第7話 感情の表現
小説を書いていると、喜怒哀楽のどれが一番表現しやすいのだろうか?
書いていて思うのは、怒りではないかと思う。
喜びや、楽観的な話は、書いていても、なかなか言葉が出てくるものではない。表現ができたとしても、短い文章で、つないでいこうとしても、なかなか長い話に結びつけることはできない。
しかし、怒りであったり、悲しみというのは、一つの発想から、いくつも言葉が出てくるものだったりする。
しかも、怒りや悲しみというものを表現しようと思うと、それまでに感じていた喜びや楽観があるから、余計に怒りや悲しみが浮かび上がってくるものである。
普通であれば、最初に悲しみがあるというのは、なかなかないだろう。
「嬉しいことがあってから、それが裏切られることになったり、転落することになるから、怒りや悲しみが生まれる」
というものだ。
だからこそ、まずは楽しかった時のことを書いてから、その後、怒りに結びつくような話が紡がれ、そして、怒りを爆発させる話になる。これだけで、三つの章が生まれるというもので、起承転結の三つを作り上げることができるだろう。
もっとも、それは、プロットの段階で書きだすものであって、小説が長くなるのであれば、さらに、一つの章にそれぞれ箇条書きのような形で、
「喜びや嬉しさ」、
「怒りや悲しみ」
というものを、いかに表現するかということを書きだしていくことが、文章を続ける上で大切なことだと言えるのではないだろうか。
もちろん、それは書き方にもよるのだろうが、最初に、
「怒りや悲しみ」
の場面を書いておいて、その後、回想シーンとして、
「喜び、楽しさ」
を思い出しながら書くというのもありであろう。
その方が、余計に怒りや悲しみがこみあげてくる場面を書くことができるのだろうが、それは、読者に対しての書き方ではなく、あくまでも、書いている自分が納得できるかということを考えての書き方である。
喜怒哀楽を表現するのに、読者のことを考えていては、自分を納得させられる作品が書けるかということに繋がるのかどうか、よく分からない。
ただ、小説を書きながら、
「読者のため」
などと思って実際に書いている気はしてこない。
あくまでも、
「自分の感情を表現し、自分を納得させられるかどうか」
というのが、小説を書いている意義であった。
いや、
「小説を書いている」
というわけではなく、
「小説を書き続ける」
という感覚で、ただその時書くだけであれば、その時に小説を書いているという意義すらないような気がしてくるのだった。
特に、何かの夢を見たと感じた時など、執筆意欲が増してくる。逆にいえば、
「平凡な毎日を過ごしている時というのは、執筆意欲があまりない」
と思っていた。
最近では、そこまで波乱万丈な人生を歩んでいるような気がしていなくて、少し落ち着いてきているような気がしているのに、執筆意欲は、それなりにあるのだった。
ということは、
「喜怒哀楽を感じていないと思っているけど、実際にはそうでもないのかも知れない」
と思うようになっていた。
それは、小説を書いていて、
「自分が小説を書き続けている」
という思いにブレがないからだった。
小説を書けるようになったのは、精神的に落ち着いている時ではなかった。どちらかというと、精神的に厳しい時で、失恋をした時ではなかったか。
それまで人を好きになることはあっても、好かれることはなかった。それなのに、クラスの女の子で一人、坂崎を好きになった女の子がいた。その子はあまり目立つ女の子ではなく、いつも一人でいるようなタイプだった。普段から、気になっていたわけでもないのに、その子が、一時期やけにモーションを掛けてくる時期があったのだ。
