昔、近所でよく遊んでくれたお姉さんが担任の先生になったんだが

ヨルノソラ/朝陽千早

昔、近所でよく遊んでくれたお姉さんが担任の先生になった結果、公私混同が止まらないんだが

「今日からこのクラスの担任になりました、倉宮くらみやひなのです」


 佐藤先生が産休に入るとのことで、担任が入れ替わることになった。


 新しく学校にやってきたのは、黒髪の女性。

 絹のように光沢を帯びており、肩や背中を覆っている。


 完璧なバランスで構成された顔のパーツ。透明感が全身から放たれていた。


 月並みな表現だけど、道をすれ違えば百人中百人が振り返る。


 そんな美人教師だった。


「担当教科は化学です。前任の佐藤先生から引き継ぐことになってるから、授業でもよろしくね。教師歴浅いから不慣れなところも結構見せちゃうと思うけど、ダメなところはフォローしてくれると嬉しいな」


 柔らかく表情を崩して、人当たりのいい笑顔を振り撒く。

 男子はもちろん、女子も好印象を受けているようだった。


 だが俺は……俺だけは違った。


「……ひな姉が、なんで……」


 思わず、ポツリと口からこぼれ落ちる。


 彼女、倉宮ひなのは俺の近所に住んでいたお姉さんだ。

 物心つく頃には傍にいて、よく一緒に遊んでくれた。俺にとっては本当の姉貴みたいな人だ。


 教師になると一念発起して東京の大学に進んだのは知っていたけど、ウチの担任になるなんて聞いてないぞ……。


「あ、早速で申し訳ないんだけど次の授業で使う荷物があるから誰か化学準備室まで来て欲しいんだけど、お願いできるかな? できたら男子にお願いしたいんだけど」


「はいはーいっ。俺やりまーす」


 ひな姉の呼びかけにクラスの男子が応じる。

 一人が手を挙げたのを皮切りに、俺も俺も! と次々挙手していく一同。


 このクラスは単純な男が集まっているのか、ひな姉の好感度を稼ごうとしている。


「みんなありがと。でも一人いいからどうしようかな……じゃあ、先生が適当に決めちゃうね」


 ひな姉は出席簿に目を落とすと、やや口角を上げた。


「……鈴川秀治すずかわしゅうじくんにお願いしようかな」


「え、俺、手を挙げてな──」


「ん? 何か言った?」


「な、なんでもないです。やりまーす」


 有無を言わせない眼力を前にして、俺は席を立った。

 男子連中から妬みの視線を浴びる中、俺は教卓の方に向かう。


「じゃあ、これからよろしくね。楽しいクラスにしていきたいな」


 清涼感のある笑みと澄んだ声。

 やっぱり、ひな姉だ。間違いない。


 同姓同名の顔の似た人という微々たる可能性は、一瞬にして打ち砕かれた。



 ★



「なんでひな姉いんの⁉︎ というか、ひな姉がうちのクラスの担任になるって、どういうこと⁉︎ コッチに帰ってたことすら知らなかったんだけど!」


 化学準備室に移動するなり、開口一番、俺は胸の内に溜まっていた鬱憤をぶちまけていた。


 ひな姉は、どうどうと言わんばかりに胸の前で両手を開き俺を宥めてくる。


「いきなり大きな声出さないでってば。外に誰かいたら聞かれちゃうよ?」


「……この状況が普通じゃないって認識はあるんだね」


「うん。担任と生徒が実は昔馴染みでしたーとか、問題になりかねないしね。公平性が保たれないとか言われそう」


「笑い事じゃない!」


 くすくすと笑みを吹き出すひな姉に、前のめりになってツッコむ。


 俺は肩を竦ませると、重たく吐息を漏らした。


「大学行ってから全くこっち帰ってこないし、連絡もくれないしで心配してたんだ……。なのに、急にウチの担任ってどう言う風の吹き回しなわけ?」


「あーえっとね、ここ、博明はくめい高校の校長先生とウチのお父さんが知り合いなの。それで少し融通効かしてもらったんだ。あ、ちゃんと教員免許は持ってるし、面接もしたからね。主に融通きかしてもらったのは、シュウちゃんのクラスの担任にしてもらったとこかな」


