Pinkie

佐藤山猫

Pinkie

 誰もいない教室。

 生徒たちは皆帰ってしまって、この場に居るのはわたしひとりだけだ。

 古びた木床を夕焼けが照らしている。薄桃の紙で誂えた花飾りが教室の前後の黒板を縁取り、その真ん中には3年1組総勢30名の名前と卒業を祝う種々の文字が並んでいる。


 明日はついに最後の日だ。

 卒業なんて実感は湧かないけれど、ひとつの決着の日と考えればなんとなくロマンがある。


 床に花飾りが落ちていた。桜の花をかたどったもの。手に取ってふと思い出した。


「サクラの花言葉って、『わたしを忘れないで』なんだって」


 いつかのカラオケの帰り道に、佐倉さくらさんが教えてくれたことだ。もう一年も前の話になる。

 わたしは拾った飾りを手に黒板へ近づいた。







 学校の教室は湖に似ている。

 授業中、ほとんど顔を上げて黒板や教師を見ているのはカルガモ。逆にほとんど顔を伏せているのは魚。時々思い出したように顔を上げるから、魚じゃなくて肺呼吸のカメとかかもしれない。


「おい、授業中に落書きすんな」


 ふと教師がノートを持ち上げて注意した。ノート一枚を大きく使って描かれている、流行っている深夜アニメのキャラクターの横顔を遠目に見た。教室の空気が弛緩して、カルガモやカメから、ただの中学生に戻っていく。


「えー、上手」


 誰かが言った。呟くにしては大きな言葉だった。

 それがなんだかものすごく癪にさわった。


「確かにうまいけど、授業中はダメだからな~」


 教師が手をひらひらさせながら教壇に戻る。


「こんなことしてるとテストで足元掬われるぞ、吉野気を付けろよ」

「ちょっ、なんで俺なんすか」

「笑ってるけど球磨も他人事じゃないぞ~」


 名指しされた男子生徒たちのふざけたような抗議の声。雑談、あるいは脱線。バスケ部とサッカー部で、要はクラスの中心になるふたり。前に自習になった時は、教壇に立って先生の物真似をしていた。クラスのグループにアルバムが作られている。「日常」という名前のフォルダ。写真をあげているのは決まってカーストの上の方の人たちだ。染井さん、上田さん、吉野くん、石川さん、川内くん。

 当然被写体も輪の中心にいる人たちばかりになる。地味でパッとしない子──わたしみたいな子はほとんど写っていない。思い出して胸が苦しくなった。

 教室という戯曲の舞台の中で、わたしの配役はモブキャラDで、主役を張るような立場じゃなくて、なんなら小手指こてさしユイの名前も与えられなくて、誰かの物語の隅っこでようやく生きることを許されるような存在だ。

 いつしか授業は平常に戻っていった。それでいいと胸を撫でおろして、教科書と黒板を見比べる。これでも優等生で通っている。聴いているふりをしてやり過ごすという発想は無かった。

 でももしそうしていても、きっと気にも留められないのだろうけど。

 チャイムが鳴って授業が終わるまで、わたしは俯いて、時々カメみたいに顔を上げて過ごした。


「明日、開校記念日で休みじゃん。どっか行かん?」

「あ、じゃあカラオケ行かね?」

「オッケー。じゃあせっかくなら女子も誘おっか」

「いいね。佐倉さん、呼んだら来るかな」

「えー、あいつはなあ。最近なんかあれじゃん」

「あれって?」

「しっ! 声がでけーよ」


 わたしの席の近くで好き勝手に計画を立てる級友たちの声に紛れて、鞄に荷物を詰めていく。

 担任が来るまでの僅かな間も黙り込んではいられないらしい。先週生理が終わったばかりなのに妙にイライラする。バカみたい。引き戸がガラガラと開いて担任が入ってくるまでの数分が待ち遠しかった。


 だからというのでもないのだろうけど、教室にノートを忘れた。


「……取りに帰るか」


 帰宅部の特権を潰されたみたいでまたイライラする。悪いことは重なるものだと一度大きく深呼吸をした。

 暦の上では春になったみたいだけど、まだまだ空気は冷たくて、でも何故だかコートを着て学校に来るのは校則違反らしいから、ブレザーの下に着込んで、気持ち程度のマフラーと厚手のタイツで武装する。