何かあったのかとは思ったが、まさか、自分のことを好きだと言い出すとは思ってもみなかった坂崎は、意表を突かれた思いと、好きと言われて嫌な気がするわけがないという気持ちとが絡み合っていた。
だが、好きだと面と向かって言われると、それ以外の気持ちが浮かぶわけもなく、その言葉を素直に信じたのだ。
ただ、接近の仕方があまりにも露骨だったのが気になった。どちらかというとおだてに弱く、好きだと言われれば素直に信じる方が、自分らしいと思っている坂崎のことだから、
「こんな俺を好きになってくれるんだから、俺も好きにならないといけないな」
と思ったのだ。
好きだと言われてビックリしたのは、確かに、自分に告白なんかしてくる女子などいるわけはないという思いが強かったのだが、まさかその相手が、自分のまったく意識していなかった相手だということに、戸惑っていたのだ。
だから、好きでもない相手が自分のことを好きだと言ってきている。本当であれば、
「好きでもない相手なのだから、断ればいいだけじゃないか」
というだけのことなのに、なまじ今まで女性に好かれたことなどなかっただけに、素直に好きになってくれたことは嬉しかった。だから、
「もったいない」
と思うのだった。
「このまま付き合っていれば、好きになれるかも知れないのだから、ここでフッてしまうのはもったいない」
と考えた。
嬉しかったという感情に対して感じたもったいないという思いとは厳密には違っているのだろうが、これを同じだと考えると、余計に、
「もったいない」
という感情を、素直に受け止めればいいのかが悩みどころであった。
ただ、女性と付き合ったことのない坂崎は、好きだと言ってくれた相手に対して、どう接すればいいのか分からなかった。
普通にデートに誘って、お互いに気持ちを話せるくらいになれるのが一番いいのだろうが、どうも、好きだと告白してくれたわりには、彼女の態度は警戒しているようだった。
ひょっとすると、告白するまでが、彼女のすべてだったのかも知れない。
別にこれから付き合いたいという気持ちを抱いているわけではなく、自分の気持ちを相手に伝えるだけで満足するという女性であれば、坂崎が考えていることはまったくの無駄だということになってしまう。
これは後から分かったことであるが、彼女には好きな男性が実はもう一人いた。自分が本当に好きな相手がどっちなのか分からずに、二人に告白してみて、そのリアクションで判断しようと思っていたようだ。
もう一人好きになった男子生徒というのは、活発な性格で、友達も、男も多ければ女性も多いという、タイプだった。
告白されることも結構多く、その都度、皆フラれているようだったが、それを分かっているのに、告白する女生徒が絶えない。まるで、玉砕覚悟のようだった。
つまりは、
「どうせダメなんだろうから、玉砕することで、あきらめがつく」
と考えるようだった。
だから、彼女も、坂崎に告白する前にその男子生徒に告白をして、しっかりとフラれたうえで、坂崎への告白だったのだ。
「坂崎君だったら、別に断るようなことはないわよ。それに、他に誰かを好きだというようなことなさそうだしね」
と、彼女はそう言って、友達から背中を押されたようだった。
ただ、その友達から、
「坂崎君のどこがいいの?」
と聞かれて、
「人畜無害なところ」
と答えたというので、完全に、坂崎は、
「滑り止め」
でしかないのだった。
その時坂崎は、彼女が先に本命にフラれているなどということは知らなかった。もし、知っていればどうだっただろう?
「バカにするな」
とでも感じて、彼女に最後通牒を渡すことになったのだろうか?
坂崎の性格からすれば、きっと、最後通牒を言い渡すに違いない。ただ最後通牒は、完全にフルというわけではない。どう言って、最後通牒を渡すことになるのだろうか?
