死の手触り
月明かりに、黒き毛づやが濡れたように光る。
ノシリ、獣の前肢が彼らとの距離をつめた。
一人残らずいたぶり殺すつもりだろう。
コブイェックは殺戮を愉しむ。
ザッ!
だがその前進を、ブロナーが制した。
獣の行く手をふさぐように現れ、その鼻先に油断無く槍先を向ける。
「構えろ!」
一喝するが、誰も動こうとはしない。
「このまま喰らい殺されたいか! 貴様らも槍を構えよ!」
再び怒鳴られ、皆が慌てて槍を構えた。
チャ!
不揃いに並んだ槍先を鳴らし、一団は獣と対峙する。
獣は足を止め、値踏みするように彼らをねめ回した。
目が餓狂い、ヅラグとよばれる金色をしている。
獣のもっとも危険といわれる状態だ。
その瞳の向こうにチロチロとくすぶる食欲に、みな慄く。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ!」
今にも窒息しそうな呼吸はトナゴだ。
集団の最後尾、他の者に隠れるように、腰が引けたまま槍を顔の前に突き出している。
望むところだと嘯いていたシジも、震える槍先をおびえた様子で見ている。
シジだけではない、気の強いヤムナやラヴォフでさえ怯えて縮こまっている。
――くそ、
この遭遇は、コブイェックの脅威を軽視してしまったブロナーの責任だ。
――もっと早くに引き返させるべきだった。
省みてもすでに遅い。
今は、いかにしてこの窮地を切り抜けるかだ。
だがブロナー以外の手勢は、幼さの抜け切らない新顔の戦士たちばかり。
状況は絶望的だった。
――どうしよう。
麻痺した頭で、カサは眼前にあぎとをむいて待ち受ける死を、強く予感する。
――このままじゃ、みんな死んでしまう。
全身にいやな汗がどっと噴き出す。
手元に槍がやけに重く頼りない。
ゴクリ。
つばを飲む音が耳の裏で、居心地悪く響く。
「……フォッ! ……フォッ!」
耳ざわりな獣の息が、牙のまわりで湯気と化す。
何度も見たはずの左の牙の長さに、あらためて戦慄を覚える。
あの牙をもってすればカサの身体など、あっという間に噛み砕かれ、引きちぎられてしまうに違いない。
なにをすべきなのか、カサは必死で考える。
――獣を、悩ませなくては。
下手に動けば獣の攻撃本能を刺激するだけだ。
カサはとっさに浮かんだ考えに、自分の運命をを委ねた。
「オッ、オオオッオオオオオオオオオオオオッ!」
一の鬨声。
ブロナーのすぐ右に乗り出したカサが、腰だめに槍を構え、必死で声を張り上げた。
重圧に今にもかき消えそうな声だったが、それがこの少年の精一杯で、もちろんこの巨大な獣を怯ませるほどの力は無い。
――この小僧! 何をしていやがるんだ!
先ばしるカサに、息を殺していた新顔の戦士たちが苛立ちをあらわにする。
だが、カサはやめない。
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
小さな身体で、渾身声をふりしぼる。
「オイッ、止せッ……!」
「カサッ……! この腰紐抜け……!」
獣を刺激せぬよう、ウハサンやヤムナが後ろから擦れ声でカサを制止する。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
声が、身体の芯から出はじめた。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
「クソッ! カサッ……! 静かにしろ…!」
彼らのひるみとは裏腹に、ブロナーはカサに活路を見い出した。
――そうだ、これは狩りだ。
自分一人でこの窮地を乗り越えねばならない、その意識がブロナーの心を追い込んでいた。
――これは、狩り、ならば必要なものは明白。
ブロナーは戦士、そして目の前の獣は獲物なのだ。
いかなる相手であろうとも、戦士が狩りを前に逃げ出すことは出来ない。
狩りこそ、戦士の存在意義なのだ。
――この
ブロナーは腹を決めた。彼を苦しめた恐怖は彼方へと去り、覚悟の種火が身体の奥の炉に火を点す。
「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ブロナーがカサに唱和する。
「声を出さんか! 貴様らも戦士なのだろう!」
ブロナーの一喝に、一瞬の動揺。そして、
「ヤアア!」
「アア、アアアア!」
「ヤアアアアアアアアアアアアアアア!」
声に声が、重なってくる。ヤムナが、ラヴォフが、ウハサンがカサたちにつづく。
「ハー! ハー! ハッ! ハッ!」
さらにシジとウォナが、もう幾人かが加わった。
「イヤー! アー! ヤヤヤヤヤ!」
「ヤヤヤ……」
最後にトナゴが、及び腰ながらもつづく。
全員が、一つ唄を謡う。
戦士の狩りの始まりだ。
一の鬨声を奏じると、瞬間、餓狂いが戸惑うように首を巡らせた。前進を止め、困惑したようにぐるりとその場を回る。
二の鬨声をうなり、彼らは勢いづいた。
三の鬨声で強く吐気すると、彼らはがぜん勢いづく。
――いける。
絶望を必死に拭い去ろうという前向きな思考が、ようやく彼ら全員に芽生える。
四の鬨声で唱和がまとまりを見せはじめる中、ブロナーは槍に集中する。
――急くな。急いては槍を正しく穿てぬ。
今のこの勢いは、枯れ葉を焼いたような細い火だ。
ツェズン、つむじ風のひと吹きにも耐えられまい。
大切に時間をかけて、この火をもっと大きなものに移さねばならない。
――それには包囲だ。
「ヤムナ! ラヴォフ! 前に出ろ!」
ブロナーが叫ぶ。
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