 いつもと違って人の気配のない廊下を行く。生徒たちはみんな帰ってしまったらしい。気を取りなおそうとポケットからワイアレスイヤホンを取り出す。お気に入りのバンドで、流行ったのは一回り昔のことらしい。いまでも十分じゅうぶん魅力的なんだけどな、とたまに納得がいかない。


 誰もいない教室。ぼろぼろの木床と、焦げ茶色に日焼けした机。自分の机からノートを取り出して鞄に仕舞った。


「ノリノリじゃん」


 肩を叩かれ、わたしは息を呑んだ。


「鼻唄にしては結構ガチで歌ってたよ」


 ま、開放感あるもんね今日は、と半笑いなのはクラスメイトの佐倉ハルカさん。接点はなく、話したことはないはずだった。

 恥ずかしくなって顔に血が昇ったわたしに、佐倉さんは慌てて、


「え、うまかったよ。そんな恥ずかしがることは無いって」


 怖い顔しないでよ、と佐倉さんは困ったように小首を傾げた。

 佐倉ハルカ。同級生。アッシュカラーの髪は緩く巻かれてボブをつくって、整った顔の輪郭を整えている。


「誰の曲? あ、望遠鏡の?」


 スマホの画面をのぞき込んで、「──ごめん、この曲はわからないわ」


「…………佐倉さんは」

「ん?」


 小さくて聞き取れなかったらしい。改めて、少し声のボリュームを上げる。


「佐倉さんは、普段、どんな曲を聞くんですか?」


 佐倉さんは、白い歯をニカッと見せて笑った。


「聴く?」


 ブレザーのポケットから取り出したスマホ。どれだけ生物の種類が違っても、スマホだけはそんなに変わらない。片手からはみだすくらいの大きさをしている。

 そのままスピーカーで再生するのかと思ったら、何を思ったのか、佐倉さんはスマホをポケットにしまって、子どもみたいに無邪気に笑った。


「そうだ、カラオケ行こうよ」

「え?」

「これから用事ある?」


 固まるわたしの背中を軽く押して、佐倉さんはわたしを連れ出す。勢いに流されるまま、わたしは駅前のカラオケボックスでハルカと二人、マイクを手に取っていた。


 佐倉さんが入れる曲はいま流行りのJポップばかりで、ロクに流行りなんて追わないわたしですら耳にしたことがあるようなものばかりだった。佐倉さんは決して歌うまではなかったけれど、歌い方が堂に入っていた。


「ほら、何か入れなよ」


 機械をズイと渡されて、普段聴く曲は洋楽とかインディーバンドとかちょっとマイナーなものばかりだったわたしは参ってしまった。にらめっこすること一分くらい。そろそろ前の曲が終わる。観念してリクエストを転送した。


「へえ、洋楽じゃん」


 感心したように佐倉さんは言って、薄茶色の飲み物を口に付ける。カルピスとコーラを混ぜたものらしい。きれいな曲線美の喉をごくりと上下させている。


「カルピコ、気になる?」


 じっと見ていたからだろうか。佐倉さんがコップを掲げて見せる。


「ん。あ、いや、少し」

「じゃあ作って来るよ」


 そう言ってグラスを片手に佐倉さんはわたしを取り残す。ちょうど始まったAメロの英語詞を、聞きかじった発音でたどたどしく歌う。自分の認識している音と、歌詞のフリガナとが微妙に合わない。知っている単語であっても違う風に聞いていたりして、もう全部らららでいいんじゃないかとすら思えてくる。


「歌詞分からないのに曲入れたの?」


 戻ってきた佐倉さんがそんなわたしの様子を見て可笑しそうに肩を揺らした。また自分の顔に血が昇るのが分かった。そんな自分が恨めしくて、でも逃げ場も無いから必死に顔をそむけていた。