坂崎は、その後、彼女をフることになるのだが、
「バカにするな」
というような感情にはならなかった。
むしろ、自分が卑屈になる感じで、
「そりゃあそうだろうな。俺のような男が女の子から告白されるなんて、ありえるはずないもんな」
と、言葉にしていうことで、自分を納得させようとしていたのだ。
ただ、今回のは、自分が悪いわけではない。相手があまりの仕打ちだったことで、このまま彼女を許すことができなかったという素直な気持ちというよりも、もし、そこで許していたとしても、また同じことをされるのではないかと思うと、相手というよりも、自分が遭う被害に対して、冷静に考えた結果のことであった。
ある意味では、結果を出すうえで、気持ちに余裕があったに違いない。どっちにしても、彼女をこのまま許して付き合い続けることは、自分にとって、いい結果になるわけはないと思ったからだ。
ただ、彼女が悪いというわけではない。しいていえば、
「坂崎が滑り止めだった」
というだけだ。
滑り止めを卑怯だとは言えないような気がした。受験にだって滑り止めはある。ただ、滑り止めという制度を恋愛に応用していいのかどうか、滑り止めにされた自分としては、他の人がどう考えるのか、聞いてみたい気がした。
ただ、勝手な想像は自由にできる。
「この感情を小説にしてみるのもいいかも知れないな」
と感じたのだった。
その頃、小説を書きたいと思い始めた頃で、まだ最後まで書いたこともなく、
「どうやれば、最後まで書くことができるか?」
ということを模索している時期だったのだ。
最初の頃は、原稿用紙を目の前において、家の机で、原稿用紙と睨めっこをしていた。何かを考えようと思っただけで、額から汗が出てくるような感覚だった。かしこまった格好が、自分には似合わないとも思えた時期だったのだ。
「小説なんて、そんなに難しいものではない」
という思いと、
「いやいや、簡単にできるくらいなら、小説家の苦悩なんて、描くことはないだろう」
という思いとがあった。
ドラマなどで、文豪と呼ばれる小説家が、原稿用紙をグシャグシャにして、まわりに散らばっている姿であったり、編集担当者が、後ろにへばりついていて、
「先生、締め切り」
と言って、見張っている姿など、小説を捻りだすということの難しさが、表現されているのを見ていると、
「自分にできるはずなどない」
という思いが、溢れてくるのだった。
小説を書きながら、確かに次から次にアイデアが出てくるはずもなく、せめて言葉くらいは出てくればいいと思っていた。
しかし、かしこまって書いていると、そんなに簡単に文章が出てくるはずもなく、どうすればいいのかを模索し始めた。
「図書館でやってみるか?」
とも思ったが、却ってかしこまってしまって、気が散ってしまう。
「では、原稿用紙ではなく、ノートに横書きで書くというのはどうだろうか?」
と考えてやってみると、これは結構うまくいきそうな気がしていた。
そしてその次に、場所を図書館から、ファミレスに変えてみた。
すると、思ったよりもはかどった気がしたのだ。
そして、その時の感情として、自分が失恋したという傷ついた気持ちが、執筆意欲を掻き立てるような気がしていた。フッたのは自分だったのだが、初めて女性をフッたのに、フラれたという感情になるのはどうしてなのか分からなかったが、フラれたのだと思うと、その思いから、
「フラれたショックを、小説執筆で癒す」
という気持ちになっていた。
このまま、失恋というショックを、このままズルズルと流れに任せてショックのままでいると、時間がもったいない」
という気持ちになっていた。
何もやる気が起こらないという意識があったにも関わらず、小説だけは、書きたいという衝動のようなものがあったのだ。
その時感じたのは、
「元々俺を滑り止めになんかしたくせに、滑り止めでもいいとばかりに告白してきた相手なのに、なんで俺が罪悪感を抱かなければいけないんだ?」
と思うと、怒りがこみあげてきたとしても、無理もないことではないだろうか。
そう思うと、
「この怒りを小説にぶつければいいんだ」
と、何を今さらと思いながらも、怒りに任せて書いてみることにした。
「執筆意欲の根底にあったのは、この怒りだったんだ」
と、坂崎は感じた。
「喜怒哀楽」を感じながら、ノートに書いていくと、文章はどんどんと出てくるのだった。
しかし、あくまでも、その時の心境を普通の文章に書いているだけで、セリフとなって出てきているわけではない。考えてみれば、セリフになって出てくる方が自然なのに、どうしてセリフにならないのかが、不思議で仕方がなかった。
