第5話 冷や汗
カムイ──。
お前は今でも覚えてくれているのか。
それとも覚えていながら恨んでいるのではないか。
今でも……。
それだけが心配なのだ。
俺は忘れることが無いように今でも。
この部屋の中で、あのときお前が精魂込めて記してくれた羊皮紙を。
目の前の机の上にある、一冊の本に挟んで大切にしている。
俺の目の前にある本──。
あれから数年後に、ある場所で書籍化が叶った、俺が書いた本だ。
世には、それほど多く発行されてはいないが。
今もまだ──。
胸の内にある秘密の鞘に、秘伝カムイという名の一振りを納めているよ。
☆ ☆ ☆
「退屈になってきた。もう三十分も戻る気配がない……シェロくん、腹でもこわしてトイレに籠ってるんだろうか」
心配になったカムイが、部屋の出入り口に目をやる。
リビングはすぐ隣だ。聞き耳を立てる。
もてなしのために飲食物を準備してくれているにしては、物音ひとつ聞こえてこない。
静寂。
あまりの静けさに、その言葉が頭から離れないでいる。
シェロの部屋にあった時計は、デジタル時計だ。
リビングには秒針がチクタクと鳴り響く、見た目がアナログの掛け時計だ。
幼馴染とはいえ、他人の家の中。
ポツンと一人で謎の留守番をさせられている。
だが何かが、いつもと違うのだ。
やはり、ここは様子を見に行きたい。
「手伝いでもしようか」と声を掛けるべきか。
どうも様子が変である。
カムイは、気になり始めるとそわそわしだした。
だが、このようなことがこれまでにもあっただろうか。
過去を振り返り、二人の過ごした時間を読み解くように。
その時間の全てをすぐには巻き戻せない。
幼馴染とはいえ、他人の家の中。
ポツンと一人で謎の留守番をさせられている……。
「?」今しがた同じ思いをしたばかりだ。
ふと、寂しさが背中にまとわりついた。
さきほど彼は、自分を祝うための宴の準備があるのだろうと考えていた。
シェロと自分以外は誰も居ないはずの部屋だったが。
彼は小さな声で心細い気持ちを表すように、シェロを呼んでいた。
だが一向に返事が返ってくることはない。
狭いマンションの一室だ。
十三歳。
自分の携帯電話など、まだ持たされていない。
それについては、シェロも同じだと知っている。
一体……どこへ行ったのだ。
ここがシェロの自宅なのだ。
家にいなければ連絡の取りようもない。
カムイは、ふと思い出すのだ。
シェロはとても聡明で頼れる存在だった。
どんな時もずっと見守ってくれていた。
残酷ないじめにあったその日のことを。
その身を力強く抱きしめてくれたこと。
どんなに泣き濡れようとも、その心も一緒に抱きしめてくれていたことを。
一夜でも、二夜でも付き合ってくれた。
そんなことを。
「ずっと、ずっとだ」
シェロは、カムイに言った。
『俺がいつまでもそばに居なくても、泣かなくていい強さを早く持て』
自分だけの武器を心底、磨ききれと。
その武器こそ、ペンを執ることだったのだ。
『俺の心配はしなくていい。俺は地上の誰にも負けねぇ。だれも俺を侵害することは不可能だから、お前は一人になって寂しいからと、俺を頼ってばかりは許さないぞ』
それは──。
カムイが、いつの日か。
くしゃくしゃになった心が元に戻らないと、泣いてばかりの頃。
カムイの胸の奥に強く、強く刻み込まれた言葉だった。
腕のなかで眠れそうなぐらい抱きしめられていた。
寂しくなったり、不安を覚えたり、自信が持てないとき。
涙が止まった、その時のことを思い起こせと。
「いまは寂しくなんかないよ」
カムイはスッと立ち上がった。
シェロの様子を見に行くようだ。
リビングに出てきたが、明かりも消えていた。
「まさか? 買い物に出ちゃったのか……」
ここは、シェロの自宅だ。
親御は早朝に出かけている。
だから今は、シェロとカムイの二人だけが居合わせることになる。
部屋の明かりが消えている。
シェロの部屋以外の部屋、といっても。
親御の部屋、シェロの部屋、リビング、それにバスルームとトイレ。
キッチンスペースを含んだリビング。
部屋の間取りは、カムイの家も同じ。
自分の家よりも小綺麗に整理がなされていて、片付いている。
人がこっそりと潜んでいられるような、そんな物陰が一切ないのは一目瞭然だった。
カムイはまた考える。
普段なら、シェロの自宅で美味しい菓子や飲み物などを二人で頬張る。
そのひと時はこれまでも幾度となく経験してきた。
随分と幼い頃からだ。
その日常茶飯事における、ありきたりの憩いだが。
その流れが、このように止まることなど一度たりとも経験にはなかった。
二人で過ごすときは、絶え間なく互いの存在を感じて生きてきたのだ。
逢いたいときには、いつでも逢える。
だから今日という日も、いつも通りだと思って疑わなかった。
30分以上の空白に出会った。
これが自分の自宅なら何も問題はなかったのだ。
シェロが無言で自分の前から居なくなるなど、そんな時の過ごし方を彼は知らない。
カムイの額には汗が染みだしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます