絶望の圧
カサは硬直する。
指一本、動かす事すらかなわない。
絶望。
カサが対峙したのは、そういう名前の獣であったかもしれない。
そして血に粘ついた絶望の口が開く。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
吼え声はその音圧だけで子供のカサを消し飛ばさんばかりだ。
三歩よろめき、槍を構えなおすカサ。
震える手つきで相手の眉間に向けた槍は、コブイェックにとってそこらの木の枝と変わらない。
カン!
前肢で槍を払いのけ巨大な牙をむいてカサに襲いかかる餓狂い、頭から降ってくる大きな牙、それをさえぎって両手でつかんだ槍身を餓狂いの口元につきだしたカサ、奥歯に食いこんだ堅い唐杉の槍身を物ともせずかみ砕く餓狂い、左右真っ二つに折れる槍、カサが何かを叫ぶ、誰も指一本動かせないのは誰も次の獲物になりたくないから、押し倒されたカサの右の二の腕に餓狂いが喰らいつく、絶叫、餓狂いが首だけで軽々とカサを持ち上げ天高くふりまわす、右腕二の腕の皮膚が裂け脂肪を割り筋肉が千切れる感触、絶叫、地面に叩きつけられる、一度、二度、気絶、そして覚醒、さらに叩きつけられる、今度は岩、背中に受ける衝撃にカサの悲鳴が圧し潰される、頭上の月がうるさい位に眩しい、やや傾斜を帯びた不自然に広く平たい岩肌がまるで祭壇のよう、餓狂いがいつもそこで気に入った獲物を解体する習性があることを勿論誰も知らない、右上腕骨が根元から砕ける感触、絶叫、カサと餓狂いの目が合う、狩る者と狩られる者、苦痛と恐怖と恐怖と苦痛でカサ自身カサ自身の声すら聞こえていない、誰も指一本動かせないのは誰も次の獲物になりたくないから、力なく垂れる右腕の震える指先から血がとめどなくこぼれ落ちている、血を失いすぎて視界が黒くかすみ、血の赤と獣と闇の黒に塗り潰されてゆく、カサは絶叫していて餓狂いが右腕をかみ砕いていて右腕からは力が抜けていて震える指先からは血がとめどなくこぼれ落ちていて不自然に広い岩肌は餓狂いが気に入った獲物を解体するところで勿論そんなことは誰も知らなくて誰も指一本動かさないのは誰も次の獲物になりたくないから、だから、
だから、
カサが左手に折れた槍を
手離さずに持っていられたのは
奇跡だった。
恐怖と混乱に弾けそうな頭の中で、カサは、その手の槍とその意味を思い出した。
――……!!!
声にならない本能が脳髄で吼える。カサは左手の中で槍を短く持ちかえ、右腕を食らいつづけるコブイェックの下あごの更に内側に突きたてた。力ない槍先は、剛毛におおわれた強靭な皮膚の表面にすら達しない。邪魔臭そうにコブイェックの前肢がカサの顔面を押さえこむ。その爪が顔の右半分を引き裂く。ヌルリと頬にへばり付いたのは、爪に絡んだ誰かの皮膚。
――……!!!
折れて短くなった槍尻を、自由な左の膝で蹴りこんだ。
ビュル!
顎下の肉が薄い箇所に、槍先が深くすべり込んだ。
たまらずのけぞる餓狂い。
カサの腕に食い込んだ牙が、血の粘りを引いて離れる。
「ゴアッ!! ……ゴッ…ゴゥッ……!!」
狂ったように首を振り、突然の痛みから逃れようとするが、槍は深々と口内に喰いこみ、大きすぎ不器用な前肢では抜くこともかなわない。
顎の裏側から骨の隙間を突いた槍は、舌を貫いて口蓋を破り、先端が浅く脳に達していた。
餓狂いはしばらく苦しげにのたうち回っていたが、自らを苛む痛みから逃れられぬと知ると、燃えるような怒りの目をカサに向けてくる。
金色の双眸、夜行性肉食獣のたて長の瞳孔がキュルリと細く引きしぼられる。
口元から垂れる唾液にさっきよりも濃い血の色が混じっている。
刺さったままの槍をつたって、その赤い液体が糸をひいて落ちてゆく。
カサはその眼をにらみ返す。
恐怖も苦痛も、今は無い。
ただ朦朧とした意識の中で、最後まで戦いをつづけよと戦士の本能が叫ぶ。
祭壇の上のカサに、餓狂いがにじり寄る。
力なく横たわるカサ。
交わされた視線がからみついて離れない。
餓狂いの激しい怒りがカサに向けられている。
カサを殺す気だ。
カサの皮膚を引き裂き、肉を破り、骨を砕き、内臓を引きずり出し、四肢をもぎ取って、カサがカサであった身体の一片に至るまで破壊しつくす気だ。
だがカサは牙で噛み砕かれた怪我からの失血がひどく、身体の力はすでに失せ、そしてその手にもう武器は無い。
「は――……は――……」
頭の中で聞こえる呼吸は、カサ自身のものだ。
「ブフッ……ブフッ……!」
餓狂いが近づいてくる。
一歩、そしてもう一歩。前肢を上げのしかかろうとしたその時。
ボッ!
餓狂いの胸で何かが破裂し、血飛沫がカサの顔に降りかかる。
体内から胸の毛並みをかき分け、カサの鼻先に見えたのは、獣の毛並みより黒い、闇を吸いこんだような……。
――……槍先……。
心臓をつらぬかれ、のけぞって痙攣する餓狂い。
前肢を大きく広げ、天を仰ぎ立ちすくむ。
顎下から垂れさがるカサの槍が、痙攣にあわせて揺れる。
ゴボリ、血を吐く餓狂い。
槍尻から血のかたまりが落ち、岩肌と地面に赤が散る。
キュルリッ!
槍先がねじられ、胸に吸い込まれて背中側に抜ける。
餓狂いが膝をつき、地響きと砂煙を立て後ろに倒れた。
その向こうに、槍を低くかまえた、背の低い隻腕の男の姿。
「……大戦士長……」
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