像を結ぶもの
譜錯-fusaku-
第1話
もう随分と長い間太陽を見ていない。明るい空は目に映っているのに、それだけで気分が随分とまいってしまう。僕はただ一色の冷たいコンクリートの壁に囲まれている。一つある部屋の窓は北向きで、そこから日の光が差し込むことはない。
ここはどこであったか。そんなものはもう考えていない。そんなことはどうでもいい。今の僕には関係がないのだ。もうここから動く予定もないのだから。
怒りをぶつける先もない。元凶はもう引き渡してしまった。
そのための場所は無くなった。元々そんなことをするつもりもなかったし、しても意味はないのだけれども。
思い返してみれば、全てはあの病室から始まった。その出来事の形を定めるのは外界の人々。僕にとっては摩訶不思議な悪夢に過ぎない。それもこれも全て、今となっては全く証明しようがないのだけれど。
僕が入院していたのはそれなりに大きな地域医療センターだった。名前だけはかろうじて聞いたことのある病でだ。僕には全く無縁のものだと思っていた。しかし、不幸とは往々にしてそういう時にそういうことで起こるものだ。その時の僕もそうだった。
死の宣告を聞いた瞬間、すぐそこまで迫っていた高校生活は一瞬にして消え去った。だからこそ僕は絶望に襲われ、あんなものに頼ることになったのだ。
四人が入る病室。その日はおめでたいことに僕しか入院していなかった。数日前まで入院していた少女は少し良くなったのか笑顔で出ていった。
彼女の病気は知らない。不治の病なのかもしれないし、全然そんなことはないのかもしれない。そんな互いのことを何も知らない病人たちが絶えず入り乱れる病室だった。
とにかくその子のやや騒がしい声がなくなって、部屋はがらんと静まり返っていた。看護師が開いたカーテンはそのままにしてある。おかげで日光が眩しかった。
これだと目まで悪くなってしまう。
でもわざわざ閉じに行くのも面倒だったのでそのまま壁にもたれかかり、数ヶ月前から読み続けている文庫本の文字列に目を落とした。
何回も何回も読んでいるものだから、朧げながら文章が頭に浮かんだ。反芻しながらその世界に没入していく。
いつものことだった。これぐらいしかやることがないもので。
でもそれとともに、何か黒いものが目の前を通り過ぎたかのように見えた。見えたのは現実世界でだ。ベッドの前を何かが通り過ぎたのだった。
週に数回お見舞いに来るミナトという小学生の頃からの友人と家族を除いて、この病室は医者と看護師しか出入りしない。彼らの服装は決まっているものだから僕は目の端に映った黒い色に違和感を覚えた。
もちろん真昼間にお見舞いに来る人もいない。親でもミナトでもあり得なかった。
目前を移動する物体につられて顔を上げる。そこには縦筋の入った白いシャツ真っ黒のネクタイを締め、黒いズボンを履いた男の人が立っていた。目元はどこか優しげで、落ち着いている印象である。短くかられた黒い髪が健康的だ。間違っても入院患者ではないだろう。残暑が残る中、彼の首に巻かれた季節外れの長く黒いマフラーがその可能性を強く否定していた。
「ええっと——」
——どなたでしょうか。
そう目の前の人に聞いてみたもののそれよりも気になることはあった。彼の人影は見えたもののドアの開閉音はしなかった気がするのだ。
そんなことを考えている僕を置いて、前に立つ奇妙な人は一人話し始めた。
「ああ、僕のことはイズミとでも呼んでくれればいいデス。君とは友人になりたいわけではないのデ、名前はあまり問題ではなイ」
「はぁ」
いきなり入ってきて感じの悪い人だ。人生これからの僕でもそう感じる無愛想さだった。そんな彼は僕をそっちのけで一人語り始める。彼はそんな、とても自己中心的な人のようだった。
「それでは早速本題に入らせてもらいマスよ、アナタの寿命はあと長くて七ヶ月、ほぼ半年くらいですねデスね」
うっ。
頭では分かってはいても他人から突然言われる心の準備はできていないものだ。それも、情報を知り得ない赤の他人から言われるのは特に気分の悪いことだった。
そこで僕は不信感を爆発させた。それは相手方にも伝わったらしい。
「まあまあ、ワタクシたちはアナタの心配をいたずらに煽るだけ煽ってアナタが戦慄するのを見るのを楽しみにしてるんじゃあありませン。他に目的がちゃんとございマス」
「これを——」
