滔々
「起きよ!」
かけられた声の強い調子に驚いた。
「……なんですか?」
寝ぼけ眼で聞き返す。
――気持ちいいところだったのに……。
そこで気がつく。
身体が震えている。
少し寝たあいだに、体温がずいぶんと奪われたようだ。
「無理をしても起きているんだ」
ガタウの口調はいつになく厳しい。
「それができなければ、死ぬ」
「え……」
耳を疑う。
「夜、濡れて寝ると、死ぬ。覚えて置け」
いつの間にか周囲が暗いことに、カサは気がつく。ヒルデウールだからではない。
雲に包まれて正確な時間が判らなかったが、日が沈んだのだ。
――死ぬ?
カサは身を震わせる。
そう言うガタウも、ケレを頭からかぶっている。
砂漠に生まれた彼らは乾燥と熱にはめっぽう強いが、水分による冷却には思わぬほど弱い。震えが止まらず、鈍磨になった指先をもみ合わせる。歯もガチガチと音を立てる。
締め付けるような痛みを感じて、欠けた右上腕を左手で包む。体温を上げようとさする手の平に鳥肌を感じて、ゾクゾクと嫌な寒気が背筋を這いまわる。胸元にとびこむ弱い風がケレの中にこもった熱気をさらってゆく。両膝を抱きよせ、その上からケレにくるまる。風が入ってこぬように、口の前で布の端をぴったりと合わせる。
フー、フー、呼吸がケレの中を暖めてゆく。
ジイン、指先から感覚が戻ってくる。
その痺れが痛みとなって四肢の先端を苛む。
右腕の欠けた部位が冷えすぎてつねられたように痛む。
眠気を振り払おうと目をしばたたせるが、貼りついた疲れはなかなか振り払えない。
首を大きく振る。
――寝ちゃいけない。
寝たら死ぬんだから。
その言葉も意識を上滑りするだけで、危機感が伴わない。
カサは拳を噛む。痛みで意識を覚醒させようというのだ。だが目蓋は重くなるばかり。
「立って動け。血がめぐると眠気は去る」
ガタウを振り向く。
カサは思う。
こちらを見てもいないのになぜ自分の状態が判るのだろう。
カサは立ち上がり、足踏みをはじめた。パラパラとケレについていた雫が落ちる。
腰の革ごしに巻いた縄には遊びが少しある。激しい運動などは無理だが、足踏みするくらいなら十分にできるようになっている。
フ、フ、フ。
下腹に力を入れながら足踏みするうち、目が冴えてきた。息が白い。風でケレが剥ぎ取られ、足元がよろめく。腰縄がなければ、吹き飛ばされてたかもしれない。
「その辺りにしておけ。余り疲れてもいかん」
ガタウが言うので、カサは腰を下ろす。
目が覚めたが、この後またいつ眠くならないとは限らない。
「これを口に入れろ」
ガタウが渡したのは、革の切れ端である。
「ずっと口の中で噛み続けろ。飲み込むな」
言われるままに口の中に入れる。強い獣臭。
――!
カサはうろたえた。
臭いに強く記憶を喚起される。
――この革……。
血が逆流する。
――コブイェックの革だ……!