それは、
「自分がまだ小説というものを、最後まで書いたことがなかったからではないか?」
と感じた。
最後まで書き上げることができるかできないか。それが、これからも書き続けることができるかどうかということだという理屈が分かる前のことだったのだ。
だが、そのうちに、
「言葉ではいくらでもいえるのに、小説として文章にすることがどうしてこんなに難しいんだ?」
と感じたその時、
「ひょっとすると、小説を最後まで書けるようになるかも知れない」
と思ったのだ。
だから、逆に文章にはなるのに、なぜ、セリフとしての文章を書くことができないのか? と思った。
それでも、何とか小説を最後まで書けるようになると、次の作品からは、セリフもちゃんと書けるようになり、
「なぜ書けるようになったのか?」
ということを考えると、その理由はよく分からなかったのだ。
今まで、絵画や音楽などの芸術について考えてきた時に、
「バランス感覚」
であったり、
「遠近感」
などの発想を思い浮かべて、結局それで、
「自分にはできない」
と感じたのだったが、小説に関しては、一番ハードルが高いと思っていたにも関わらず、「書き続けることができそうだ」
と思えるところまで来ていたのだ。
だが、確かに書けるようになるまで、苦労があった。ただ、それもあきらめることをしなかったからで、他の芸術のようにあきらめることをしなかったのは、やはり、気持ちの中で自分にはできると思ったからなのか、それとも、書き続けることができるようになりたいという思いが強いからなのか、自分にはできるという自信の持ち方ができないタイプだと思ったので、
「書き続けることができるようになりたい」
という気持ちからであろう。
他の絵画も音楽も、決して、そこまで考えることができたわけではない。だからこそ、そう簡単にあきらめることをしなかったのだろう。
そして、試行錯誤のうちに、
「最後まで書き切るということが、書けるようになる一番の秘訣である」
ということが分かったのである。
一番、続けることにハードルが高いと思った小説を、曲がりなりにも最後まで書けるようになると、それまで漠然としていた自分への自信が爆発したかのようだった。
まさか、このままプロにだってなれるというところまで自惚れていたわけではないが、
「挑戦権を得た」
というところまで来た気がした。
そこまでこれなかったのは、
「まだまだ自分は子供なんだ」
という気持ちが強かったからであろう。
子供というのは、
「自分に自信がなくても、それは当然のことで、自分に自信がないことに対して、自分は子供だからというだけの言い訳ができない。しかし、少しでも成長してくると、自分に自信がないことを、自分が子供だからという以外に自分を納得させる理由を少しでも見つけることができるようになるのだ」
ということだと思うようになった。
そして、子供から大人になると、
「自分に自信がないことを、すべて自分を納得させられる理由で解釈できるか、あるいは、自分に自信がないなどということを口にしないかの、どちらかではないだろうか?」
と思えることだと感じるようになったのだ。
自分にとって、小説を書けるようになった時、つまりは最後まで書けるようになったのは、ちょうど時期的に、失恋のショックの時だったので、
「ショックを感じたことで、書けるようになったんだ」
と、単純に感じたのだ。
しかし、もっと考えた時、これが大人と子供の境目ではないかと思った時、
「この失恋のショックは、大人としてのショックなのか、子供の意識のままのショックなのかもどっちなんだろう?」
と思わせた。
今回の小説は、別に恋愛ものでもなければ、失恋に関する話でもなかったのに、途中で失恋の話を織り交ぜることで、最後まで書けたのではないかと思い、小説で表現した自分なりの失恋に対しての文章が、
「まるで子供のようだ」
と感じたのは、内容が、恋愛や失恋ではなかったからなのかも知れない。
小説を書いている時は、何か怒りに燃えて書いているような気がして、その気持ちは、熱血漢であったり、勧善懲悪の精神のように思えた。
初めて失恋をしたにも関わらず、それが大人への第一歩であり、
「失恋自体は、大人の失恋だ」
と感じるようになると、小説を書きながら、
「大人の言い訳」
を書いているように思い、振る方とフラれる方、どちらが理不尽なのかということを考えさせられた。
もちろん、その時の事情によるのだろうが、今回のように、滑り止めにされた方はたまったものではないだろう。
しかし、本人が、滑り止めというのを、言い訳だと思っていなかったとすれば、どうなのか?
