1.人に夢


 ───“彼あるいは彼女”の意識は、深い闇の中だった。


 微睡んでいるわけでもなく、かといって覚醒しているわけでもないように思える不可思議な状態で、“服を形作っていた紐が解けた”ように、“ジブンというカタチが解けて”思い出せない。

 恐怖はなかった。いや、恐怖のさらに先、その狂気的な状況に“彼あるいは彼女”は既に発狂しきっているのかもしれない。

 手探りで“ジブン”という形を取り戻そうとするが、探すための手が無いのに気づく。


 狂気の渦の中、“彼あるいは彼女”は笑う・嗤う・哂う。

 ただそれは、同時に哭いているようでもあったし、怒っているいるようでもあった。


 ……しかして突如、混沌の中、“ジブン”と言うものが再び構成されていくのを感じる。


 解かれ、散り散りになった“ジブン”が“無数の手”によって再び集められ、“ジブン”が再構築されていくような……。


 そして、ようやく“彼”は“自分”を取り戻し、次に器が形作られていくのを感じる。


 変わらず“無数の手”が彼を再構築していき、暖かな“全身の感覚”が徐々を取り戻していく。


 ―――温かい。まるで包まれてるような……。


 彼は取り戻した“魂”と“心”でその温もりを感じた。


 そして暗闇の中、先に見える明るく温かい光に感謝を……。


「ありが―――」


 それを“視た”瞬間、脳が震え、沸騰するかのような、名伏し難い感覚に陥る。

 一面の夜空、星々の輝きは“ソレ”の隙間にしか見えない。


 視界一杯に広がる“ソレ”は―――肉の蠢く異形である。


 生きてきた上で“見たことのない色”のソレが蠢き、胎動し、口を開く。


 そして、その肉塊の中、開かれた無数の瞳が彼を“視る”。


 彼は叫んだ。自分のものとも思えぬ甲高い声で……。




 自身の、“無いはずの意識”が再度暗転するような感覚と共に、彼はとうとう“目を覚ます”。


「ヒッ!?」


 一面の“夜空”と、同じく“星々”の輝きは“半球状のソレ”の範囲外にだけ見える。


「……あ、え」

「あ、起きたのねぇ」


 おっとりとした女性の声と後頭部の独特の感触に、ソレを理解する。


「───むね?」


 純白の布を纏う───乳房だった。

 大きなソレが視界の半分以上を制しており、残り半分以下が“天井に描かれた夜空”であると気づく。

 状態は理解したが、彼はやはりその状況に混乱している。

 後頭部の柔らかな感触から膝枕をされているのは理解したし、誰か女性がいるのも理解しているが、問題は……。


「オレの声、高くないか……?」

「あら、そうなの……?」


 大きな乳房を避けつつ、いや避けるのは非常に勿体ないという精神はあるものの……それでも回避しながら上体を起こすなり、自らの喉に触れて確認するが、明らかな違和感……。


「やらか……」

「若い証拠ですね」


 そういうことではない。


 石畳の上で横になっていたせいで背中が痛いが、それどころではなく……視線を下げれば自分の両胸には、“相手のものほどでもない”が確かに大きな乳房。

 布一枚羽織っていないことに羞恥心を覚えるよりも先に、そんな現実味のない現実を認識させられ、脳がバグを起こす。

 そこにある“自身の胸”にかかる“長い金髪”を抓んでみれば、自分の頭皮が引っ張られる感覚……その僅かな痛みが、どうしようもなく目の前のそれを、夢ではなく現実なのだと実感させた。


「あ……う、え……うぇぁあぁっ!!?」

「どうしたの?」


 その場で唯一対話が可能であろう女性の方へと視線を向ければ、女性は不思議そうに小首を傾げ、それによって“彼……否、彼女”と同じ金色の長い髪が揺れる。

 彼女が“普段の状態”であれば、見惚れるほどの美女であるが、今は状況が違う。

 動揺して、混乱したまま、彼女は自らを指差しながら……。


「お、おお、お、オレっ、オレっ……お、女、女ぁっ!?」


 焦る彼女が女性の方に視線を向ければ、女性は“瞑ったままの眼”をそのままに、困ったように眉をひそめ、手を頬に当てる。

 そのような所作でさえも、少しばかり見惚れそうになる彼ではあったが、それどころではないと自分を制す。


 そう、そんなことより“男だったはずの自分”がなぜ“女”になっているのか……。


「あらあらぁ」


 眼は開いていないように見えるものの、女性の視線を感じる。


「ごめんなさいね。今回は私の“信徒”たちがご迷惑をかけたお詫びにと“私似の美少女”に再構築したのだけれど……性別が違っていたのねぇ。どうしようかしらぁ」


 ―――なに言ってんだコイツ。


 そう思うのもまた自明の理、当然というものだ。

 しかし、元彼現彼女が実際に“性別が違っていて”なおかつ“再構築”という言葉……なんとなく合点がいく。

 理解してはいけないし、理解できるはずもないのだが、なぜか理解できてしまうのは先ほどの“すでに記憶がおぼろげな夢”で混乱しているのか、それともすでに頭がおかしくなってしまっているのか……。


