第3話

 いくら呼んでも返事は来ない。試しにベッドから降りて肩に手をあて、軽くゆすってみる。反応はない。

「み、なと?」

「ミナトっ」

 恐怖のあまり、大声で叫んでしまった。ミナトが動かない。何があったのか。

 声をあげてから気づく。ここは病院だ。叫び声に釣られて人がここにやってくる。なんでもないことのはずなのに、僕はどこか後ろめたかった。

 慌てて立ち上がり、倒れているミナトに背を向けた。そのままベッドの反対側まで回り込む。

 そこに転がっていた赤いボタンは蓋が開いてボタンが剥き出しになっていた。それが意味するものはなんなのか、僕には全く解らなかった。咄嗟にそれを拾い上げてしまう。


だっだっだっ

 外で音がする。間も無くしてドアが乱雑に開けられた。

「っちょっと、ヨコタさん、なんですか。大声d——」

 ヒッ。と言いかけて、看護師は倒れているミナトに目を止め立ち尽くした。慌てて駆け寄り、様子を見る。

「し、死んでる!?ヨコタさん、あなた——」

 そして怯えたような視線をこちらに向けた。得体の知れない化け物を見るような、恐怖の視線。それと違って僕はどこか落ち着いていた。でも動揺してもいた。まさか、僕はまだこのボタンを押してもいないはずなのに。

「ち、違うんです。これは——」

「ひっ、人殺しっ」

 そう叫んだ看護師の悲鳴に、僕は反射的にボタンを掴み上げ親指を乗せていた。特に抵抗もないまま押し込まれる。ボタンは軽かった。腰の高さから落としただけで当たりどころが悪ければ簡単に押されてしまうほどの軽さ。今になっては作ったものの悪意が透けて見える。

 それにしても、なんで僕の指は動いた——いや、僕は指を動かしたのだろうか。

 理由を述べるなら、怖かったからだろう。思いがけぬ出来事があって、隣の知人の袖を思わず握ってしまうような。

 でも、そんな細かいことはどうでもいい。

 事は一瞬にして、終わった。

 とりあえず、僕の心情に関係なく、ただ余韻だけが残った。看護師は仰向けに倒れ込んでいた。ミナトの上に重なり合うようにして。


 でもそこで止まらなかった。廊下からは幾人もの足音が聞こえてくる。

「どうかしましたか?」

 その声と共に病室の扉が開かれる直前、僕は再び親指に力をこめていた。

 いやだ。嫌だ、嫌だ。怖い。

 それだけしか頭になかった。廊下にいた職員も異変に気付いたようで、彼らの恐怖はあらゆる方向に伝播して、病院内は一瞬にして混乱に陥った。僕はといえば、渦巻くパニックにのせられるように気が高まっていた。

 僕の病室の戸が開かれた瞬間、反射的に親指に力が入った。嫌だという恐怖ももちろんあった。でもそんなこともわからないまま、行為は反射として叩き込まれていった。

 終いには足音を聞くだけで神経が反応するようにまでなっていた。

 かちかちかち。かち。か、かかか。


 長い、長い時だった。いくら経っただろうか。よくわからないままボタンを押し続けて混乱の中を僕はただ立っていた。そこには静寂があった。怒号に包まれた後の静寂。耳鳴りがした。僕は何もしなかった。隣のベッドに腰を下ろすことさえ、しなかった。

 いきなり静寂は破られた。僕の周りは全てが歪んでいた。


「ヨコタコウト。ヨコタコウト。聞こえているか。この病院は包囲されている。大人しく投降しなさい」

 バカ真面目な声が聞こえた。窓の外に目をやると黒い服に身を包んだ警察と、関係車両が止まっていた。随分と長い時間が経ったんだな。そんなことを考えていた。見える白と黒にはなんの感情も湧かなかった。

 意味もないのに。

 そう鼻で笑えた。今話している人だって、僕が数回ボタンを押せば死んでしまうのだろう。

「君が殺した人は数十人に上ると考えられる。投降しないと、射殺もあり得る」

 その言葉が僕に刺さった。一気に我に帰った。「射殺」ではない。数十人殺していること。死んだ人の中にどれだけの余命があったかはわからない。病院内だから後数日の人もいたのではないか。でも、そんなことは関係ない。少しだったとしても、合計するととてつもない量になるのだ。

