再びの生

 そよ風に銀灰色の髪をいじられて、カサは眼を覚ました。

 ドウドウと地をつたう響き。

――まだ雨が降っているのかな……。

 気がついて跳ね起きる。いつの間にか寝てしまっていた。赤みを増した低い太陽が目に入る。

「そうか、もうヒルデウールは……」

 通り過ぎてしまったのだ。

 それが声に出せないのは、耐えつづけた時間が余りにも長く苦しかったために、もう気を張らなくていいと、にわかには信じられなかったからだ。

 地面が輝いている。

 チラチラ揺らめく光は、蜃気楼によく似ている。だがよく目を凝らすと、光っているのはすぐ近くである。

「……なんだろう」

 立ちあがり足を運ぼうとすると、体を縛りつけた縄が邪魔をする。

 それを解き、夏営地外縁の谷を下ると、洗い流された地面のそこかしこで小さな植物の芽が小さい首を出している。

――これは……。

 頭に少し砂をのせた新芽を、カサは踏みつぶさぬ様に歩く。

 湿ったそよ風、ティレがカサの身体をいたわるように撫でる。

 風の中に、水蒸気と新芽のみずみずしい薫りが混じっている。

 ドウドウと響く音が段々と近づいている。

 枯れ谷は激流へと変貌していた。

 透明な水が見たこともない量で地面を流れ、さざなみが夕日をきらきら反射している。

――綺麗だ。

 余りの美しさに、カサは見惚れてしまっていた。

 雨にゆるんだ地面も、そこから萌え出す生命たちにも、滔々流れる水面にも、それら全てを照らす地平線に消えゆく太陽にも、全てに感動していた。

 空の青、落日の紅、褐色の大地に、生命の緑がちりばめられている。

 そしてたたずむ灼熱の肌をもつ赤き装束の少年。

 画家であれば、そこに完成された一枚の絵を見たかも知れない。

 ティレがカサを包む。

 優しく吹きつけ、名残惜しげに過ぎてゆく。

 夕日を受けた顔、その瞳が輝いている。

 驚いたまま開いた口は、まだ言葉をかたち作らない。

――なんてきれいなんだろう………。

 やがて太陽が地面に消え行く。

 足音が近づいてくる。

「起きたのか」

 もちろんガタウだ。

「は、はい」

 声がかすれているのは、寝起きだからか。

「来い」

「はい」

 顎で行き先をしめすガタウについてゆく。

 ザクザクと湿った地面に残る足あと。

 その先は、さっきまでいた場所、杭にくくりつけられた解体された天幕が残されている。

 ここ夏営地には、他に何もない。

 ガタウが腰を下ろし、カサも向かい合わせに座る。

 ガタウが火をたき始める。

 火打ち石で、油をしみこませた細枝枯れ葉に火を点ける。

 持ち出した鍋には水が張られている。

 今しがたそこの河で汲んできたにちがいない。

 この様子では井戸は使えないし、いらないだろう。

「すごいですね……」

 揺らめく炎から顔を上げ、ガタウが不思議そうにする。

「何がだ」

「あの……水です……」

 なんと説明すればよいのか、カサには判らない。

「河か。水が流れつくせばやがて消える」

「河?」

「そう言うらしい。いつか冬営地に来た商人が言っていた」

「河……」

 口の中で繰り返す。それでもあの光景と名前が、上手く馴染まない。

「飲め」

――なんだろう。

 ガタウが差し出したのは、熱い茶の入った椀だ。

 簡単に熟成させた葉をそのまま煮出し、塩と脂を溶いてある。

 茶と言うよりも、汁物と言うほうが近い。渡された椀を口許に持ってゆくと、ぐうと腹が鳴った。

「あつッ!」

 熱い茶が、かみ切った口の中の傷を焼いた。

「ゆっくりと飲むがいい」

 ガタウの口調には、気遣いの響きがある。

 大戦士長もヒルデウールが過ぎ去ったのが嬉しかったのかなと、カサは勝手に納得する。

 慎重に口をつけ、すする。

「おいしい!」

 滋味あふれる塩味だ。

 なんといっても薫りがいい。

 カサは舌が焼けるのを気にしながらも、忙しげに茶をすする。

 あっという間に飲み干すと、大きく息をつく。

「まだ要るか?」

「は、はい!」

 ガタウは注いでやる。

 カサは急いですすり始める。さっきほど熱くはないが、旨みはたっぷりだ。

 この時代、世界中どこでも茶は貴重品である。初めて味わう茶に、カサは夢中になった。

 全てを平らげると、カサはため息を吐いた。

「旨かったか?」

「はい!」

 身体が温まり、目も覚めた。

 長いヒルデウールの後なら尚更だろう、こんな爽快な気分は久しぶりだ。

「明日、鍛錬を再開する。今日はよく休め」

「は、はい!」

 すぐに夜はやってきた。

 まだ乾いていないケレは少し不快だったが、久しぶりの安らかな夜だった。

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