 ひな姉の話を聞く限り、ウチのクラスの担任になったのは意図的らしい。

 まぁ、ただの偶然で俺のクラスの担任になるわけないよな。


「どうやって俺の通ってる高校突き止めたの? 言ってないよね?」


麗花れいかさんが教えてくれたよ」


「ふーん……母さんとは連絡取ってんだ?」


「そんな怖い顔しないでってば。そもそも、シュウちゃんの連絡先知らないし」


「ひな姉は大学行ってから、こっちに帰ってこなかったもんね。俺がスマホ持ったの高校からだし、連絡先知るわけないよね」


「もーツンケンしないでってば。せっかく再会できたのにさっ」


 ひな姉が東京の大学に進学することになって、物理的な距離が開いた。

 寂しかったが、年末や長期休暇の時には帰ってくるものだと思っていた。


 しかし、一向帰ってくることはなく、連絡もないまま月日が流れた。


 そして急に戻ってきたかと思えば、ウチの担任になったと言い出す始末だ。


 素直に、この再会を喜べるわけがない。


「てか、ひな姉の話を聞く限りわざわざ俺のクラスの担任になってるよね。こういうのって、むしろ避けるべきだと思うんだけど」


「それはもちろん、私がシュウちゃんと同じクラスになりたかったからだよ」


「は?」


「ほら、私とシュウちゃんじゃどうやっても同じクラスになれなかったでしょ? 私が高校生の時に、シュウちゃん小学生だったし。じゃあもう私が教師になればいいやーって」


「そんなふざけた理由で教師目指す人この世にひな姉以外いないよ……」


 俺と同じクラスになるために、教師になって俺の担任になるとか発想が狂っている。


 ひな姉は頬を指先で掻き、苦く笑みを作る。


「まぁ、普通に教師になりたかったのもあるけどね。人にものを教えるのは好きだし、大人になってからも学校に通えるのはいいなって。そこに、シュウちゃんと同じ教室で過ごせる可能性あるってのが決め手になった感じかな」


