第6話 小説を書くには

 小説を書くことが好きになると、高校時代から、密かに小説を書き続けていた。友達には恥ずかしいという思いから、

「俺は小説を書いている」

 などということは誰にも言わなかった、

 そんなことをいうと、

「見せてくれよ」

 と言われるに決まっている。

 間違いなくまわりの皆は小説を読むタイプの人たちではない、マンガは読んでもである……。

 正直、坂崎も自分が小説を書いていなければ、誰かから、

「俺の小説を読んでくれ」

 などと言われると困るだろう。

 いや、今の自分であっても嫌だ。むしろ今の自分の方が嫌に決まっている。

「どうして、他人の小説なんか読まなきゃいけないんだ?」

 と、思うだけではなく、その理由は、

「人のを読むと自分の小説がブレてしまう」

 と思うからだ。

 読んだ相手の小説が上手であれば、嫉妬してしまって、

「俺、このまま書き続けてもいいんだろうか?」

 と、書き上げられるようになった時にせっかく感じたことが、嫉妬してしまうと、無になってしまう気がするのだ。

「せっかく、少しずつ地味だけど、ゆっくりと這い上がっていっていると思っているのに、人の小説に嫉妬することで、たまらない気持ちになると、書き続けることができなくなる気がする」

 と思うのだ。

「書き続けるには、それなりに気力がいる。そこに邪推が入ってしまうと、先が続かなくなるのも無理もないことで、書き上げたことがない時よりも、挫折を味わってしまうだろう、

 一度乗り越えたところから、逆行するのだ。

「もう二度と、戻ってくることはない」

 と思っていた場所に戻ってくる。

「何かを目指すということは、自分の中でのある程度まである有頂天に至るまでは、決して後ずさりすることはない」

 と思っていた。

 それは人間の肉体的な成長と同じで、二十歳過ぎまでは、絶えず上を見ていて、下がることはない。

 もちろん、三十代になってくると、ところどころで老化が始まってくることで、少しずつ下り坂なのは分かっているが、そこまでは、横ばいのようなことはあるかも知れないが、下がることはないだろう。

 だが、精神的なことは分からない。それは分かっていたつもりだった。だから、

「挫折もあるかも知れない」

 と思ったが、そんな中であっても、自分から堕ちていくのであれば、それは仕方のないことだが、

「他人の小説を受けて、嫉妬させられたりして、自分の歩んできた道を見失うような真似はしたくない」

 と思う。

 分かっているのに、、何をそんな道に自分から身を放り込むような真似をするのかと思うからだった。

 もっと自分に自信を持っていれば、人の小説を読んでも何でもないのだろうが、相手がプロ作家であれば、嫉妬などというレベルの問題ではないのでいいのだが、相手が素人であり、お互いに海のものとも山の桃とも分からない同士で、嫉妬させられるのであれば、そんな小説を読んでしまった自分の自業自得だと思うことで、自己嫌悪に陥り、そのまま、小説を書くことをやめてしまう可能性は非常に高い。

 そうなると、後悔は絶対に襲ってくる。その後悔がどこまで強いものなのかというのを、今の段階で感じることはできない。

「もう、金輪際、小説なんか書くもんか」

 と思うに違いない。

 この感情は、身体がムズムズするもので、それは、自分で理由が分かっていないからではないかと分かっていながら、どうすることもできない気持ち悪さを孕んでいるに違いない。

