第29話

「お近づきの印。七区にある『WXY』。よろしくね。お友達にも広めといて」


 ホールは飲食禁止なので、後でね、と念を押す。


 店名を出されてヴィズは点頭した。


「有名なとこね。あそこで働いてるの。ありがとう、いただくわ」


「感想もよろしく」


 そして、風のようにジェイドは去っていく。眠気は覚めた。早く試したい。そうだ、自分は未熟。なのだから、『勝負しなければいい』んだ。この方法なら、全てに当てはまる、かもしれない。


 ホールの扉を出ると、ちょうど目の前のフラッパーゲートからひとり、女生徒が入ってきた。ヴァイオリンケースを持っている。よかった、彼女の練習の邪魔にならないで済んだ。しかし、ヴィズには悪いことをしたかも。それが心残り。


 だが、それも全てうまくいけば、最初に彼女に手渡そう。それなら問題ないはず。ジェイドはフラッパーゲートを通過し、足早にホールから遠ざかっていった。


 一方、今、ジェイドが出ていったばかりのホールの扉を開き、ヴァイオリンケースを手にした女生徒が入れ違いで入っていく。すり鉢状のホールの階段を降り、壇上へ。


「こんにちは。今の方は?」


 挨拶をしながらヴァイオリンをケースから取り出す。よく手入れがされており、ストラディバリウスのような名器という類ではもちろんないが、彼女の要望に応えてくれる相棒だ。鈍く光り輝く。


 ヴィズは新しい楽譜を譜面台に置き、気を整えた。


「ショコラティエール志望だそうよ。普通科らしいから、またどこかで会うでしょ」


 演奏前のチューニングをしながら、女生徒は会話を続ける。


「そうですか……あ、美味しそうなオランジェットですね。そちらも?」


 ピアノの譜面台の傍らに、袋に入ったショコラがある。それを見つけ、気になった。やはりそこは女の子。甘いものに目がない。しかし、いつも自分のお菓子が誰かに食べられてしまう。誰かはわかるけど。


「二つもらったから、どうぞ。そういえば、彼女は『雨の歌』はショコラショーの香りだそうよ」


 ひとつ手渡し、ヴィズはジェイドから聞いた感想を伝える。さすがショコラティエールね、と言葉を添えた。どこまでもショコラが生活に入っている。


 感謝しながら、女生徒は戸惑いつつも、人が感じ取る様々な香りを受け入れて、自分の糧にする。


「ショコラショー、ですか? 色々な方がいますね……参考にはなりますけど」


 心の中でメモをとる。そうか、そういうパターンもあるのか、と経験値ゲット。


 軽くピアノを弾き、練習スタート。ヴィズが空気を入れ替え、緊張感を取り戻す。早速だが、時間がもったいない。ホールを使える時間は決まっている。


「じゃ、まずはF.A.Eソナタ第三楽章『スケルツォ』。ま、焦らずいきましょ、ブランシュ」


「はい、お願いします」


 ブランシュはハ長調五度Gを同音連打。曲が始まる。

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