「こうなると再構築も簡単じゃないし、あるいはこの世界で力を元の段階まで戻せれば……? あらぁ、私もなんだってこんなことしてしまったのかしら、なんて言っても詮無いことなのよねぇ。でもホモサピエンスのオスって美少女になれば喜ぶんじゃ……?」


 一人でぶつくさと言いながら、女が立ち上がれば、その身に纏う白い布が揺れる。

 白い布を体に纏うその姿は、まるで創作物に出てくる女神のようであり、彼女は思わず見惚れるものの、すぐにハッとして周囲を見渡すことで思考を変えると同時に状況判断。

 暗い石造りの部屋は、遺跡のようで、天井には描かれた夜空。

 そして近くには祭壇のようなものもあり、なんらかの“儀式”の痕跡もあった。


「マジで、なんなんだよ、ここ……」

「ん、コホン……見ての通りの儀式場、でいいのかしら……信徒たちが“銀の鍵のレプリカ”なんてものを手に入れて、すこ~しおいたをしてしまったようで……結果、あなたをこちらの世界に呼び寄せてしまったわけね。代わりにみんな解けちゃったけれど」

「え……つ、つまりここって、い、異世界……?」


 彼女の呟きに、女性はクスリと笑いながら歩き出す。


「貴女から見ればそうね。異世界、という認識で間違いはないかしら」


 石畳の床を素足で歩きながら、女は現状を説明してくれようとはしているのだが、彼女がそれを理解できるわけもなく……女もそれを理解してか再び眉を顰める。

 女は眼を閉じているように見えるが、存外しっかりと眼は見えているようで、床に無造作に捨てられている白いローブを拾い、彼女の元まで歩く。


「はい、裸体では心許ないでしょう?」


 彼女の前で、女はそっと腰を落とすとそのまま彼女にローブをかける。

 混乱しながらも、彼女はかけられたローブで身体を隠すようにすると、慣れていないはずの身体で慣れているように立ち上がった。

 どうあっても男の身体の感覚であれば“バランスを崩しかねないもの”を持っているにも関わらずだ。

 しかし、そこに違和感を覚えるほど彼女も冷静ではない。


「え、えっと……」

「ああっと! ごめんなさい……ご迷惑をかけたのに、名乗るのが先ね」

「あ、ああいえ、その……」


 名乗るも何も、状況自体が理解できないので次の言葉が出ない。


「私は……え~……」


 言い淀む女に、彼女は小首を傾げる。

 自身の金色の髪が視界で揺れて、やはり“違う身体”なのだと実感していると、女性がなにかを閃いたように平手を拳でポンと叩いたので、そちらに意識を向けた。

 なにを思いついたのか、そもそも名乗ることに悩む必要があるのか……実に胡散臭い女であると、そう判断できるぐらい、彼女は冷静になってきたらしい。


「シュニス、それでいいかしら……」


 つまり、本名でないのは明白。

 だが、右も左もわからない現状、そして突然“転移”させられた異世界……“彼”の記憶にある異世界転移・転生であれば、大抵こういうときは不思議な能力に目覚めていたりするのだが、そういう様子もなければ、ヒントの一つも見当たらない。

 仕方があるまいと、大人しく彼女は頷く。


「……はい」

「フフッ、ありがとう……それで、あなたは?」


 偽名を使うか悩むところであるが、異世界でそんなもの何の意味もなさないだろう……しかも、ここは素知らぬ場所で、出口すらもわからない。

 女、シュニスの言う異世界であるならば、大抵こういう“ダンジョン風”な場所にはトラップなどがあるわけで……つまり、この訳知り風な女にある程度は手伝ってもらう他ない。

 他にしようがないと、彼女はつきたくなる溜息を飲み込んで、素直に首を縦に振る。


「えっと……識守シキモリ 珠輝タマキ、です」


 故に彼女は、素直に自らの本名を名乗っておくことにしたのだが、何の皮肉かそれなりに中性的な名前であった。

 それを聞き、両手を合わせてパァッ、と笑顔を浮かべるシュニスは嬉しそうに頷く。


「じゃあ、タマキちゃんでいいのかしら……!?」

「い、いやその、男なので……本当は、ですけど」


 本来ならばただの“ちゃん付け”程度は気にならないところだが、自らの体が“こうなって”アイデンティティをクライシスしそうにもなれば、無意識に気になってしまうもので……無駄に抵抗の意思を示してしまった。

 しかして、自分の身体がこうなった原因を知っていそうな、いやそれ以上に理解していそうな。否、やっぱり原因に他ならなそうなシュニスにはそれで通じるだろうとタマキは自身を納得させる。


「あ~そうよね。それじゃあタマキくん、かしら」

「は、はいっ……」

「それじゃあ……外に出ないとどうにもね。この世界の秩序やらルールやらの説明なんかは、まぁ後で“してもらう”として……行きましょうか?」


 そう言うなり歩き出すシュニスに付いていく形で、ローブ一枚を纏うタマキは石ころ一つ落ちていない石畳の上をシュニスと同じ素足で歩き出す。

 広い儀式場を出て真っ直ぐ伸びる石造りの廊下を歩きながら、タマキは起きる前のことを思い出そうとするも夢で“何か恐ろしいもの”を視たということ以外の記憶は曖昧である。