そう言って彼が左手に持っていた黒い革鞄から取り出したのはどこまでも不釣り合いな透明なケースに入った赤いボタンだった。見たところそれ以外は入っていないようだ。何のための革鞄か。
大きさは手のひらの四分の一ほど。ケースの底は黒く塗られていて、にょきっと赤いボタン部分が伸びているように見えた。
とても安っぽい。言ってはいけないのだろうが第一印象はそうだった。あんなに高級そうなのりの効いたシャツを着て、漆黒のマフラーを巻いて、ピカピカの皮鞄を持っているくせにての上にあるボタンだけはどこまでも安っぽい。
「こらこら」
そんなことを考えていると男の人——イズミさんだったか——に怒られた。
「そんな失礼なことを考えないでくだサイね。確かにこのボタンの生産にかかるコストはプラスチックの費用だけデスし、安い。ワタクシとは不釣り合いだというのもわかりマス。デスが、これはアナタが喉から手が出るほど欲しい代物でしょウ?」
イズミと名乗る男は、そう低く誘うように言った。
喉から手が出るほど、欲しい。そう効いてぱっと思い浮かんだのは現在手の中にある文庫本、その作者の新作だった。作者は遅筆だからそんなことは万に一つくらいくらいしかないのだけれども、それが叶うものならば欲しい現時点での願いである。
「本当にそれだけデスか」
目を細め、パイプ椅子に腰を下ろして足を組んだイズミさんの姿に目が吸い込まれた。
沈黙は僕の不安を掻き立てる。
「このボタンは、押すことでアナタに1番近い場所にいる人間の余命を、アナタのものに還元しマス」
つまり、ボタンを押したら、今ならばイズミさんの寿命が僕のものになるということだ。
「普通、人間の平均寿命は日本なら八十歳近くありマスね。だいたい成人二人の横でボタンを押したら、アナタは健康な人よりも長生きできる計算デスよ」
そう言っておどけて見せた。そんな普通の人なら喜んでもらいそうなもの、自分では使いたくないのだろうか。何にしろ、僕には関係のないことだ。
「いらないよ」
思いの外大きな声が出た。イズミは驚いたようだった。
「僕には、そのボタンは必要ない。出ていってくれるかな」
「あなたは、何もわかっていない」
その声を聞いたイズミさんは目を皿に細め、大きく息を吐いた。首を数回横に振る。
「分かっていないのはどちらカナ」
彼の声はぞっとするほど冷たかった。
「僕のことだ。あなたにわかるはずがないだろう」
「自分のことが自分にしかわからないというのは単なる傲りデス。他人から見た自分は偏見だと決めつけテ、自分の主観だけを押し通しているだけ。こういえばよくわかりマスね」
言葉が、続かない。
イズミは立ち上がる。その腰に手を当て、前屈みになってこちらを覗き込んだ。僕は思わず目を逸らす。
「アナタ、死にたくないのでしょう?」
その言葉は、ぼんやりと、モヤモヤに僕の中に溶け込んで、少しずつ基盤に溝を入れる。そして、僕を揺らした。
頭がクラクラする。世界がぐるぐると歪んでいく。中心にあるのは、黒く、吸い込まれるような眼。
「あたりまえのことデス。好き好んで死にたいものなどこの世には居ない。アナタも然り」
「もしかして、自分は死を受け入れた、とか思っておられマシた?おや?驚いていマスか?自分の考えは他に人にわからなイ?そんなことはありませン。思考は所作から滲み出る。あなたの場合は隠してもいないのデスよ。わからないわけありませンよ」
ぐらぐら、ぐらぐら。
「死にたくないのは当たり前デス。世の中には『死』に関するコンテンツが溢れてイル。小説でもゲームでも、登場するキャラクターは華々しく死んでいきマスし、殺人事件だって大量に発生していマス。その中の誰か一人でも死にたくて死んでいると思いマスか?そう考えるならばあなたは傲ってイル。創作上のコンテンツなら、それは読む側の自由デス。どう感じようが解釈しようが、作者はそれに関われない。想像するのも含めて売っているのデスからね。だが現実世界の出来事において『望んで死ぬ』なんてことは起こりませン。どんだけ望んでもそれはフィクションの中でしか起こらない。アナタがもしそう思うならそれは思い込みでしかありませンよ」
「だからこのボタンはアナタが喉から手が出るほど欲しいはずデス。作家の本などというちっぽけな願いごととは関係なくネ」
「そうでしょウ?」
その言葉で歪みが元に戻った。パンっと音が鳴ったかのように世界はぴんと張られた。そんな力を持った言葉に僕の頭は縦に揺れた。
