第2話

 しばらくして、顔を上げた。いつまでもこうしているわけにはいかない。時計の針はもう午後五時を指していた。両親が見舞いに来る時間だった。

 椅子から立ち上がり、回り込んで布団をめくった。ボタンが消えているかもしれないという淡い期待は消え去った。僕はそれを、開きっぱなしになって跡がつきそうな文庫本とともに、ベッド脇の棚の奥にしまい込んだ。

「なんで、こんなことになるんだろうな」

 つぶやきは誰にも届かない。聞こえても僕の心が静まるような回答が返ってくるとは思えなかったけれど。

 そうしているうちに病室のドアが開いた。


「コウちゃん、大丈夫?」

「痛いところとかはないか」

 開口一番、両親は僕を労ってくれた。だがそれに相応しい返事をすることはできなかった。

「う、うん」

「特には、な、何もないよ」

「あら、良かったわ。それより、遅れてごめんね。寂しかったでしょう」

 怪しむ様子もなく、母は持ってきた鞄から荷物を出して、服などを替えていった。

「い、や。大丈夫だよ」

 もう高校生なんだ。そう言いたかったけれど、いつものように軽快な声は出せなかった。

「本当か?ずっとこんなところにいたら息が詰まるだろう」

「本当。暇ではあるけどね」

 皆、僕を心配してくれていた。

「辛かったらなんでもいってね。力になってあげるから」

 いつもだったら定例文ににしか聞こえなかったものが、今日はなぜか随分と誇らしかった。先ほどまでの暗い出来事は忘れて、幸せに浸ることができた。

「ほら、はい。病院食だけじゃあつまらないでしょう。お医者さんの許可も取って、買ってきたの」

 そういって母が取り出したのは、タッパーに入ったスイカだった。

「今が旬だから。冷たくはないが、甘くて美味しいぞ」

「あ、りがとう」

 まさかそんな差し入れまであると思わなかったものだから、僕は心底驚いていた。そして、少し誇らしかった。僕を思ってこんなにまでしてくれる両親がいることが。僕の入院代もバカにならないし、ここの仕事も忙しいだろうに。

「ありがとう」

 再び小さく呟いた。自然と口から出た言葉だった。

「そんな、他人行儀にならないでよ。息子の為ならこれくらい当然よ」

「そうだ。お前はまだ、子供なんだからな」

「うん」

 目の前に、二人の笑顔があった。

「じゃあ、早いけど、これで」

「また明日も来るからね」

 二人とも忙しいのだ。

「ありがとう」

 込み上げる涙に流れるなと念じながら、僕は両親を送り出した。

「じゃあね」


 短い時間だった。

 病室の戸はしまった。ベッドの横にはタッパーに入ったスイカと、フォークが残された。忘れて帰ってしまったのだろうか。僕は忘れぬうちにとそれを口に運んだ。甘くシャキシャキとした食感が一気に口の中に広がる。

 美味しかった。今までのどの差し入れよりも。でもそれとともに、これを食べれるのもあと一年だという思いが込み上げてきた。父も母も、あと半年しかない命のために時間を割いていくのだろう。

 僕なんかより、やることはあるだろう。

 それは定期的に見舞いに訪れる全員に向けて思ったことだった。でも、一人になるのは寂しかった。だから声に出すことはできないのだった。

 



 それからどれくらい経っただろう。

 その日、僕は久しぶりにそれを手に取った。枕の横に置いて横から眺めたり、手の中で転がしたり。押したくてたまらない心うちが滲み出ていたのだろうと思う。

 もうその不気味なボタンをイズミからもらってから季節が二つも過ぎてしまった。僕は相変わらず病室にいたもので、特に違いは感じられなかったのだけれど、窓から見える景色の変化は時間の経過を如実に表し、僕に突きつけてきた。

 その間、入院患者も増えたり減ったりした。おばあさんから男の子までよく覚えていないが一時期はベッドが三つ埋まっていた。

 変化はいろいろあった。

 ミナトが病院に来る頻度は減った。何があったのかは知らない。受験勉強で忙しくなったのかもしれないし、単に僕に愛想をつかしたのかもしれなかった。でも、彼なら残り少ない学校生活を謳歌していることだろう。楽しめるものは楽しむ。そんなやつだった。稀に来る病室での彼の声は弾んでいたし、やはり忙しかっただけなのだろう。僕の心配は杞憂に終わったようだった。

 そんな中、僕は着実に死に近づいた。医師から宣告される余命は徐々にピンポイントになっていき、それにつれ実感も湧いた。

 あの日から、ボタンのことは考えないようににしていた。病室を変えるためなど、やむを得ない場合を除いて触らないようにしていた。意識の外にイズミの黒いマフラーごと追い出そうとしていた。しかし、それは決して成功しなかった。

 死が像をはっきり結ぶようになり、イズミが掘り起こした僕の恐怖はねずみ算ほどのスピードで増大していた。

 ミナトも来ない。親には相談できない。

 必然、僕の手は遠ざけていたボタンへ伸びていくことになる。

 でもその時はタイミングが悪かった。


 僕がボタンをいじっていた時、ガラガラと聞き慣れた音がした。

 病室の扉が開いて、そこに立っていたのはミナトだった。

「やあ」

 軽く右手を挙げて戯けたように彼は挨拶をした。

 僕といえばそれに返すよりも頭の中は手の上にあるボタンのことでいっぱいだった。

 どう言い訳をしようかと、そればかりが頭の中を駆け巡っていた。

「こんにちは」

「あ、うん」

 二度目にしてやっと返事ができた。彼もこちらの異変に気づいたのだろうか。わざとらしく目を半開きにして不満そうな表樹をして見せていた。

「冷たいなあ。なんかあった?」

「い、いや。なんでもない」

 ボタンには触れられない。今隠すのはもっと不自然だと思ったからだ。

 ミナトは怪訝そうな目を逸らさない。

「そのボタン、何?」

 嫌なところをつかれた。言いたくはなかったのだけれど。

「これは——」

「それは?」

「以前もらった、よくわからないやつ」

 絞り出した苦しい嘘だった。それはミナトもわかっているようで、

「いつ?」

 と、すかさず聞いてくる。

「半年くらい、前かな」

 それを聞いて、少し考え込むようにしてから、

「嘘でしょ」

 とにやけていった。

「えっ」

「だから、よくわからないやつって嘘でしょ?よくわからないやつのもらった日なんて覚えてないだろうし、それなら不審すぎてほっとかないでしょう。今更になって愛おしそうに眺めるわけないし」

「い、愛おしそうに?」

「うん。そう見えたけど」

「そんなわけないよ。だってこれは——」

「これは?」

 やられた。これでもうミナトの手のひらの上に乗ったような気分だった。きっと何を言っても諦めずに根掘り葉掘り聞いてくるのだろう。僕はあきらめて大きなため息をひとつついた。

 ミナトは満足そうな顔をして、僕のベッドに腰を下ろす。

「これは、イズミっていう人からもらったボタンで——」

 僕は諦めて彼に話した。ミナトもこれまでの僕の不審な理由を知りたがっていたようで興味津々だった。僕が話したのは、単にこれまで隠すのに疲れて言いたかっただけかも知れなかったのだけれど。

 今考えると最低な決断だった。そのまま秘密を墓場まで持って行っていれば、何もおきなかっただろうに。


「へー。そういうこともあるんだな」

 話を聞き終わった皆との反応は意外に冷めたものだった。もっと激しく嘘だと否定されるものかと思っていたものだから、拍子抜けした。

「だって、半年も前だろ。この話。そんなに前なんだから信じてるヨコタがいっぱい考えた後だ。僕が割り込んで否定しても無駄さ」

 そう軽く言ってのけた。僕は自分の体験が肯定されたことに嬉しさを覚えると同時に、彼に揶揄われているような気がした。

「揶揄ってなんかないよ。至って本気さ」

「そう?」

「信じないのかい?」

 そう言われると弱い。僕は慌てて首を横に振る。

「そうは言えないね。信じてくれた方がありがたい、のだろうから」

「そう、ありがと」

 そうして沈黙は舞い降りた。窓の外はオレンジ色。部屋はLEDのおかげで明るい。もう何回と見続けた景色だった。特に今までのものと違いはないのだけれど、影が二つに増えているというだけでこれほどまでに安心感が違うのかと驚いた。