「決め手が常人には理解できないよ」


「そうかな。それにしても、シュウちゃん大きくなったよね。もう、背伸びしても勝てないや」


「そりゃ、だいぶ会ってなかったからな」


 四年以上会っていないのだ。それだけ長い時間があれば、嫌でも成長する。


「これからは一緒にいれるんだし機嫌直してってば。もう勝手にどっか行ったりしないから!」


「そんな簡単に振り切れないよ。そもそも、何も連絡なしにウチの担任になるなんて勝手がすぎる。俺、ひな姉がこっちに帰ってきてたことも知らなかったんだ」


「サプライズだよ。サプライズっ」


「そんなサプライズ何も嬉しくない」


 拗ねたように言う俺。

 プイッとあさってを向くと、ひな姉は唇を前に尖らしてジト目をぶつけてきた。


「事前に言ってたら、私が担任になるの止めてきたでしょ。だから言わなかったの。相変わらず一から十まで全部言わないとわからないんだね、シュウちゃんって」


「ひな姉こそ伝える能力が低いんじゃないかな。というか、止めさせてほしいんですけど。担任が知ってる顔とか気まずすぎるんで。人の高校生活なんだと思ってんの?」


 負けじと反論し、バチバチと視線で火花を散らす。


 あの頃から、ちっとも変わっていない、

 教師になっても、昔と同じ身勝手なままだ。


 キーンコーンカーンコーン、とチャイムの鐘の音がする。

 一限目の予鈴。そろそろ戻らないと、授業に遅刻してしまう。


 俺は腰に手を置き、はぁとわざとらしくため息をこぼした。


「とにかくこの学校では教師と生徒。今後はこういった私的な接触はなしだから。色々と言いたいことはあるけど、後でにする」


「え、一緒にお昼ご飯とか食べようよ」


「誰かに見つかるリスクわかんないの? 変な憶測たって取り返しつかなくなるかもしれない。少しは自分の立場考えなよ」


「生徒と教師の禁断の恋か。ドラマみたいでワクワクするね」


「ワクワクすんな! そもそも、俺がひな姉と付き合うとかあり得ないから。変に勘ぐられて余計な噂が立つと厄介って話」


「え、今、なんて?」


「だから、余計な噂が立つと厄介って」


「その前!」


「俺がひな姉と付き合うとかあり得ない」


「よ、四年以上経ったよ……? 長い時間、顔も合わせない時間が続いたよ、ね?」


「うん。でも、ひな姉はひな姉だし。疎遠だった期間があっても、俺にとってはずっと姉貴みたいなもんっていうか」


 ひな姉は目をパチパチさせて、ポカンと小さく口を開けている。


 当惑を瞳の中に宿し、呆然としていた。


「ひな姉、大丈夫?」


「あー…………うん。平気平気。うん。このくらい初めから想定済みだし。うん。全然平気。だって、あのシュウちゃんだもんね、わかってた、うん。そうだよね。さすがだよ。敬服に値する、もうあっぱれって感じ。なんなら私がこの学校に赴任してきた時点で、勘繰られるかと思ったけど、そうだよね。気づくわけないよね。うん。知ってた知ってた──」