「滑り止めであっても、好きなことには変わりない」
と言われてしまえば、それも無理もないことである。
下手をすれば、好きだったということも、言い訳にしてしまいそうで、そうなると、
「自分からフラれるように仕向けたのかも知れない」
と思えてくる。
「フラれる方が気が楽なので、相手にわざとフラせるように仕向けよう」
と考えたのかも知れない。
それが彼女にとっての自分に対しての、
「言い訳」
であり、その言い訳を自分で気づいていないとすれば、
「これほど罪深いことはない」
と言えるのではないだろうか。
そう思うと、彼女は大人にはなりきっていない。むしろ、まだまだ子供だと言えるだろう。
「大人に恋をするなんて、十年早いわ」
と言いたくなったとしても、無理のないことだ。
そんな恋を理不尽に思うと、理不尽なことを小説に書くとするならば、いくらでも、書けそうな気がした。最初の頃はセリフを小説に織り込むのが苦手だったが、改めて、
「話ができるんだから、それをそのまま文字にすればいいだけではないか」
と考えると、書けるようになった気がした。
どうしてもセリフの少ない小説というのは、
「小説というよりも、論文を書いているような気がする」
と、思えてくるだろう。
ただ、それも最近になって分かってきたことで、論文のように感じるのは、読者の人で、書いている方とすれば、ちゃんと物語を書いているつもりだった。推敲ということで読み直しても、最初の頃は、
「それほど小説っぽくないじゃない」
などと思わなかっただろう。
それはきっと、書いた自分が読んでいるという意識があったからに違いない。それだけ自分の気持ちに余裕がないからなのか、何作品も書いて、それを読み直していると、次第に読者の気持ちになって読むことができるという余裕のようなものが出てきたような気がした。
そもそも推敲というのは、
「読者になった気持ちで読まないと、どこを直していいのかが分からない」
というものだ。
書いた人間が、読み直すのだから、本人がどういう思いで書いたのかということを本人は覚えているはずだ。
しかも、書いた本人が読み直して、悪いところを見つけるというのは、非常に難しい。どうしても、贔屓目に見てしまうし、どこが重要なのかということも分かっているからだ。その重要な部分以外を見逃してしまうことになりかねないので、同じ気持ちで読み直すのであれば、何度読み直しても、果たして推敲になるだろうか? と感じるのだった。
それでも、小説の中でセリフが多くなってくると、スピーディな展開になってくるし、展開も早い。言葉の繋ぎにも苦労をしないようになると、書いていても、文章に矛盾を感じなくなってくる。
セリフの多い小説は、ミステリーを書いていて、
「どうしても、セリフが多くなる」
と感じた。
犯罪が起こってから、刑事や探偵が地道に捜査をしているのを描いていくと、聞き込みから始まって、捜査会議での激論などに結びついてくる。
そのうちに、第二、第三の殺人が起こってくると、第一の殺人との共通点を見つけたりして、証拠やアリバイなどといった材料が集まってくると、今度は、理論的な話になってくる。
そこには、人間性からくる、動機というもの、そして、犯行に至った時の状況、さらに犯人が捜査陣に対して、まるで挑戦してきているかのようなトリックなど、犯行を暴くまでにはいろいろと段階のようなものがあるだろう。
だが、ミステリーというと、その段階は大体決まっている。トリックも、無限にあるわけでもなく、パターンがあったりするので、犯罪を考える犯人と、いつも犯罪と向き合っている刑事や探偵とで、どちらが、プロなのかといえば、当然刑事や探偵の方がプロだと言えるだろう。
そんな相手をいかに欺いて、完全犯罪をもくろむかということを考えると、そこがミステリーの醍醐味と言えるのではないだろうか。
しかも、それを素人の小説家が書こうというのだから、犯人や警察、探偵に及ぶわけもない。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、この言葉は、小説家に対しての警鐘なのではないかと思う。
もちろん、プロ作家の人に対しては失礼なのだが、坂崎や(作者のような)素人には、耳の痛いところではないだろうか。
「セリフというところで何が難しいのかというと、感情をどのように表現すればいいのか?」
というところである。
喜怒哀楽を表現するというのが小説なのだから、当然、セリフにも感情が籠っているものである。
ドラマなどでは、俳優が演じ、監督がまとめるので、映像作品になると、リアルな場面が出てくるのだろうが、小説では想像でしかない。逆に小説を先に読んでドラマ化されたものを映像で見ると、物足りなさもあるだろう。
小説よりもマンガを読む人は、その小説から得られる想像力に疎い。だから、映像作品にリアルさを感じるのだろうが、原作を読んで、自分なりに妄想して読破したのであれば、映像作品は、物足りないと思うことだろう。素人の作品を、もし映像化するのであれば、きっと映像化作品の方が、いいと感じる人が多くなるのではないだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます