怯懦と瓦解
名を呼ばれた二人が、左右から進み出る。
ヤムナのほうがやや堂々としているか。
「三組に分かれろ! ヤムナは単独で背後を取れ! ウハサンとシジは右に回りこめ! ソナジとウォナはラヴォフにつづいて左だ!」
戦士達は恐る恐る、獣に気圧されながらも左右に展開する。
「正面、一番槍は俺が行く! 左手ラヴォフを筆頭に二番槍! 右のソナジとウォナは三番槍だ!」
ラヴォフが面々を見た。その目には恐れ、そして決然とした怒りがある。
「終の槍はヤムナ! 背後に回れ! 狙いどころは背骨のすぐ左、肺の下にある心の臓だ! よいな!」
気合の乗った声で、ブロナーが指示をとばす。
「カサとトナゴは俺の背後! 槍は低くかまえ、コブイェックの目につけよ!」
カサが三歩さがり、トナゴはオドオドと引けた腰で歩を進める。
が、獣から見て半身が隠れるよう、ややブロナーの背後に位置している。
内心舌打つブロナー。
わずかな頭数の状況では、この二人ですら戦力。
幼いカサですら必死に声をふりしぼり槍をかまえているのに、包囲が完全でなければ、一番槍を仕損じてしまうのに。
――トナゴはこの有様か。もはや居ない物とするしかない。
今すぐ槍を捨て、その緩んだトジュの腰紐を絞り上げてやりたいがそんな余裕は無い。
目の前の餓狂いに意識を集中する。
最も重要なのは、一番槍。
獣のうごきを縫いとめる役割をはたす。
つづいて重要なのが、終の槍。
獣の息をしとめる、締め一撃。
この二つが完全でこその狩りなのだ。
しかしブロナーといえど、一番槍は一度もなく、終の槍も数えるほどしかない。だがそれを悟られては、戦士たちの士気にかかわる。
――落ち着くのだ。俺がうろたえれば、皆ここで命を落とす。
恐怖にしびれそうな意識を沈静させようと、大きく、そしてゆっくりと息を吸い、吐く。
ス――――、
フ――――、
ス――――、
フ――――。
鼻から吸い、口をすぼめて吐く。手負いのコウクヅのように暴れ、跳ね回っていた心音が、少しずつ静まる。すべり下りてくる脈拍を、軽く握った槍を持つ手に感じながら、ブロナーが小さく足を踏み出した。一同を風のように緊張が駆け抜ける。
――狩りが、はじまる。今までで最も絶望的な狩りが。
カサの喉が、潤いを求めてグルリと動いた。すでに口の中は干からび、飲み下すつばもない。
「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ひときわ大きな声を上げる。
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
ゴロゴロと耳障りな獣の吐息を、絞り出した声でかき消そうと誰もが必死だ。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
後のない状況が、彼らの気持ちを一つにまとめていた。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
一段と大きく、唄が響きわたる。
ジリ……。
ブロナーが距離をつめる。気圧されたコブイェックが前肢を上げ、二足立ちになる。
「ゴアアアアアアアアアアアア!」
威嚇のひと吼え。
そびえたつ圧倒的巨体に、新顔戦士たちが本能的恐怖に呑まれる。
ブロナーが不敵に口許をゆがめた。
――いい流れだ。
一の槍を入れるには、獣を後ろ肢で立たせなければならない。
そのために戦士たちは周りをとり囲み、槍を高々と振りあげるのだ。
ジリ……。
またブロナーが半歩つま先を進める。
餓狂いとの距離が2イエリキ(約6メートル)を切ろうとする。
カサの体の芯が震えた。
ドクドクとこめかみで感じる血流が、拍子を早める。
――大丈夫。大丈夫。
おのれに言いきかせ、懸命に心を静める。
――大丈夫、戦士長にまかせていれば大丈夫。
そうしてこれまで無事にこれたのだから、今もそうしていればいい。
ブロナーが自分を守ってくれると約束したのだ。
カサだけではない、すべての戦士たちがブロナーと餓狂いの対決を、息を呑んで見つめている。
ブロナーがまた距離をつめた。
これで彼我の間は、2イエリキ(約6メートル)を大きく割った。腰にかまえた槍先と餓狂いの間には、6〜7トルーキ(2メートル強)の空間しかない。
――もう二歩。
一番槍までの距離をそう測る。
鬨声に気づいた仲間が駆けつけても、ブロナーと餓狂いの対決は決定してしまっている距離だ。
槍尻をにぎる手が汗でヌルついている。
いざ突き込んだ時に滑ってしまいそうで、一度槍を離して腰布で拭いたくなる。
――クソッ。
些細な事が気になるのは、眼前の相手に集中できていない証拠だ。
忌々しげにブロナーは餓狂いを睨みつける。
眉間を寄せると、油っ気の多い汗が右目に入る。
反射的に片目が瞑ってしまった。
汗を拭いたいがそれも出来ない。
――こんな時に。
焦ってはいけない。
——汗のことなど忘れろ、目の痛みなど捨ておけ。
狩りに無用のあらゆるものを頭から締め出し、ブロナーは目の前の巨体だけに意識を集める。
そしてまた一つ足を運ぶ。
――もう一歩。
ギリギリまで張りつめた、千切れ飛ぶ直前の弦のような恐怖と闘志のせめぎあい。
いつの間にか唄が消えてしまったことに、誰も気づいていない。
餓狂いと正対するブロナー。
まばらな円を描いてそれを取り囲む戦士たちの血走った目。
その中心で荒い息をつき飢えた牙を見せる餓狂い。
「ゴルルゥ……、ゴルルゥ……」
威嚇をこめたコブイェックの喉鳴りが、警戒のうなりに変わる。
閉じられたこの世界の中に他の物音は、何一つない。
ジ……リ……。
最後の半歩をブロナーが踏む。槍を腰だめに低くかまえ、コブイェックの右後ろ肢付け根に狙いを定めた。
――やるのか?
――本当に突くのか?
ブロナーが一の槍を打てば、槍ぶすまで一気に狩りを完遂させねばならない。
一瞬の足並みの乱れがこの場全員の命を奪う、それが狩りなのだ。
ブロナーが腰を落とす。
――完璧なる一の槍をこの手に……!
半ばまで腹に息をため、
――戦霊たちよ、我に力を……!
止め、
――……!
滑り込むように槍先を餓狂いに突き込もうと前方に体重をかけた
その瞬間。
「ヒアアアアアアアアアアアアア!!!」
悲鳴。
――誰だ。
槍を投げ出して逃げてゆく太った背中、その戦士の名は
――トナゴ。
戦士たちが動揺し、包囲が崩れる。
殺戮が始まった。
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