 ひな姉は壊れたロボットみたいにポツポツと独り言を呟き、放心状態に陥る。


「ひ、ひな姉?」


 声をかけると、ひな姉は正気を取り戻したように肩を上下し、乾いた笑みをこぼした。


「あ、あはは……私、もういくね」


「手伝わなくて良いの?」


「うん。初めから私一人で十分な量だし」


 確かに、大した荷物はなさそうだ。

 俺は後頭部をポリポリと指の腹で掻くと、ひな姉の後を追った。


「ここまで来たんだし、俺が持つよ。どうせ、同じ教室に行くんだし」


「シュウちゃんがどうしても持ちたいなら持たせてあげてもいいけど」


「はいはい。持ちたいんで持たせてもらいます」


「えへへ、ありがと」


 トレイを受け取り、ひな姉と肩を並べて歩を進めていく。


 ひな姉は見上げるようにして俺の目を見つめる。


「私、今日から先生だよ。シュウちゃんのお姉ちゃんはもうやめたの」


「その認識でいてくれないと困る。公私混同はまずいし」


「うーん……そう言う意味じゃないんだけど、まぁいっか」


「いや、どういう意味?」


 俺は眉根を寄せて小首をかしげる。

 ひな姉はジャンプするみたいに一歩大きく前進すると、俺の方に振り返り柔和な笑みを浮かべた。


「私が、シュウちゃんのことを大好きって意味」


「は、はぁっ?」


 素っ頓狂な声をあげて、頬に熱を溜める俺。

 思わずトレイを落としそうになるが、ひな姉がすんでのところで支えてくれた。


「動揺しすぎ。お姉ちゃんから好きって言われただけでしょ? 私、家族みたいなもんじゃないんだ?」


 クスクスと愉しそうに笑い出し、揶揄うように視線を送ってくる。

 相変わらず、俺を手玉に取るのは得意みたいだ。


「そ、そうだよ。家族みたいなもん」


「なら照れなくていいんじゃないの?」


「別に照れてない」


「そうは見えないけどなー」


 口角を緩めながら、俺の頬をツンツンと小突いてくる。

 誰かに見られたら少しまずい光景だ。幸いにも周囲に人はいないが。


「生徒と距離が近すぎるんじゃないの?」


「生徒と仲良くなるのも先生の仕事だよ」


「じゃあ、俺以外にもするんだ。こういうの」


「シュウちゃんって意外と嫉妬深いよね。もしかして私、束縛されてる?」


「そ、そうじゃなくて、ひな姉は昔から距離感がおかしいんだ。だから、俺以外にもしてると勘違いされかねないって言うか……」


「安心して。シュウちゃん以外にはしないよ」


「俺にもしなくていいから」


「遠慮しなくていいのに」


 そもそも、教師と生徒である以上、一定の距離感はあって然るべき。昔馴染みだろうと関係ない。

 ひな姉はそこら辺の認識が甘そうだな。


「あ、そうだ。これ、後で登録しといて」


「なにこれ」


 ひな姉から渡された紙を受け取る。

 しかしトレイを持っているため、紙の詳細を確認できない。


「私の連絡先」


「いきなり公私混同してない? 今は仕事中だろ?」


「うん。でも、早く渡したかったから」


「そっすか」


「じゃ、ここまででいいよ、ありがと」


 ひな姉は俺からトレイを取り上げると、そのまま踵を返して廊下を進んでいく。


 俺は小さく肩を落とし、連絡先の書かれた紙を見つめた。

 俺の高校生活、これからどうなるんだろうか。



 ★



「倉宮先生まじ美人だよな。一生見てられるわ」


 一限目の授業。

 早速、ひな姉が教壇に立っていた。


 右隣の席に座る辻本つじもとはだらしなく頬を緩め、鼻の下をこれまでかと伸ばしている。

 これが高校に入って最初にできた友達だという事実に少し目を背けたくなる。


「あー、彼氏とかいんのかな……鈴川はどう思う?」


「さーな。くだらない事考えてないで、真面目に授業受けなよ」


「ったく、ほんと真面目なお前。そんなんじゃ、女子からモテないぜ?」


「へいへい」


 辻本が女子とまともに話している場面を見たことがないが、一々突っかかると面倒臭いので適当にあしらっておく。


 しかし、ひな姉に彼氏か。

 少なくとも、浮いた話を聞いたことはない。


 だが、フラットな目で見てひな姉は美人だし、愛想もいい。

 同じクラスにひな姉がいれば、男子は放っておかないだろう。


 もうとっくに成人しているわけだし、これまで何人とも付き合ったことあるんだろうか。現在進行形で、彼氏とかいたり……。


(違う違う! 何考えてんだ俺!)


 俺は首をブルンブルンと大きく横に振る。


 ひな姉の恋愛事情なんて、俺が気にするところじゃない。

 なに変なこと考えてんだ俺は!


「鈴川。顔赤いけど平気か?」


「は? 赤くなんかない。俺はひな姉のことなんか……」


「ひな姉?」


「いや、ちがっ」


 まずい、失言した。

 俺がひな姉と接点があることは公にしない方がいい。


 慌てて口をつぐむと、黒板にチョークを走らせていたひな姉の手が止まった。


「鈴川くん? 授業中だから私語はダメだよ」


「あ、はい。すみません……」


 ひな姉に叱られてしまう。

 全面的に俺が悪いため、背中を丸め頭を下げる。


「くくく、怒られてやんの」


「うっせ」


 元はといえば、コイツが余計なことを言い出すからだ。


 俺が少し不貞腐れていると、ポケットに入れてあるスマホがひとりでに震える。

 机の陰に隠してスマホを取り出し、電源ボタンをカチッと押し込む。


『次、私語してたら放課後生徒指導だよ』


 ひな姉からのメッセージ。

 猫を模したキャラが頬に空気を溜めたスタンプも送ってきている。


 さっき連絡先を渡してきたのは、授業中にこういうことするためか……。


 てか、いつの間にスマホいじってるんだ? 

 授業はつつがなく進行しているし、抜け目がない。


『ひな姉こそ、授業中にスマホいじっちゃダメだろ』


 取り敢えず、返信してみる。

 と、すぐに既読がついた。


『バレなければセーフなんですぅ』


 聖職者の発言とは思えないな……。


 それにしても、やはり、ひな姉がスマホに触れている素振りが確認できない。

 おそらく、教卓の下にスマホを忍ばせているのだと思うが、生徒サイドでは視認しようがなかった。


 ひな姉にはいつも困らせられている。今日がいい例だ。

 ふと、仕返ししてやりたい気持ちがふつふつと湧いてきた。


 相手は、授業中にスマホをいじる問題教師だしな。

 いくら授業が問題なく進んでいたとしても看過はできない。


『ひな姉、愛してる』

 

 いきなりこんなメッセージが飛んできたら、いくらひな姉といえど動揺するだろう。俺はイタズラ心の赴くまま、メッセージを送信する。


「ということで、全てのものは原子が組み合わされて作られてるってわかったと思うんだけ……っ⁉︎ ごほっ、こほっ……ご、ごめんね、ちょっと声が詰まっちゃって」


「大丈夫っすか? なんか急に顔が赤くなった気がしますけど」


「う、うんっ。平気平気。持病みたいなものだから」


「へぇ、そんな持病あんすねー」


 わかりやすく狼狽し、首や耳まで真っ赤にするひな姉。


 想定以上に効力があったみたいだ。


 クラスのお調子者の男子から指摘され、ひな姉はじわりと汗を滲ませている。

 やがて俺へと焦点を合わせると、スタスタと机の間を歩いてこちらに近づいてきた。


「鈴川くん、授業中にスマホをいじるのは感心しないかな」


「え、いや、これは……」


 表情こそ柔らかいが、目が笑っていない。


「これは没収します。あとで職員室に取りにきてね」


「そもそもそっちが先に……」


「ん?」


「りょ、了解です。すみませんでした」


 素直にスマホを差し出す俺。

 ひな姉がメッセージを送ってこなければ、俺がスマホをいじることはなかったのだが、まぁ、下手に言い訳するのはやめておこう。


 俺が吐息を漏らすと、隣の辻本が頬杖をつきながら視線を送ってくる。


「お前、倉宮先生に目をつけられてんな」


「……みたいだな」


「あーぁ、羨ましいぜ。ったく」


「妬むのはおかしいからな」


 教師からは目をつけられないに越したことはない。

 辻本の感性はどうかしているな。ともあれ、これ以上、悪目立ちをするのはよくない。


 俺は黒板に目を向け、授業に身を入れるのだった。



 ★



 昼休み。


 廊下を歩いていると、女子生徒と談笑しているひな姉を見つけた。

 赴任して間もないのに、他クラスからもすっかり人気を集めているらしい。


 スマホを返してもらいに職員室に行こうと思ったが、どうしようか。

 このまま職員室に行ったところで、目的は達成できない。


 足を止めて逡巡していると、ひな姉と目があった。


「私、この後やることあるからもう行くね」


 ひな姉はひらひらと手を振りながら、生徒と別れるとコッチに向かってくる。


 俺の真横に就くと、ポツリと俺にだけ聞こえる声量で。


「化学準備室に来て」


 と呟き、そのまま通り過ぎていった。


 俺はまぶたをパチパチと瞬かせ、ひな姉の後ろ姿を目で追う。


 職員室じゃなく、化学準備室? 

 場所を変更する理由が掴めないが、言われた通り化学準備室に向かうことにした。



 化学準備室。

 ドアに手をかけると、鍵はすでに空いていた。


「あれ? ひな姉はまだ来てないのか」


 ぐるりと辺りを見回し、小首をかしげる。

 薬品が置かれている以上、誰でも自由に入れる状態はマズくないか?


「わっ!」


「うおっ」


 突然、降って湧いた声に狼狽する俺。

 肩を激しく上下し、反射的に振り返る。


 したり顔のひな姉が、何やら満足げに腰に手を置いていた。


「あはは、シュウちゃん驚きすぎ」


「何くだらないことしてんだよ、ひな姉」


 棚の影に隠れていたみたいだ。

 大人とは思えない行動に、つい呆れてしまう。


「昔はよく驚かせ合いっこしてたじゃん」


「俺、もう高校生だからな。てか、スマホ返してほしいんだけど」


 俺は右手をひな姉に差し出して、スマホを要求する。


「返してあげる前に一つ聞いていい?」


「なに?」


「シュウちゃんが送ってきたさ……ひ、ひな姉愛してるっていうメッセージはどういう意味?」


「意味? あー今朝から、ずっとひな姉に振り回されっぱなしだったし、ちょっとした仕返し。少しは動揺するかなって。まぁ、あんなわかりやすく反応くれると思わなかったけど」


「要するに、私のこと揶揄っただけってこと?」


「揶揄ったというか……てか、ひな姉からメッセージ送ってきたくせに、俺のスマホ取り上げるとかおかしくない? ああいうの職権濫用なんじゃ──」


「今、その話してない。冗談なら、ああいうことだけは二度と言わないでほしいな」


 ひな姉はいつになく真剣な顔で、キッパリと告げる。

 普段から愛想のいい笑顔が張り付いていて、明るいオーラが全身から放たれている人だ。


 だからこそ、ひな姉の口角が下がっている時は嫌に迫力があって、気圧されそうになる。


「な、なに怒ってるの? 確かに、ちょっと悪ふざけが過ぎたかもしれないけどさ」


「はいこれ、シュウちゃんのスマホ」


 ひな姉は作ったような笑みを浮かべ、俺のスマホを突きつけてくる。

 俺がおずおずと受け取ると、そのまま背中をトンと軽く押してきた。


「ちょ、ひな姉?」


「私、このあとココでやることあるから、もう出てって」


 有無を言わせない眼力を前にした俺は素直に従うしかない。

 押し出されるまま化学準備室を出ると、すぐにガチャリと鍵の閉められる音がした。


「なんなんだよ……ったく」


 確かに、俺が送ったメッセージは悪ふざけが過ぎていたかもしれない。


 でも、別に嘘を吐いていない。


 俺は、ひな姉のことが好きだ。

 子供の頃から近くにいて、俺にとっては本当の姉貴みたいな存在で。

 家族愛に近い感情を抱いているし、愛しているという表現も間違ってはいない。


 だから、決して冗談で言っていたわけではないのだ。まぁ、冗談じゃなければ何を言っていいってわけでもないと思うけどさ。


 俺は沼地を歩いているような重たい足取りで教室を目指す。


「……まぁ、誤解は解いとくか」


 ピタリと足を止め、天井を見上げる。

 ひな姉はヘソを曲げると、長引くのはこれまでの経験則から判明している。


 だからせめて、誤解だけは今のうちに訂正しておくべきだろう。でないと、しばらく口も聞いてくれなくなるかもしれない。


「ひな姉」


「…………」


 中にひな姉がいるのは間違いないが、返事が返ってこない。

 周囲に人がいないのを確認し、そのまま扉越しに想いを伝える。


「俺がひな姉のこと……あ、愛してるってのは嘘じゃないよ。なんとも思ってない相手のこと、何年も考えたりしない。授業中に送って反応を楽しむような真似をしたのは反省する。ごめんなさい。もうしないからさ、機嫌直してよ」