にぃ。イズミの顔は歪んだ。
「そして、ワタクシはアナタにこのボタンをあげると言っているのデス」
彼のいう心の奥底の望みが対価なしで叶うなんておかしい。そう思う心くらいは僕にも残っていた。
「嘘だろう」
「嘘じゃなイ」
「アナタは塾のチラシ配りや、NPOなどの支援にも対価がいると考える質デスか?」
これはNPOと同じ種類のものとでもいうのか。
「そうデスね。大体それであっていマス」
「絶対違うだろ」
「違いまセンよ」
「ある団体が主催して研究が行われているのデス」
「人体への影響を?」
実験体になるのは御免だった。
「それはもうとうの昔に終わっていマスよ。アナタはただ結果を享受するだけでいい」
まったく持って信用できない言葉だ。
「でも確かめようもないのでしょウ?」
それもいうとおりである。
「だからアナタはアナタの本能のままに、決めるしかなイ」
イズミは、不気味なボタンの蓋を開けてこちらに差し出す。
「アナタは、生きたいのでしょウ?」
窓も空いていないのに、カーテンが揺れた気がした。そんなことはないはずなのに。ボタンはこちらに近づいてくる。
「少なくともこのボタンを押して死ぬことはないのです。躊躇うことはなイ」
「ほら。このボタンは軽いデス、ヨ」
頭痛がおさまらない。
僕は、
手を、
伸ばして。
パンッ
手のひらを思い切り叩いたような、乾いた音がした。それは僕の耳にだけ届いたものだろうけど。
はあっ。
沈み込んでいた頭を振り上げる。指の先に目を向けた。指はボタンの上に乗っている。
はあ、はあ、はあ。
肩を激しく上下させた。
顔を上げる。イズミはもう消えていた。そして、頭をある考えがよぎった。
イズミが消えた理由。それがなぜであるか。
パサ。目の前にひらひらと落ちてきたのは白い紙切れだった。はやる気持ちでそれを開け、黒い文字を目で追った。それにはこう書かれている。
__________
ヨコタ様。
アナタはワタクシの命まで奪ってしまったと心配するかもしれませんが、それはあまり損害になっていませン。なぜなら俺は元々たかが一日ほどの命なのデスから。だから、アナタがボタンを押しても、アナタの命は一日しか伸びませンよ。
ちなみに、その後消えたのはそう作られているかデス。他の人に使った場合、その人は不審死した被害者として、ちゃんと残りますからね。その点お気をつけて。
では、幸せな余生をお祈りしていマスよ。
イズミ
__________
読み終わって大きくため息をついた。自分の手にある大きなボタン。プラスチックの軽いはずのそれがやけに重く感じた。
心臓がバクバクと鳴り響く。
ガラガラ。
その時病室の引き戸が開いた。奥から看護師が顔を出した。
「ヨコタさん、検温に」
咄嗟にボタンを布団の下に隠す。そのまま反対側に足を下ろした。
「大丈夫ですか」
「え、あ、はい。大丈夫です」
会話はそれだけだった。いつもと同じように静かに検温を終えて、看護師は病室を出ていった。
日が傾き、オレンジ色に染まった病室は静まりかえった。ボタンの隠してある布団に潜り込みたくなかったので、パイプ椅子に座り直した。イズミが座っていた椅子だ。僕の右手がボタン一つで消してしまったイズミ。彼の黒いマフラーが頭から離れなかった。
ミナトと会いたかった。彼がきてくれさえすれば。そう願った。でもミナトが来ないことは分かりきっていた。今日は水曜日だ。彼は塾に行っている。彼はもう高校3年生でもうすぐ受験だからしょうがない。それよりも今まで毎日のように通ってきていたことが不自然なくらいだ。
彼に会って、今さっき起きたことを打ち明ければきっと気は楽になるだろう。でも、それはできなかった。僕は今自分が病室にいることを恨み、自らの境遇を憎んだ。今まではこんなこと一度もなかったのだ。症状が出て入院した時だって、病名を告げられた時だって、余命宣告されても表面上は繕ってきたのだ。全てを受け入れ、何もなかったかのように小説の主人公を装っていたのだ。
イズミの言っていたことが頭に浮かぶ。確かに僕は騙っていた。自分の心うちを押し込めていた。
でも今はその仮面が外れそうだった。今までずっと見ようとしなかった自分の仮面の下に鏡が突きつけられていた。
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