 そんなわたしの様子に構わず、佐倉さんはさっと次の曲の予約を入れている。バナーに現れた曲名はまたしてもヒットチャートの曲だった。

 なんとか歌い切った。曲が終わり、佐倉さんは少し目を丸めて拍手なんてしてくれる。おふざけなんかじゃなくて、本気で感心しているような。


「うまいよね、ユイちゃん」


 初めて呼ばれたのが、苗字では無くいきなり名前呼びで、えっその距離感ってそれが当たり前なのって脳がシュワシュワしてくる。ちょうど目の前に置かれたカルピコの泡みたいに。


「カルピコ。もしかしなくても、初めて飲む?」

「う、うん」


 二種類の甘さが同時に舌に飛び乗ってきて、胸焼けしそうになるのを、炭酸の刺激が緩和してちょうど飲めるくらいの味になっている。


「いま流行ってるんだけど、ユイちゃんってあんまそういうの興味無さそうだもんね」


 学校の自販、飲み物混ぜれるんだよね~と佐倉さんはニコニコしているけれど、そんなことより聞き捨てならなかったのは、


「きょ、興味無さそう?」

「うん。我関せずって感じ?」


 気付いたら次の曲のイントロが始まっていて、「あっ、歌わなきゃ」と佐倉さんはマイクを持ち直した。

 ヒット曲にはヒットするだけの理由があって、ちゃんと聴けばすごくいい曲なのが分かる。ただ、捻くれた自分がアングラなコンテンツを好んでいるというだけだ。


「──興味なさそう、か」


 音楽に紛れて、わたしの呟きはきっと誰にも届かず消えた。


 小腹が空いたと佐倉さんが言って、頼んでいたフライドポテトを二人で摘む。小休止。閑話休題。


「カラオケなんて久しぶりに来たわ〜」


 佐倉さんが楽しそうで、なんだかわたしも自然に楽しい。


「友達と来たりしないんですか?」


 遠慮がちに問うと、「んー、いまちょっと微妙な感じなんだよね〜」と中空に視線を彷徨わせていた。


「ユイちゃんはあんまりカラオケとか来ない感じ?」

「き、来てもひとりで来ることが多くて……」


 本当はメンバーズクラブに入っているし、来すぎて割引が効くくらいには通っていたりする。


「へー。はじめて来る感じじゃなさそうだもんね」

「そっ、そうですか?」

「うん。実は常連だったりして。────当たり?」


 佐倉さんは目を見開いていた。そんなに分かりやすい反応だったかな。


「カラオケってひとりで来たことないわ〜。やっぱり洋楽とか歌ってるの?」

「ほ、他にもボーカロイドとか、インディーバンドとか……」


 スマホには、自分の歌を収めたボイスフォルダが溜まっている。ほんの少し思い描いている未来のため、憧れのために。


「ユイちゃん、カラオケ来てるから歌上手いのね」


 佐倉さんはカルピコを啜った。デロデロに甘いそれを、さも美味しそうに飲んでいる。甘いものが好きなんだな、覚えておこう。


「SNSにあげたりしないの?」

「えっ、SNS?」

「そう。歌ってみたとかあるじゃない。そこから歌手になる人もいるんだし」


 動揺を悟られないようわたしは必死だった。だって、まさにわたしがこっそり温めていた野望だったから。

 歌が上手くなったら、編集して動画にしよう。それかTicTockなりに載せよう。バズってネット出身の歌手なんかでデビューしちゃおう。

 メジャーになってすっかり効かなくなったあの歌い手やあのボカロpの名前が脳裏に浮かんだ。


「…………考えたこともなかった」

「一回やってみたらどうかな?」

「…………か、考えて……みます」


 なよっとした返事になって面映い。


「やっぱり流行の曲も歌えるんでしょ?」


 と入れられた曲はラップも転調もボイスエフェクトもある曲だった。強引に渡されたマイクをつき返せもせず、なんとか歌い切った。


「ごめん、勝手に撮ってた」


 歌い終わると、佐倉さんは舌を出してスマホを示してみせた。気が付かなかった。


「どこにも投稿しあげたりしないからさ」