 僕はそれだけ生きる、いや、生かされることになる。さっきまで心の奥底で望んでいた生に、今は憎しみを抱いていた。

 そして、死んでいった数十人は、どうなるのだろうか。思い至ったのはミナトだった。皆が皆、彼のように死にたかったわけではないのだろう。いや、ミナトさえもあれが本心だったかなんて定かではない。ただの冗談で死んだかもしれないのだ。

 僕が、奪った。

 自然の成り行きで死ぬ予定だった僕とは違う。汚れた手によって奪われた。

 もう、何もできなかった。

 体重が移動する。それに任せて、一歩、一歩、歩を進めた。長さが狂った廊下を通る。無限に続く階段を歩く。ところどころ転がっていた人は、入院着や白衣、看護服ばかりで、一層終わりを知らせなかった。

 いつの間にか一階についていた。

 一歩を踏み出す。太陽の光が僕に当たった。眩しさに目を細める。

「両手をあげて」

 すかさず声が聞こえた。歪んで光った世界の中、ただただ僕は黙々と声に従った。

「手に持っているものを床に置きなさい」

 腰を曲げ、ゆっくりと右手にあるボタンを下に下ろす。光でどちらがどちらだかわからない。

「こちらにゆっくり歩いてきて」

 声にただ従う。いつの間にか、僕の周りは黒くなっていて。僕は黒いものたちに拘束された。


 何もわからない日が過ぎた。何がどうなって、何のために、ここは何処だ。わからない。疑問だけが渦を巻いていた。誰が何をいっても何の反応もできなかった。

 それからはよくわからないまま時はすぎていった。きっと色々聞かれたのだろう。ただ何も覚えていない。世間は騒いだようだった。当たり前だ。

 ありとあらゆる報道機関が取り上げ、ありとあらゆるSNSの話題の中心になったのだそうだ。中には僕を英雄視する声もあったという。

 バカな。当然の成り行きとはいえ、何も知らないんだ。

 僕がこれらの情報を知ったのは、弁護士を名乗る人に聞いたからだった。事件以来、父にも母にも会わなかった。きっと親族も僕を化け物のように扱ったのだろう。面会はおろか、近づきさえしなかったのではないだろうか。そうだとしても疑問はない。僕と話す人、関わる人は皆怯えていたのだという。それは弁護士も同じだった。やる気のない人だったのだけれども、裁判らしき裁判にもならず、僕は投獄されただけだった。

 以前の僕とは全く違う——のだろうと思う。迫り来る死に怯える僕じゃあなくなっていた。その分感じることもなくなったのだけれど。


 どこだかで数回殺されかけた気もするけど、死んではいない。周りは驚いたようだし、不老不死とも騒がれた。でもそれは僕に対する国民の恐怖感情をさらに強めるだけにとどまった。知名度は高かったのだ。いくら騒がれようと特に変化はない。

 いずれにせよ僕には関係のないことだ。僕はあと数十人分の余生を生きなければならないのだから。それが、それだけが重荷だった。

 世の中では嵐のような議論になったらしい。僕にはよくわからない。罪を犯した。それはわかる。悪いことであることも、僕が一番知っている。けれども裁きを決めるのは他人だ。そういうふうにできている。

 未だ主張のぶつけ合いは続いているのだろう。

 僕はただ待つ。鼠色のコンクリートの中で、ただ一人生き続ける。もうどこか諦めていた。世の中の議論が収束することも、僕に裁きが降ることも。いずれ皆忘れる。ミナトは数十人のうちの一人にすぎないのだから。


 無機質な部屋をぐるりと見回した。ただ一つある机の上には以前読んでいた文庫本の作者の新刊が載っていた。僕が以前喉から手が出るほど欲しかったもの。でもそれには手をつけていない。中は一文字たりとも読んでいなかった。


 顔を上げる。目の前に黒い布が揺れる。

 ——ご満足いただけマシタか?

