第8話 妊腐ブルー
「よーし、それじゃぁ、今日からお菊さんとお岩さんにはアシスタントとして、枠線引き、ベタ、トーン処理をお願いするわね」
「はーい、先生!」
身重の私としては、残念ながら次の百鬼夜行で三冊の新刊を出すのは難しい。
気持ち悪くて一日中ダウンしてる日もあれば、逆にやる気に満ち溢れている時もあったり、感情の起伏が激しくなったりしているから、スケジュール通りに進まないのよ。
そこで、お菊さんとお岩さんの出番。
「枠線を引くときは必ず定規を使ってね。ペンはこれ。ステッドラーの0.8ミリ」
「つけペンじゃないんですか?」
「つけペンだと均一な線が描けないでしょう? 枠線にはこういうミリペンを使うのが一番! 細かい柄を描くときはこれの0.1ミリを使うわ」
「おお……」
「それと定規は……ほら、メモリが書いている部分、横から見ると斜めになっているのわかる?」
「あ、本当だ!」
私はつけペンで線を引いて見せた。
インクが定規の下に張り込み、汚い線が出来上がる。
「定規の裏表を間違えると、必ずこうなるわ。必ず斜めになっている辺の長い方が上に来るように使ってね。このちょっとした隙間ができないと、つけペンで線を引く場合大抵こうなるの。枠線を引くときも、線が汚くならないように常日頃からこの向きで定規を置くこと、覚えておいてね」
「へぇ、知らなかったわ。私いつも、線を引く時は数字が書いている方が上なんだとずっと思ってた」
「定規としては数字が書いてある方が面で、正しいんだけど……つけペンだとインクが流れちゃうのよ。あ、それと、定規は使い終わったらこまめに濡れたティッシュとかタオルで綺麗にしてね。乾いたインクで線がボコボコになったりするから」
「わかりました!!」
枠線引き、実は意外と面倒なのよね。
二人が線を引く姿を見ていると、お菊さんの方が手先が器用そう。
お岩さんは片目だから、見辛いせいもあるかもしれないけど……
「それじゃぁ、次はベタ」
「ベタ……?」
「真っ黒く塗ることよ。髪だったり、背景だったり……髪のベタはまだちょっと難しいと思うから、背景のベタから始めましょうか」
「黒く塗るだけなら、誰でもできるんじゃないんですか?」
「いいえ、ベタをなめてはいけないわ! 何より綺麗に、はみ出さず、塗り残しなしに真っ黒にしなきゃならないの」
私は二人に、極細の筆と開明墨汁、プロッキーツイン極細と太いの二本。
「この細い方のペンで、塗る場所と塗らない場所に線を引きます。人物の線の周り、一ミリくらい外側にね。それから、筆で内側と細かい部分を塗ってね。で、あとはこの太いペン部分で塗りつぶすだけ」
「……そんなに細かいの!? 簡単そうに見えて、かなり時間掛かりそう……」
そう。
だから、漫画制作にはとんでもない時間がかかる。
それがわかっているから、漫画はじっくり隅々まで読んで欲しいと常々思っているわ。
ただ吹き出しのセリフを追うんじゃなくて、こういう細かな作業が積み重なって、やっと出来上がるんだから。
「今日はとりあえずこの二つに集中しましょう! 慣れてきたら、今度はトーンね」
「はーい!」
二人は真剣に取り組んで、どんどん上達していった。
素質があるわ。
新刊の方はなんとかなりそう。
それより、問題は旦那様。
私が妊娠したとわかってから、最初は泣きながら喜んでいたのに、最近、また家に帰ってこなくなったのよ。
朝方帰ってきて、昼過ぎまでぐっすり寝て……
起きたらまたどこかに出かけていくの。
妊娠した妻を放置して、一体どこで何をしているのかしら?
孕ませたらそれで終わりなの?
本当に、何考えてるのか全然わからない。
そばにいて欲しい時に、どうしていないのよ。
初めてのことで、不安だらけなのに……
「————せ、先生?」
「……ん? なに? お菊さん」
「鉛筆、折れてる」
「え?」
気づいたら下書きに使っていた鉛筆の芯がボキッと折れていた。
ああ、しまった。
これで何本目かしら。
私ったら……ついイライラして、鉛筆に当たってしまったわ。
「最近変よ? 急に落ち込んだり、今みたいにぼーっとしてたり、無理してない? 妊娠中なんでしょう?」
「うーん……マタニティブルーってやつかしら?」
ネットが繋がってないから、妊娠に関する知識が簡単に得られない。
なんだかとても不安になってきた。
白丸と黒蜜の他に、屋敷に私が妊娠してから
これからどうなるのか、不安でいっぱいだわ。
それに、産神様……顔が怖いのよね。
妖怪だから仕方がないのかもしれないけど……
顔を見るたびに、ちょっとびっくりする。
「ええか、奥方。今日もちゃんと食べなあかんでの。元気な子ぉ産むんやで」
いつも突然部屋に現れては、間食を持って入ってきて、私のお腹をさすって、部屋に帰っていく。
でも今日は、いつもより長くさすって……
「うん、
そう言った。
「え、わかるの!?」
「わかる。こりゃ、立派な跡取りになるで」
まさか性別がわかるとは、さすが産神様だわ。
私は旦那様にこのことを伝えたかったけど、旦那様は朝方になっても帰ってこなかった。
昼になっても、夕方になっても……
早く伝えたくて、早起きした私はこの時、堪忍袋のをが切れる。
「お、奥様!? 何をしているんですか!?」
荷物をまとめて、玄関から出ようとしていた私を白玉と黒蜜が必死に止めようとしていた。
でも、もう限界。
無理。
「実家に帰らせていただきます。旦那様に、伝えておいて」
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