 上手な人の小説を読んで、自分が嫉妬を感じるほどではないが、人の小説を読むというのは、嫌であった。

「自分よりも、下手なので安心した」

 という気持ちにはなれるだろうが、それこそ、へたくそな書き方をしているのを見て自分の作風が変な形でブレてしまうのが怖いというのはあった。

 小説を書いていて、

「自分が、思ったよりも人の影響を受けやすいんだ」

 と感じたことがあり、気が付けば、好きなミステリー作家の書き方に似てきてしまっているのを感じた。

 坂崎は、モノマネになってしまうのが嫌だった。

「自分の作品がブレるのが嫌」

 という漠然とした表現ではあるが、それは、ブレるわけではなく、その人の影響をもろに受けてしまい、そんな自分が嫌だからだった。

「小説というのは、あくまでもフィクションじゃなければ、小説とはいえない。ノンフィクション小説などというのは、ただの作文だ」

 と思っていた。

 もちろん、過去の経験から派生した形でアイデアを絞り出すこともあるだろう。しかし、あくまでもアイデアの享受という程度であり、そのまま事実を主題として書くわけではない。

 坂崎は、小説と作文のれっきとした境目を犯したくはないと思っている。その間に結界が存在し、その結界を自らが侵すようなことは絶対にしない、したくないと思っているのだ。

 小説というものをどのように描くのかということは、自分でも分かっていることだった。「小説というのは、あくまでもフィクション。ノンフィクションに該当する、エッセイや評論、私小説などは、俺の中では小説とは認めない」

 というものだった。

 基本的には自分への啓発であるが、他の人が、評論や私小説を書いて、それを、

「小説だ」

 などと言っているのを聞くと、きっと虫唾が走るに違いない。

 さらに、パソコンが普及してから流行り出したという、当時のケイタイ小説なるもので、今では、

「ライトノベル」

 として普及してきたものも、小説とは認めたくないという思いがあるのだ。

「無駄に行数を開けたり、小説のくせに、まるでポエムであるかのような書き方をしている作品の、どこが、小説だというんだ」

 と言いたかった。

「悔しかったら、行間をあけずに、長編小説を書いてみろ」

 と言いたいくらいだった。

 ちなみに長編小説というくくりは、あくまでも曖昧なもので、定義としてはないのだろうが、目安としては、文庫本でいえば、二百ページ以上のものをいうのであろう。(ちなみに、最近の作者の小説は、大体文庫本で、百五十ページくらいなので、中編の中でも、少し長編に近いと言えるであろう)

 小説というものは、

「短編小説になるほど、難しい」

 と言われるが、ライトノベルを書いている人は、そのあたりを意識して書いているのだろうか?

 そもそも、人の作品を見ることで自分がブレると思っている人は最初から人の作品を見たりはしない。だから、同じように趣味であれ、小説を書いているという人は、たぶん、他人の作品を読むのが嫌な人が多いと感じるのは、乱暴であろうか?

 小説に興味のない人は、さらに論外で、最初から読む気にもならないだろう。

「他人の、しかも、素人の書いた作品を読むくらいなら、プロの作品を読むに決まっている」

 という発想は、普通に考えて出てくるものではないだろうか。

 そういう意味で、他人から、

「小説を書いているんだ、読ませて」

 などと言われたとしても、まず間違いなく社交辞令であろう。

 どの方向からどのように考えたとしても、人が書いた小説を読むメリットはその人にあるわけもない。

 見せたとしても、その人が見てくれるなどと思うのは、それこそ、他人を信用しすぎる「お花畑的な発想の持ち主」

 だと言えるのではないだろうか。

 だから、自分から、

「小説を書いている」

 などと言ったことはなかったのだが、ある時から友達になった人がマンガを描いていて、その人が、

「読んでみたい」

 と言ってくれた。

 彼と話をしていると、漫画家にも、素人であれば同じような悩みがあり、

「マンガのように、ビジュアルのあるものだって、人の作品だということで読もうとは誰もしてくれないのさ。俺だって同じで、人の作品を読みたいとは思わないし、人に読んでもほしくはない。そのくせ、いい作品を描きたいなんて思ってるんだから、本当に矛盾の塊だよね」