 四年以上、連絡もないまま疎遠になって、いきなりウチの担任になったりして。

 ひな姉はいつも勝手で、俺の事情なんて全く考えてはくれない。


 でも、やっぱりひな姉が近くにいる方が嬉しいのは事実だ。


 せっかく再会したのに、些細なことで亀裂が走るのは嫌だ。会えなかった分をこれから埋めていきたい。


 ガチャリと、化学準備室の鍵が開く。

 乙女さながらに頬に赤みを帯び、落ち着きない挙動を取っているひな姉が顔を見せてきた。


「入って」


「え?」


「と、とりあえず入って」


「う、うん」


 促されるがまま、化学準備室に入る。

 ひな姉は赤い顔を隠すように両手で押さえながら、目元だけを覗かせてきた。


「どうせシュウちゃんのことだから、家族的な意味で、とかそんな意味合いでの愛してるだよね……?」


「あぁ、それは──」


「ううん、やっぱいいや言わなくて。わかってるし。でもそっか。冗談で言ったわけじゃないんだ……。だったらよかった。そういう意味でも、十分嬉しいから。……ご、ごめんね。私、ほんとは凄く不安だったんだ。シュウちゃん、私と会ってから一度も笑った顔見せてくれないから。……ホントは、私なんてもうどうでも良くなってるなじゃないかって。いきなり担任になったりしてうざがってるんじゃないかって」


「そりゃ、いきなり過ぎて困惑してたし。でも、どうでもよくなんかなんないよ」


 意外と小心者な一面もあるみたいだ。

 こんなひな姉を見るのは、初めてだな。


 普段から気丈で明るいひな姉とのギャップもあってか、その変化が面白くて笑みがこぼれる。

 ひな姉も安心したように、いつもの明るい笑顔を見せると、チラチラと視線を送ってきた。


「私もね……シュウちゃんのこと愛してるよ」


「なっ、い、言わなくていいよそんなこと。仮にも教師だろ」


「教師である前に、私はシュウちゃんのお姉ちゃんだもん」


「公私混同も甚だしいな……」


 改めて思うが、特殊な環境である。

 近所でよく遊んでくれたお姉さんが、担任の先生になっているんだもんな。


 ひな姉はニコッと口角を上げると、バッグから弁当箱を取り出してきた。


「あ、そだ。一緒にお昼ご飯食べよ」


「今朝も言ったと思うけど、そういうのはやめとくべきだって」


「シュウちゃんの分もあるんだけど」


「初めからそのつもりだったんだね」


 ひな姉が取り出した弁当箱は二つ。

 ご丁寧に俺の分まで、事前に用意してくれていたようだ。


「シュウちゃんは地球に優しい子だよね?」


「はいはい、フードロスはよくないからな。こういうの今日だけだからね」


「えへへ、昔みたいにあーんしてあげよっか?」


「いつの話だ! というか、この部屋で何か仕事あるんじゃないの?」


「細かいことは気にしなくていいって。というかこんな薬品まみれの場所じゃ、お昼ご飯って気にもならないよね? 中庭とか行く?」


「そんな人目のつくところいけるか!」


 ひな姉には危機感ってものがない。

 俺が呆れてため息を漏らす中、ひな姉はふわりと微笑み首を横に傾げた。


「シュウちゃんはカノジョとかできた?」


「ノーコメントで」


「そっか。私もいないんだよね」


「俺はいないとは言ってない」


 ノーコメントって言ってるのに、失礼な決めつけだ。まぁ、実際いないけど。

 でもそうか。ひな姉も恋人はいないのか。って、なにちょっと安心してんだ俺は。


「私とシュウちゃん、どっちが先に恋人できるか勝負しよっか?」


「俺は自分に不利な勝負は受けないようにしてる」


「どう考えても、シュウちゃんの方が有利だよ」


「は? いやいや、俺のが不利でしょ」


 ひな姉なら街を歩くだけで、簡単にナンパに遭う。

 自分から行動せずとも、彼氏を作ることができるだろう。


 スタート地点が違うのだ。


「だって、私は引き分けることしかできないもん」


「なんか言った? ひな姉」


「ううん。なんでもないよ」


 何か言ってた気がするが……まぁいいか。


 俺の高校生活は、ひな姉の登場を皮切りに大きな変化を遂げそうだ。

 比較的平穏で、そこそこ楽しいくらいの学園生活を送りたいのだけど、そうは問屋が卸してくれない。


 せめて公私混同しないよう、ひな姉の意識が変わってくれればいいのだけど……。


「あ、そうそう、私こっちで一人暮らし始めたの。今日の放課後くる?」


 それはひな姉には期待するだけ、無駄というものだろう。

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