飢狂いの記憶がよみがえり、吐き出しそうになる。
血と、痛みと、獣の臭い。恐怖の記憶を必死でねじ伏せ、無理やり革っ切れを咀嚼する。ひと噛みごとによみがえる記憶。
カサの右腕を食らった獣。
その獣臭と、熱い息づかい。
誰かの血の臭い。
顔を引き裂こうとする爪。
ベットリと眉間に貼りついた、獣の爪にからまったの誰かの皮膚。
――ちょうどいい。これで目が覚める。
これっぽっちも嬉しくないくせに、カサは歯をむき笑ってみせる。眼が爛々と輝いている。つきまとう恐怖を克服するために、カサは一つの道を選んだ。
殺意。
頭の中で荒ぶる餓狂いへの恐怖に対抗しうる唯一の感情、それは強い殺意を持つことだ。
今まではただ獣を厭うていた。
いや、怯えていた。
殺戮を楽しむ残虐性と、力を生み出す巨体と肉体を裂く鋭い爪と、血に飢えた牙を。
あの、独特の強い臭いが、カサの心を千々に乱れさせる。
塗りつぶしたい。
もう耐えられない。このままじゃ自分は頭がおかしくなってしまう。
――だから、殺す。
――僕は、コブイェックを、殺す。
――ぜったいに、殺す。
この世界で一番嫌いな臭いのする塊を、口の中で噛み砕きながら、カサは々自分の中に生まれたばかりの殺意を刻みつづける。
――喰い殺さなければ、僕が喰われて死ぬんだ………。
ギチリ。
奥歯で強く噛んだ拍子に唾液が口から垂れ、雨がそれを洗い流してゆく。
カサの目は、もう雨も風も雷も見ていない。
ヒルデウールは、言い伝えどおり三日三晩つづいた。カサもガタウも、その間はほとんど一睡もできなかった。
雲間から、闇を分断する光が斜めに差しこむ。
雨も風も弱まり、気温が上がり始めるとさすがにカサはホッとした。
――これで眠れる……。
限界など、とうに超えている。
一番つらかったのは、二日目の昼ごろだ。
干し肉を食いながら、カサは気を失った。
すぐにガタウが頬を張りとばさなければ、カサは二度と眼を覚まさなかったかもしれない。
それからは気力の勝負だった。
立ち上がり、足踏みをつづけ、コブイェックの革を食いちぎり、それでも足りず、自分の頬の内側も噛み切った。口の中が血だらけになったが、死ぬよりはましだ。
ずっと右腕が痛かった。痛みに気が遠くなる事もあった。
その感覚が無くなった頃から、失ったはずの右腕が痛み始めた。
それも右手の指先がだ。
痛くてたまらないのに、その箇所を抑える事もできない。
カサは苛立ちを通り過ぎて、頭がおかしくなりそうだった。
幻肢痛から逃れるために、カサは憎悪を燃やし、ずっとつぶやきつづけた。
「……殺す……殺す……殺す」
その異変にガタウは気がついていたが、何も言わなかった。
幾日が経ったのだろうか。
指先すら見えない視界。
太陽を完全にさえぎる分厚い雲のせいで、もはや昼だか夜だかも判別できない。
雷光。
一瞬大地が昼のように鮮明に見える。
雨に打たれて、見わたす限りの泡立つ地面。遠景は豪雨にさえぎられ、薄暗くぼやけている。
その非現実的な現実に、鳥肌が駆けぬけてゆく。
ゴゴウ!
追いかけてきた雷鳴が、小さく縮こまる二人の背中に吠えつける。
逃げ出したい衝動を、歯を食いしばり耐える。
ずっとずっと、ただ耐えつづける。
そしてついに日が差し、安堵に前にのめり込んで倒れ気絶するカサを見て、ガタウは己が強いた道の過酷さと、それを見事に越えた、少年の逞しさを知った。
――耐え切ったか。
子供の身に、この三日三晩は辛かったろう。
もちろんガタウはカサをほめたりしない。
今甘やかせば全てが無に帰す。
カサ自身も、ガタウのほめ言葉など期待していないであろう。
ガタウはカサを横にさせてやり、無言で自分のケレをかける。
重たい雲間から、明るい青空が見え始める。
やがて完全に晴れわたるだろう。
水音がする。降りつづいた雨がこの近くで流れをなしているのだろう。
ガタウはあぐらを組み瞑目する。
人生の終わり近いこの歳に、カサという少年に出会えた事を、ガタウは僥倖と受けとめている。
――この少年に、自分の全てを教えよう。
カサの才能を発掘するごとに、その気持ちが固まってゆく。
雲間の光が、二人を照らす。
一つの杭に身体を結びつけた、昏々と眠る少年と、偶像のように座る老いにさしかかった屈強な男を。
嵐が去り、砂漠にそよ風がもどった。
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