第13話

「適度な暗さもいいね。だけど……」


 先客がいるようだ。正確には、客ではない。中央のピアノを分解しているように見える。調律師だ、とジェイドは考えた。


 静かにドアは開けたつもりのジェイドだったが、調律師の男はそれを聞き逃さなかった。彼女の方を向き、大きな声で話しかける。反響し、さらに声は大きくなる。


「音楽科の生徒かい!? ごめんね! 今は調律中なんだ!」


 手を上げて謝罪する。ただ、練習熱心なことはいいことだ、と心の中では男は感心した。


 驚きつつも、ジェイドはピアノに向かって歩いていく。そのまま出て行ってもよかったが、なかなか調律を見る機会はない。少し興味があった。


「こちらこそすまない。そして、音楽科でもない。ただの昼寝する場所を探してるだけの怠け者ですよ。これは調律ですか?」


 舞台の下まで移動し、壇上にいる男に向かって、ジェイドは声をかけた。適度な暗さと無音のホール内。最適な睡眠を得られそうで、少しずつ眠気がきている。が、今回は興味が勝つ。


「そうだよ。まぁ、特に問題はないから客席で寝ててもいいけど、どうせなら見てみる? あんまり調律してるところってみたことないでしょ?」


 身長は一七〇半ば、優しそうな口調と紺のセットアップ。そして笑顔。「よかったらおいでよ」と、会ったばかりの少女に声をかける男。


 ジェイドは後ずさって、一瞬ためらったが、とりあえず壇上に上がる。そして振り返ってみると、全方向から注目を集めるその場所に少し緊張した。誰もいないのに。満席の状態で楽器の演奏なんて、自分には無理だな、とその場で音楽家の道は諦めた。


「レダ・ゲンスブール。よろしく」


 と、男から握手を求められ、ジェイドは応じた。邪魔したのはこっちだ。対応しないのも気が引ける。


「ジェイド・カスターニュ。お仕事中にすみません」


 軽く交わし、ピアノを凝視した。


「全然いいよいいよ。もうすぐ終わるし。ピアノとか弾く?」


 こころなしか、レダの調律をする手が少し早くなった、とジェイドは感じた。焦らせてしまっているのかもしれない、と予想し、慌てて否定する。なにせ勝手に入った身なので、そのためにレダ、ひいてはピアノ専攻の生徒達に不都合があったら申し訳ない。


「いえ、全く。少しヴィオラをやってたくらいですね。上手いわけじゃないですけど」


 そういえば昔やっていたな、程度だが経験はかすかにある、ジェイドがヴィオラを習った記憶。ピアノやヴァイオリンなどを習う友人達はいたが、自身は誰もやっていなかったヴィオラに興味を持った。決して最前線に出るわけではないが、ないと音の厚みが違う。そんな縁の下の力持ちなところが好きだった。

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