 ならばその前を思い出そうとするが、別に事故にあった記憶も無ければ命を落とすような危機が迫っていた記憶もない……普段通りの夜であったと思うし、いつも通りにバイトを終えて、いつも通りに住んでいたアパートに帰った記憶がある。


 じっくりとなにかおかしなことがなかったか思い出そうとしているせいか、記憶を探るにも時間がかかっていた。

 シュニスの後を追い、廊下の先にあったこれまた石造りの階段を上っていく。


「異世界、か……」


 元居た世界に未練がないわけでもないし、両親もいたのだが……今は判断力が薄れているせいか、そこまでの考えに至るでもない。

 それか、その考えを無意識にしないようにしているのか……ともあれ、タマキは今後のことを思考する。


「異世界だとして、この石畳から見ておそらくファンタジー的な世界で、ともなれば王道をいく中世風……だよな。え、オレ、大丈夫か……?」


 異世界転移とは少しばかり心躍るものであるのは確かだが、いざ自分の身にそれがふりかかったとなれば悩みはつきない。

 例に漏れず中世ヨーロッパ風であれば、水洗トイレもなければ“スマートフォンスマホ”もない、シャワーもなければエアコンもないと考えていい。

 現代っ子には厳しいものがあろう。


「……い、いやもしかしたら魔法やらなんやらで」

「出ますよ?」

「あ、え、は、はい……!」


 唐突にかけられたシュニスの言葉に戸惑いながら頷く。


「色々と大変かもしれませんが、タマキちゃんが戻れるまで、責任をもって一緒にいますから、ね?」

「え、あっ……あ、ありがとう、ございます……?」


 美女にそんなことを言われてしまえば、照れて当然。原因が目の前の女かもしれなくても、だ。

 少しばかり顔が熱くなる感覚と共に、“ちゃん”付けだったことも気にせずに、タマキは頷く。

 階段を上り終えて、石造りの大きな扉の前。その重々しい雰囲気に、とうとう外に出るのだとタマキは生唾を飲んでシュニスの隣に立つ。


 ───森か? 荒野か? スローライフしながら元に戻る方法が見つかる系だったらいいなぁ。


 などという淡い期待をしながら、シュニスを見ていれば、彼女は扉に手を伸ばしてなにかをする。

 するとすぐに、その扉は重い音を響かせながら横に開きはじめた。


「ようやく娑婆の空気が吸えますねぇ」

「言い方……うっ」


 眩い明かりに思わず眼を逸らすタマキ。


 ───とうとう、オレの異世界ライフが始まるのか……ふふっ、ちょっとわくわくするな。


 現代社会よりも不便かもしれず、上手く生活できるかはわからないし、シュニスが完全な味方かはまだ判断がつかない。それでも、一応の味方がいるならばまだ気は楽で……。

 それに新しい世界だ。まだ自分は真っ白なキャンパスである。心機一転、帰るその日まではまったく新しい生き方をしてもいい。

 異世界ファンタジーもの特有の美少女との恋愛、ハーレムだってある……かもしれない。


 新たな世界に少しばかりの希望を抱きながら、タマキは眼を開く。


「───え?」


 そして視界一杯に広がる───“銃口”。


「あらぁ~……」


 ヘルメットとアーマーに身を包んだ者たちが数十人と並んでおり、銃口をタマキとシュニスに向けている。

 改めて見れば、そこは大きな“エントランス”であり、タマキから見てもそれは近代的建築であった。

 数十と並ぶ“隊員たち”、その内の一人が、銃口を逸らすことなく“繋がっている誰か”に報告を始める。


「重要対象は確認できず。ですが女性二人を確認、恰好からしておそらく教団関係者です」


 オレは男だ。とは言えない。言いたい。


「これより拘束し連行します。しかし妙です……不測の事態に備えてエージェントの出撃を要請」


 隊長らしい人間の言う全ては理解できないが、一部を理解し、自らの状況もなんとなく予測するタマキ。

 スマホはわからないが水洗トイレはあるしシャワーもありそうで、おそらくエアコンもあるのだろう。

 そして……真っ白だと思っていた自身のキャンパスは真っ黒、まったく新しい生き方はできそうだが……思っていた方向性とあまりに違う。

 新しい体の影響か、タマキは涙を浮かべる。


「……なんでだよぉ」

「頑張りましょうねタマキちゃ、くん……!」


 両手をグッと寄せるのでその大きな胸が寄る。

 思わず吸い込まれそうになるがなんとか視線を逸らして、自らの方へと向いている銃口を見やった。


 ───これは頑張っちゃダメな奴では?


 思ったが言わないでおく。


「おい、すげぇ美人だ……」


 ───オレもそう思う。


「ああ、美女二人だ」


 ───オレは(男なので)そうは思いません。


 明後日の方向に走り出した異世界デビュー。


 少しばかりの希望は儚くも打ち砕かれた。

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