 佐倉さんはスマホを差し出すように言った。スマホ同士をペアリングして、いま撮られた動画を受け取った。


「聴いて思ったよ。やっぱり歌手になれるって」











「ってハルカに言われたのがきっかけで、動画投稿始めたんだ」


 春休み。丘の上に一本桜の咲く公園で待ち合わせて、わたしたちは二駅先のショッピングモールに遊びに来ていた。今日もハルカはひとりだった。


「へえ。うまいもんね」

「うん。けっこー自信あるの。だってわたし歌うまいし」

「ユイちゃんってそーゆー自信家なとこあるよね」


 自信家と言われて、なんだか釈然としなかった。居心地が悪いとすら感じた。


「いいなあ。夢中になれるものがあって」


 ハルカはなんだか憂い気だった。


「目標とかそう言うの無いしさ」


 ハルカのアッシュの髪はいつもと同じように緩く内に巻かれていて、ほんのりチークの乗った小さな顔と大きな目がガーリーな魅力に溢れている。真っ白なワンピースに若草色のカーディガンを合わせていて、暖かくなってきたいまの季節に合った服装だ。パーカーにジーンズの、野暮ったい自分の服装が恥ずかしくなった。

 じっとハルカを見ていたら、ハルカが「何?」と半眼で見てきたので、手をひらひらさせて釈明した。


「じゃあ、服買っちゃおうよ」


 ハルカに誘われて、わたしには読めない看板の店に入る。店員やマネキンはもちろん、店の中にいる客の格好どれもがわたしとはなんか違うし、引け目を覚えて仕方がない。何気なく手に取ってみたズボンの値段に目を丸くした。


「このトップス! 安いし質がいいし、おすすめだよ!」


 ハルカの声に正気を取り戻して、恐る恐る値札を見る。「ちょ、まず最初に見るのが値段かよ」と呆れたようにハルカが笑って、「服を見ろ、服を」と口を尖らせる。


「だって、お金は大事だよ!?」

「確かに大事だけどさあ。もっとこう、よく見て鏡の前で合わせたり試着したりってあるじゃん。そんでいいな〜でも高いな〜ってなるまでがワンセットじゃん」

「え? それじゃあ──」

「ま、うちが選んだんだから、間違いなく似合うけどね」


 ハルカが胸を張る。わたしは上目遣いで胡乱な目を向けた。縋るようでもあった。


「本当に? 信じていいの?」

「いーよいーよ。騙されたと思ってさ、一か八か」


 ハルカの煽てに乗って、服を掲げる。白いフリル地のブラウス。鏡の前で合わせてみる。わたしが何か思うより先に、ハルカが満足そうに頷いていた。


「うんうん。いいじゃん」


 確かに、なんだか自分が自分じゃないみたいだった。野暮ったい田舎娘から、清楚なお嬢様然とした印象に変わる。どこか森の澄んだ風が吹いた気がした。


「お、気に入った?」


 矯めつ眇めつ、身体を捻っていたわたしにハルカは耳打ちした。


「セール品だから値段も控えめだよ」


 たちまち耳まで赤くなるのを、グッと堪えて飲み込んで、値札を見て、財布に入っている金額を思い出して、


「……レジ行ってくる」

「いってらっしゃーい」


 ほくそ笑むハルカがまた様になっていた。かわいかった。


「さっきの話だけどさ」


 オープンテラスのカフェ。有名だという紅茶とチーズケーキのセットを待つ間、ハルカはやっぱり行きかう人たちをぼんやりと眺めていた。悩み事なのかな、とわたしはそわそわして、呼び寄せるように話題を放った。


「何?」


 わたしの方を向いたハルカは平時と変わらない笑顔で、やっぱり魅力的な女の子を徹底していた。


「目標が無いって話」

「ああ」


 ハルカは頷いて、


「ユイちゃんは歌でしょ。一生懸命になれるものがあってすごいと思うの。青春してるなって。かっこいいじゃん。とんがってて」

「そ、そうかなあ」

「でもうちは違うからね。夢中になれるものなんて無いし、部活もやってない。家に帰っても取り敢えず動画見てごろごろしていい感じのお店に行って……。運命的な何かがあったら違うのかなぁ」