 と言っていた。

「まったくその通りだよね」

 というと、

「だから、俺たちのように同じ芸術であっても、違うジャンルの作品を読むというのは、意外といいことなんじゃないかって思うんだ」

 と言ってくれた。

 彼の説得力というよりも、その言葉に信憑性を感じ、彼のいうことが、至極当然のことに思えて、

「確かにそうだね。お互いに、交換して読もうか?」

 というと、

「うんうん、それがいい」

 と言って、お互いに作品を読んでみた。

 すると、一週間後くらいにその友達から連絡があり、

「原稿を返すから、会おう」

 と言ってきたのだ。

「ああ、じゃあ、飲みながら、ゆっくり話をしよう」

 というと、

「いいよ」

 という返事から、二人で飲むことになった。

「なかなか面白い作品だったよ」

 と、友達に言われたが、それが社交辞令なのか、それとも本気なのか分からず、キョトンとしていたが、彼が微笑んで、

「君が僕の言葉をどう感じるか、それは君の勝手だ。俺の作品はどう思ったのかな?」

 と言われた。

 坂崎は、すぐに返事ができずに困っていると、

「そうだろう? 返事に困るよな? だって、どう答えていいかなんか、最初から考えていなかったはずだからね。それは、聞かれても、差しさわりのない答え方しか思い浮かばなかったからさ。今俺が言ったような答えを自分なりにどうこたえるかということを考えるだけだからな」

 と言われた。

 彼の言う通りだと思った、さらに彼は続ける。

「だから、俺は先手を打って言ったのさ。こういうことは言ったもん勝ちさ。先に言われてしまうと、相手は、同じようなことしか言えないと思うと、返事に困ってしまう。なぜなら、相手の作品を真剣に読んでないからさ。読もうとしたかも知れないけど、どうしても、自分の作品を相手がどう思いかということが気になってしまって、相手の作品を真剣に読めなくなるからね。それは、小説だからというだけのことじゃないのさ。結果として、自分の作品をどう思われるかというのが怖いからさ。君は最初、お互いに読みあうのだから、フィフティ―フィフティーだって思っただろう? そんなことはないのさ、五分五分だと思った時点で、相手にのまれている証拠だからね。もし飲まれていないのだとすれば、それは、本人の思い上がりさ。自分の方が上だとでも思わないと、五分五分の関係なんかにはなりはしない。だから、俺は先手必勝を取ったのさ」

 というではないか。

 きっと、彼も今の自分と同じような気持ちになったのかも知れない。そうでもないと、ここまで断定的に言えるわけはないからだ。

 五分五分の関係という話は、何となく分かったような気がした。小説を書いていると、どうしても、

「俺はまだまだアマチュアなんだ」

 という気持ちが強くなる。

 それを意識の中では、

「謙虚なんだ」

 と思っているが、実はそうではなく、

「言い訳が先にあって、その状態でなければ、小説を書き続けることができないのではないか?」

 と思っていた。

 それは、自分に自信が持てないということが先にあって、自信が持てないから、言い訳をするという逆の考えを持つと、そこには、もうワンクッション何かが存在しているような気がするのだった。

 芸術を続けるということは、その時々で、節目を感じることがあると思うようになっていた。

 ただ単に前に時間とともに前に進んでいるだけでは、後ろに下がっているのと同じように思える。少しずつ進むというのは、時間とともに同じスピードであれば、それは進んでいることにならないのではないかと思う。