 落ち着く声質。だがどこか揶揄うような声音。どこかから声が聞こえた。聞こえるはずのない声だ。

「全く。むしろ気分は最悪だ」

 ——そうデスか。いずれにしろワタクシどもはこれで、失礼させていただきマス。ご利用、ありがとうございマシた。

 そうして何も見えなくなった。今度こそ、イズミは消えた。

 身勝手なものだ。

 でも、僕が悪いのだ。トリガーを引いたのは僕なのだ。僕が指に命じてやったことだ。イズミさんには、関係のないことなのだ。選んだのは僕なのだ。

 腰掛けていた椅子の背に体重を預ける。

 椅子は、はっきりぎしっと鳴った。


 その時、戸が開いた。

「ヨコタ、でなさい。面会だ」

 誰だろう。頭の中には疑問符が浮いていた。今更僕に面会しようなんて。

 疑問に思いながら立ち上がり、看守の後についていく。変わり映えのない通路を通って角を曲がり、階段を登り、ごちゃごちゃいったところに面会室があった。

「入りなさい」

 言われて願成そうな鉄のドアが開けられる。部屋のガラス越しに座っていたのは。

「コウちゃん」

 僕を見て、母は泣き崩れた。横にいる父も悲しそうに目を伏せた。二人とも随分やつれていた。寿命が伸びて老化が遅くなって僕と違って二人の間には着実に時間が流れていた。二人とも随分と年老いていた。それだけで僕は自分の下ことの重大さを突きつけられて気分だった。

「コウちゃん、大丈夫?」

「えっ」

 思わず聞き返してしまった。

「ほら、ここって暗いし、寂しいでしょう?」

 今更そんな心配をしていたのか。拍子抜けした。

「こんなところにいて楽しくはないだろう」

 声が柔らかかった。

「そんな、なんでそんなこと言うんだよ」

 何が何だかわからなかった。

「何でそんなこと言えるんだよ。僕は、僕は人殺しなんだぞ。そんな、そんな平気そうにすんなよ」

 完全に本心ではなかった。でもそれ以外の言葉は思いつかなかった。

「だって、コウちゃん生きてるでしょう。私はそれが嬉しいのよ」

 何とも簡単にそういってのけた。それだけで、それだけのことにこれまでを帳消しにできるほどの効力があるのか。

「も、もちろんコウちゃんは悪いよ。許されることじゃないし。でも、死にはしないでしょう」

 すがるような、悲しい声だ。それを聞いて僕は思い至った。

 僕はこれまで両親が面会に来なかった理由を僕を嫌ったからだと思っていた。でもそれは違ったのではないか。実は行きたくなかったのではなく、来られなかったのではないか。

 殺人犯の家族。経験したことはないから全ては憶測に過ぎないのだけれどもその誹謗中傷は言葉で言い表されるほどのものではないだろう。インターネットが発達した今、簡単に住所は特定され、どれだけの心労を負ったか想像し切れるものではない。その中を耐え抜いていたのだ。時間なんて、なかったのだろう。僕なんかには、耐え切れるかさえも解らない。

「俺たちは、お前に生きてて欲しいんだ。ただそれだけなんだよ」

 景色が滲んだ。

「そんな、それだけのために」

 今まで一度も、病院に入ってから泣いたことなんてなかったのに。こんなところで、溢れるとは。もう、何もないと思っていたのに。

「お前は俺たちの息子だろう」

 手の甲で、手のひらで、それを拭った。袖はぐちょぐちょになっていた。僕は、ずっと泣いていた。

 見慣れた景色は滲んで、それは見たこともないものへと変化した。それが美しかったかどうかなんて僕には解らないけど。

 いつのまに面会は終わったのだろうか。気がつくと目の前のはっきりした景色は鼠色だった。


 親がいた。それが、とてつもなく嬉しかった。家族の温かみが冷たかった僕に触れた。自分を卑しくも思ったのだけれど。その全てを涙が覆った。

「ミナト」

 不意に声が漏れた。

「ミナトぉ」

 彼にも親がいたのだ。家族がいたのだ。その家族にはぽっかりと穴が空いたのだ。かけたものは戻らない。戻そうともできないのだから当たり前だ。


 僕はギシギシ鳴る椅子の上で泣いていた。久しぶりに椅子は喚いていた。それが止まる気配はなかった。

 でもいつの間にか視線は、閉じられたまっさらの文庫本の表紙に向けられていた。


     [了]

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