 ねえ、どう思う? とハルカが問いかけるので、よく考えもせずに「そんな難しいこと、聞かれても分からないよ」と答える。


「そうよね。中学生で将来の目標がはっきりしている方が珍しいわよね」


 哀愁を帯びたユイの表情。落ち込み、少し伏し目がちで、


「…………うーん。無理やりにでも作るかぁ」


 なんて呟いている。

 ちょうど運ばれてきたケーキセットをふたりでつつく。沈黙が降りて、カトラリーのカチャカチャという音だけがしていた。


「そうだ。目標、あったわ」

「ん? 何?」


 ハルカはぎこちなく口の端を持ち上げて、


「受験。もう三年生じゃない」


 とそんなに愉快でもなさそうに言った。


北高きたこうかな。やっぱり」


 ハルカはほどほどの偏差値の地元高校の名前を出す。


「成績はどうなんだろ」

「分かんない」


 ハルカの成績はあんまり知らないけれど、特に勉強ができるというイメージは無かった。


「ハルカが北高行くなら、わたしも北高行こっかな」

「え? ユイちゃんも来るの!?」


 ハルカは笑顔で、喜色を満面に咲かせた。


「じゃあ決まりね。約束よ」

「うん。ゆびきりする?」

「あはは。懐かしいね~」


 わたしたちは小指を結んで、離した。
















 進級して、結局ハルカとはクラスが離れて、疎遠になった。

 クラスの分かれ目が縁の切れ目ってことね、と捻くれモードのわたしが自嘲していた。

 新しいクラス。伏し目がちなわたし。どこまでもわたしは引っ込み思案で、でも心の中ではそんなのでは全然なくて、相変わらず友達は出来なかった。

 覚えたてのSNS、そのリア垢でハルカをフォローする。フォロワー数300人。学年が200人くらいで、その全員がフォロワーなわけじゃないから、確実に他学年にまでハルカは知り合い渡っている。フォローバックしてくれたわたしのアカウントはフォロワーひとりだけで、その対比が物悲しかった。


 いつの間にか、ハルカには彼氏ができたみたいだった。サッカー部のエースだという。あんまり関心のないわたしから見ても、確かに爽やかイケメンだと感じる。

 学校でハルカを見かけるたびに、隣にはその彼氏か、女の子たちの集団がいた。すれ違っても目も合わなかった。あっ、と立ち止まったわたしの隣をハルカたちがスッと通り過ぎていったとき、心の中で積み木の塔が倒れる音を聞いた。

 夏が過ぎ、秋風が吹き、葉も散る冬。北高の受験会場に、ハルカの姿はなかった。SNSを見ると、早々に私立に決まったらしい。彼氏との写真と「来年も一緒」「ずっとよろしく」なんてハッシュタグが付いていた。心が乱されて、拍子にスマホの電源まで落とした。


 ねえハルカ。あなたが保証してくれた歌い手活動。おかげでちらほら再生数も上がって来たんだよ。「うまいね」って言ってくれる人も増えた。今度お金を払って、サムネイルに絵を描いてもらうの。初めて話した時にわたしが聞いていた曲。もう覚えていないかもしれないけれど。

 北高にも受かった。もうあとは卒業するだけだね。結構この学校からも人が来るから、高校デビューとかは厳しいかもしれないね。


「──ハル……佐倉さん」


 明日はとうとう卒業式だ。

 生徒たちはとっくに帰っちゃって、教室に残っているのはわたしだけ。なんとなくこうしていれば、佐倉さんがまた現れるんじゃないかなって、バカなことを考えたりした。


「……サクラの飾り、落ちてんじゃん」


 張っていた口元が緩んで、フッと気が抜けてしまった。佐倉さんの言葉が蘇る。


「サクラの花言葉って、『わたしを忘れないで』なんだって」


 黒板に近付く。冷たくて少し埃っぽい表面を撫でる。


「忘れないで、か」


 落ちた花飾りを戻す代わりに、わたしはブレザーのポケットにつっこんで、もう誰もいない教室を後にした。

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Pinkie 佐藤山猫 @Yamaneko_Sato

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