 なぜなら、自分が普通に歩いていて、相手が同じスピードの、

「動く歩道」

 に乗っていたとすれば、それは、同じスピードなだけに、相手から見れば、まったく進んでいないのと同じことではないのだろうか。

 だから、時間が同一間隔で進んでいるのであれば、それよりも先に進むような努力がなければ、成長しているとは言えない。

 そういう意味で、

「子供が大人になる」

 というのは、自分でも想像している以上に、先に進んでいるということになるのではないか。

 そこには、自分で意識できるようなスピードが存在し、意識しているからこそ、

「大人になっている」

 ということを意識できるに違いない。

 大人になるというのは、自分でも思っていなかった本能が働いているに違いない。女性の場合では明らかな身体に変調があるのだろうが、男にだってあるだろう。

 それこそ、放送禁止に引っかかってしまうので、敢えては言わないが、身体の変調が精神にいかに影響を与えるかということを理解できれば、それはある意味で、

「大人になった」

 と言えるのではないだろうか。

 そして、もう一つは、今感じている思いであり、

「時間軸と同じスピードで進んでいると、それは先に進んでいるということにはならない」

 ということに気づくかどうかということである。

 つまりは、

「誰でも気が付けば大人になっているということは、このプラスアルファのスピードを、誰もが意識することもなく、本能であるかのように無意識に感じていて、気が付けば、大人になっていた」

 ということになるのであろう。

 しかも、それを普通の人は、まるで本能のように感じていることだろう。だから無意識なのだが、それを意識している人がいるとすれば、その人は、大人になるということを意識できたということであり、意識できていない人よりもさらに、大人だと言えるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、自分が大人になるということと、小説を書き続けられるということが、イコールになるのではないかと思い、

「俺は、すでに大人になっているのだとすれば、小説を書き続けられるようになることができれば、その理由をちゃんと考えて、出した答えを自分で理解できているようになっていないといけないな」

 と感じていた。

「小説を書くというのは、人と比較するものではないとは思うけど、でも、自分を納得させるためであれば、人と比較するということも、選択肢の一つとしてありえることではないか?」

 と感じるのだった。

 小説が書けるようになると、自分がどんな小説を書きたいというのをある程度ぢぼった方がいいのかを考えてしまう。

 かといって、坂崎は、自分がどんな種類の小説を書きたいのかということが、それほど定まっているわけではなかった。

 正直、書きたい小説のジャンルが定まっていないのに、ただ書きたいと思うというのは、「本当に小説を書いていてもいいのだろうか?」

 という疑問にぶち当たることもあった。

 だが、何でもいいから、思ったことを書くというのも悪いことではないと思っていた。確かにそうなると、自分が好きではない作文になってしまいそうで嫌なのだが、

「何を書けばいいんだ?」

 という、最初のところで悩むよりもマシな気がした。

 だから、最初の頃は、本来作ってから書き始めるべきである、

「プロット」

 というものを書くこともなく、いきなり書き始めたものだった。

「書いているうちに、それなりに形になってくる」

 というものが多かった。

 そういう意味で、オカルトっぽい話が多くなったのも無理もないことで、坂崎の中で考える、

「オカルト小説」

 というのは、

「最後の数行で、どんでん返しがあるような、いわゆる奇妙なお話ではないだろうか?」

 と考えていた。

 そういう意味で、最後が曖昧になってしまう小説も、ありなのではないかと思っていて、実際に奇妙な物語と言われる話は、最後が曖昧な小説が多いように思えたのだ。

 実際に書いていて、途中で辻褄の合わないことが出てきたとしても、最後には何とか伏線を敷いていたというような形で仕上げれば、結構奇想天外な話になって、面白い作品が書けるものだと思うようになったのだ。

 しかも、そういう作品は最後の方は、曖昧な方が意外と面白い。曖昧にラストシーンに向かっていると、見えてきたのが、明かりであれ、闇であれ、小説の体裁さえ整っていれば、少なくとも、自分が納得できる小説が書けるというものだ。

 そもそも、小説を書いていて、自分が目指すものとして、

「世間大衆に認められる小説を書きたい」

 ということが目的なのか、それとも、

「自分が納得できる小説を書き続けられる」

 ということが目的なのか。

 ということを、考えるようになった。

 小説を書いてみたいと考えた、本当の初期の頃は前者だったような気がする。

 何といっても、

「作品として残すのだから、当然、世間一般に認められなければいけないと思っていた。それは、小説を書きたいと思った時、世間一般に認められる作品と、自分が納得のいく作品というのは同じものだ」

