいだ……。
朝の冷気にため息が白く煙る。
この美しくも寂しい自由な空間で、カサは満ち足りていた。
幸せ、と言うのではない、ただ落ち着くのだ。
いつからだろう、もの悲しさに、これほど心惹かれるようになったのは。
細めた眼の隙間から、砕けた白光がこぼれて来る。
昨晩はよく眠れなかった。理由はもちろん、狩りの記憶に伴う心痛である。
浅く、途切れがちな眠りが一晩中つづき、夜明けが近づくにつれ、せまいウォギの中に居るのも耐えかねて、天幕を出てきたのだ。
戸幕の透き間から日が差し、長い夜が終わりようやく日が昇るのだと知った時、心の底からホッとした。
煩悶の夜が終わりを告げ、淀んだ空気を清浄な風が吹き払う。
視線に気がついた。
振り返ると遠方、井戸の近くに誰かが居る。
水を汲みに来ているのだろうか、カサと背格好はさほど変わらない。
まだ子供のようだ。身にまとう衣服の色がくすんでいる事で、その誰かがサルコリ(被差別階級)であるのに気がつく。
――こんな朝はやくに水をくむんだ。
カサはその人影を、見るとはなしに見た。
こちらが見返しているのに向こうも気がついたのだろうか、あわてた様子で水を汲み、立ち去って行った。
――悪いことしちゃったかな。
サルコリの多くは、人目につくのを避けて生きている。
彼らの集落では違うのかもしれないが、ベネスと呼ばれるカサたちの本集落に、サルコリの居場所はない。
同じく居場所のない今のカサには、彼らの気持ちがよくわかった。
――僕の片腕がないのに気づいて逃げたんだろうか。ならよけいに、もうしわけないな。
カサは寂しい気持ちで踵を返し、自分のウォギへと戻ってゆく。
早めに朝食をとって、皆より一足先に集合場所へ行こう。
誰かと一緒に居れば、少しは気が紛れるだろう。
――ビュウ!
一陣のツェズン、乾燥したつむじ風がカサの後ろ髪を乱す。
ラシェは大慌てで自分の天幕の前に戻った。急に走ったので、息が切れている。
「はあっ」
大きく息をつき、水がなみなみと入った大きな桶を慎重に足元に下ろす。
――まさかこっちに気づくなんて、思わなかった。
ラシェはもう一度大きく息をつく。胸がザワザワする。
時々こんなふうに、水汲みに行った時に人影を見かけるが、目が合ったのは初めてだ。
ベネスの者だった。
あの赤いショオとトジュ、戦士だ。
べネスにも、こんな朝早くに井戸に行く者は少ない。
何度か水汲みに来た者とばったり会う事はあったが、それらは皆サルコリの女だった。
ベネスの者もそれを知っていて、早朝を避けて水を汲みに来るのだと、その時に聞いた。
――まだ子供だった。
さっきの人影を、ラシェは思い出す。
狩りに出た先でコブイェックに襲われて、ひとりだけ生き残った戦士が居ると、邑人の噂話に聞いた事がある。
それが他の男たちよりも三年早く成人したと言う、かの少年だとも。
――あの子がきっとそうなのだ。
まだ胸がドキドキしている。
どんな子なのだろうか。
戦士に選ばれるような子だ、きっと力が強くて、乱暴に違いない。
そういう子が戦士に選ばれるのだと、聞いた事がある。
逃げ出してよかったのかも知れない、そうラシェは思う。
「どうしたの?」
天幕から母親が出てきた。
継ぎ接ぎだらけの粗末なウォギ、弟と三人で住むには狭いが、それでも無いよりはましだ。サルコリの中でもさらに貧しい者は、天幕すら持てない。
「ううん。何でもない」
ラシェはそういって母親に手を貸し、天幕の中に戻らせる。
父が死んで以来、母はすっかり弱ってしまった。
白髪が増え、腰が曲がり、関節が痛いと言って表に出ないことが多くなった。
半病人のような母を心配して、ラシェはここのところ家の仕事をほとんど独りでするようになった。
サルコリの中で、そういう子供は少なくない。
ベネスのように悠長に、成人の儀式などしない。そんな余裕はないのだ。
その日一日を生きることができない者さえいる中で、ラシェは生きる意味を考えることが増えた。
考えれば考えるほど、否定的な答えが浮かんで来るが、それでも考えることを止められなかった。
母を寝かせてから、まだ眠っている五歳の弟に目を落とす。
――この子には、私のようにつらい思いをしてほしくはない、けれど……。
かなわぬな望みであろう事は、ラシェも気がついている。
それでも幼いカリムには、光あふれる世界に生きてほしいと願わずにはいられない。
「ウウン……」
可愛いうなり声を上げて、カリムが寝返りを打つ。
そのあどけない顔に、ラシェは頬をほころばせる。
――だけど、もう少し独りで居たかったな……。
少し残念な気持ちで、ラシェはそう思った。
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