 心地よい沈黙だった。暖かい。

 僕の死亡予定日は一週間後だった。


「今、そのボタンを押してくれよ」

 沈黙を破ったのは低い声だった。声の主を見上げるとこちらを睨めつけるようにしていた。合わない。どこかチグハグで、いきなりよそのよくわからない場面を繋いだようだった。

「君は余命が伸びる。僕の望み通りでもある。ウィンウィンじゃないか」

 肝心の場所が抜けていた。

「そんなこと——」

 ——言うなよ。僕なんかより君が社会にできることの方が多いよ。それに、僕は、

「僕は君を殺したくない」

 僕はいつの間にか生真面目に反論していた。それよりも言わなきゃいけないことなんていくらでもあるのに。

 少し、口を開きかけてミナトは顔を背けた。僕はといえば、彼の顔を見るのが怖かったので、そのまま俯いていた。

「ちっ。そんな弱い理由?」

 とても不満そうだった。今までに見たことがなかった。僕の知っているミナトといえば、おちゃらけていて、もっとこう、軽かったのではなかったか。

「それだけなの?」

 真剣そうにそう聞くミナトに僕は気押されていた。

「うん」

 口で言うならばそれだけだ。僕の行動をコントロールしているのはもっと他に色々あるんだろうけど。思いつかないのだ。

「僕、大学受験に落ちてさ、このままだと周りにめっちゃ迷惑かけることになるし、恥ずかしいんだ」

 君こそそれだけじゃあないか。飄々とした彼の態度に苛立ちを覚える。

「そんなことないだろ。大学だけが道じゃない。世の中には大学に行っていない人がどれだけいると思ってるんだ」

「ずっと病室にいるのによくわかるね」

 皮肉だ、とよくわかった。ミナトはこちらの方を向いていなかった。

「何にも知らないくせに」

「ミナトよりはミナトのことをわかっているかも知れない」

「嘘だろ」

「嘘じゃない」

 僕はミナトよりは、今の自分は冷静に状況を見れているという自信があった。

「第三者視点の方が、わかりやすいものじゃないか」

「信じないね」

「さっきは信じてあげたのに」

「それとこれとは関係ないだろ」

 そうかも知れないけれど。そんなことはどうでもいいのだ。

「とにかく、僕はボタンなんて押さない」

「そこをなんとか」

「そういう問題じゃないだろ」

「でも、嫌なんだ」

 それだけじゃないか。嫌なだけで自発的に死のうとするなんて理解できない。

「君は僕の余命を使えるんだよ」

「それに、僕も君に使ってもらえるなら本望だ」

 ミナトはこちらに身を乗り出すようにして話していた。

「そんなこと言うなっ」

「でも、生きたいんだろう」

「ミナトは、死にたいの」

 少し考え込んで小さく呟いた。

「僕は、生きたくない」

 受験に落ちた。たかがそれだけでここまで本気に死を考えるミナトに僕は心底腹が立った。何も知らないくせに。今すぐ怒鳴りつけてやりたかった。もちろん僕の知らない事情なんていっぱいあるのだろう。でも許せなかったのだ。

 全然関係ないはずなのに、ミナトの姿がイズミの幻影と重なる。違うのは開かれた目だけ。黒い影がゆらゆらと揺れて、マフラーに見えた。その幻覚を首を勢いよく振ることによってかき消そうとする。

「僕も君の願いを叶えたい。頼むよ」

 そう言ってミナトは僕の手を優しく掴んだ。

 そのまま横にスライドさせていく。

 彼の手の力が強まった。目の前には赤いボタン。

 残り、三、二、一センチ。


 パシン


 そこで僕はミナトの手を払いのけた。ボタンのケースにも手が当たり、からんからんと安っぽい音が静かな病室に響き渡る。僕は無我夢中で叫ぶような気持ちだった。

「僕は、絶対嫌だからな。ミナトに、生きて——」

 ドサッ

 そこまでいった時、音が聞こえた。目の前にいたはずのミナトが消えていた。

「えっ」

「ミナト?」

 何もない病室を見回した。

 やはりいない。そう断定しようとした矢先、僕の目は床に伸びた人の足を見つけた。

 覗き込む。

 やはりと言うべきか、それはミナトだった。

「え、ミナト?」

「ミナト?」

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