 と思っていたからだ。

 それに、小説を書きたいと思う前であっても、

「小説というものは」

 ということを考えた時、この二つが同じものではないといけないというような漠然とした思いがあったもだ。

 そして、

「小説家のプロは、そう思って書いているのだろう」

 と思ったが、自分が小説を書き始めてからも、この考えに違いはなかった。

 実際に、自分がプロを目指して書いているのだから、この二つは同じことだと思っていたのは当然のことであるが、次第に、その考えが少しずつ変わってくることになる。

 自分の思いを小説にぶつけてくると、

「これって、世間一般に認められるような小説だと思って書いているんだろうか?」

 と感じた。

 そんな疑問を感じている時、他の人に読んでもらうと、かなりの酷評があった。それを聞いた時、

「もう、小説を書くことをやめようか?」

 と考えたほどだったが、簡単にやめることができないほど、小説の世界に自分が入り込んでしまっていることに気づいたのだ。

 だから、酷評がつらかったのだが、

「人が何と言おうとも、自分が書きたいと思っているんだから、それでいいではないか?」

 と感じるようになると、その考えが、どこか恰好のいいもののように思えてきたのだ。

 何よりも自分が小説を書いていて、まだまだ簡単に抜けられるくらいのところにしかいないんだと思っていたのが、実際には、やめることができないくらいに、生活に密着しているのだと思うと、却って嬉しくなっていたのだ。

 自分の書いた小説が、人から避難されたとしても、

「そこまでいうなら、お前には、人を批判できるくらいの作品を書くことができるのか?」

 と言いたかった。

 さすがにそこまでいうと、

「売り言葉に買い言葉」

 になってしまう。

 後者である、

「自分の納得がいく作品」

 を書いていたということまで否定しているような気がして、それが嫌だったのだ。

 そのうちに、

「自分が何のために書いているのか?」

 という言葉が、書いていて、矛盾を孕んでいるように思えてきた。

「何のためか?」

 ということと、

「書いている」

 ということを、直接結びつけるということが不可解な気がしてきたのだ。

 確かに小説を書いていて、何かを目的にしているという感覚はない。しかし、何か目的がなければ、書き続けるということは難しいのではないかと思うのだった。

 つまりは、

「書いている」

 という感覚ではなく、

「書き続ける」

 という感覚が、違っているということを示しているのだ。

 継続させるためには、

「何のために?」

 という感覚は不要な気がした。

「小説を書き続けるのに必要なものは、目的ではなく、自分を納得させたいと思うことではないか?」

 と思うようになった。

 小説を書き始めてから感じたことであるが、

「喜怒哀楽の感情が、小説を書くには必要だ」

 という思いである。

「ただ、感情もなく、書いているのであれば、それは本当に作文であり、文章が先に続くには、事実をつなげるしかないのではないか?」

 と考えていた。

 なるほど、確かに学校で書く作文というのは、ほとんどが事実の羅列だったりする。それでも子供心に、

「嬉しかった」、

「悲しかった」

 などという喜怒哀楽をストレートに表現しているが、そこが作文とはいえ、文章を書く醍醐味ではないかと思うのだ。ただの羅列であれば、読む人がどう感じるかというよりも、自分が納得しないのではないかと思うのだ。

 ただ、そこに説得力が存在すれば、それは、その人の感情表現であり、小説になりうるものではないかと思えるのであった。

 そもそも、

「書きたいことを書き連ねる」

 というのは、喜怒哀楽がなければ無理なことであって、

「小説を書きたい」

 と思っても、最初の頃は簡単に挫折してしまう原因として、

「喜怒哀楽g含まれていない」

 ということが言えるからではないだろうか。

「文章を書くというのは、口で喋っているのと同じことだ」

 と言えると思うのだが、何かを感じて口に出して表現するというのは、何かを説明している以外であれば、必ず、喜怒哀楽というものが含まれているはずではないかと思えるのだった。

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