第4話 マトリョーシカとやじろべえ
マトリョーシカの定義というと、
「胴体の部分で上下に分割でき、その中には一回り小さな人形が入っている。それが何度か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくるという入れ子構造のようになっている」
ということのようである。
そして、五、六層くらいの多重式である場合が多いともされている。
前述の鏡の発想から考えれば、無限という考え方と、
「限りなくゼロには近くなるが、決してゼロではない」
という考え方がその構造に含まれた、見えていない主旨であるかのように思える。
その起源には諸説あるが、
「実は、日本の箱根にあった、箱根細工の七福神人形を、ロシア正教会の秘書官にやってきた時、お土産で持って帰ったものが、マトリョーシカの元になった」
ということでもあったようだ。
もちろん、ウソか本当は分からないが、日本人にもかかわりがまったくないというものでもないようだ。
坂崎には、マトリョーシカ人形というものに、無限の、限りなくゼロに近いという発想が、あったのかも知れない。
そこで夢を見た時に、発想が重なっていくのではないかとも考えたが、その時は、意識はしていなかった。
マトリョーシカ人形を思い浮かべると、その先にあるものが、どんどん小さくなってくるものであるから、鏡の理屈から考えると、同じ大きさでも、遠くになるほど小さくなっていくのだから、マトリョーシカを同じ発想でくくってしまうと、次の人形、さらに次の人形になっていくにつれて、どんどん見えなくなっていき、当初の発想である、
「無限で、限りなくゼロに近い」
という発想が崩れていき、
「実は、無限ではなく、最後には消えてなくなってしまうものであり、ゼロになることだってあるのかも知れない」
と思わせるものであった。
つまり、
「最初に見たものの影という形で次を見ているのではないか?」
という思いであった。
無限に続く鏡の中の自分は、元々反対川の鏡に映った自分であり、すでに最初から虚像だったと言えるのではないか。
それこそ、マトリョーシカの発想である、
「どんどん小さくなっていくもの」
と考えれば、それが虚像であり、影ではないかと思うようになると、もう何も見えなくなったとして、それがゼロである可能性は非常に高いと考えさせられる。
つまり、鏡を両側に置いた時、無限に広がっていて、ゼロにはならないという発想が、実は、
「無限などという発想はありえるものではなく、最後には消えてなくなるものではないか?」
という思いを抱かせるのだ。
最初に思った、不可思議なことである無限という考えも、こうやって考えれば、
「世の中に無限というものは絶対にないのだ」
という結論に行きつくのではないかと思えた。
だから、どんどん小さくなっていけば、最後には必ず、ゼロになるという発想であり、それは、
「人間必ず寿命が来て、死んでしまうものだ」
という発想と、
「形あるものは、必ず壊れる」
と昔から言われているが、それも無理もないことではないかという発想になってくるのであった。
そんな発想を、夢の中で見ていたのかも知れないと思った。
それだけのことを起きてから、思い出すことがないように、夢の世界は結界に包まれていて、覚えている夢の種類は決まっているのではないかと思えたのだ。
だが、今回の夢は発送まですべて覚えていられたということは、そこに何かわけがあるからではないだろうか。覚えておかなければならないもので、大げさにいえば、
「必ず、人間どこかで気づかなければならないことがあるのだとすれば、それは、夢が教えてくれるものであり、実際にそのことに気づくのは、人それぞれであるが、人それぞれの決まった時期があるのではないか?」
と感じたのだった。
このように、一つのものから、いろいろと、物々交換を重ねていくうちに、貧弱なものから、大金を得るに至るというもので。だからと言って、人を騙したりするものではなく、お互いに必要なものを与えるという、
「需要供給のバランスが」
がうまく絡み合うことで、お互いが得をするという形で進められる物語で、元々話の起こりは、奈良県桜井市に存在する長谷寺が原点だと言われている。長谷寺にある、
「十一面観音」
に願を掛けたところ、
「肇に触ったものを大事に持って旅に出なさい」
というお告げがあったという。
完能動を出た時、最初に触れたわらしべを手に取って旅に出ると、自分のまわりを飛びアブがうるさかったので、それをわらしべに括り付けて歩いていると、子供がそれを欲しがった、それをあげると、ミカンがもらえたという。さらに歩いていくと、喉の渇きに苦しんでいる承認にミカンを上げると、商品から反物がもらえた。今度は馬が苦しんでいるので、馬を見捨てようとしている侍の家来に出会うと、馬と反物を交換して、苦しんでいる馬に水を飲ませると、馬は元気を取り戻す。男は馬に乗り、旅を続けた。
すると大きな家の前にたどりつくと、家主は馬を旅に出たいので、馬を借り受けたいと言い出した。男に留守番を頼むのだが、三年経っても帰ってこなければ、家を譲るということで契約は成立し、家主が却ってくることはなかったので男は、大きな家を手に入れることになった。
これが言われているわらしべ長者の話であった。
これが、いわゆる、
「観音祈願型」
と呼ばれるもので、もう一つ、
「三年味噌型」
と呼ばれるものがあり、こちらは、少し派生していく交換物は違っているが、最初のきっかけが違っているので、最終的に手に入れるものが違うもの当たり前だと言えるであろう。
貧乏人がおお金持ちの娘と結婚しようとするのだが、大金持ちの条件として、
「わら三本を、千両に買えよ」
というものであり、それを見事に達成することで、血痕できたという話である。
どちらにしても、誰も損をすることなく、どんどん出世をしてくわけだから、一種のサクセスストーリーと言ってもいいだろう。
最初の、
「観音祈願型」
などに見られるように、
「神仏に願をかけることが、どれほど大切なことなのか」
ということを説教として伝えていくという意味では、宗教色の深い話だともいえるのであろう。
ただ、一つ興味深いこととして、
「溺れる者は、藁をも掴む」
という諺があるが、意味としては、
「人とは困難な状況に陥り、すべての策が尽きてどうしようもなくなったとき、全く役に立たないものに対しても必死に助けを求めようとする」
と言われているのだが、
「まったく役に立たないもの」
のたとえとして、藁が使われている。
わらしべ長者の最初がわらだということを考えると、何か関係がありそうに思えるが、実際には何ら関係はないということだ。
ただ、そうなると、
「まったく関係のない話がそれぞれおとぎ話として、そして格言といて残っているというのを、ただの偶然と言えるだろうか?」
という話である、
それを思うと、伝説というのは面白く、
「観音祈願型」
であったり、
「三年味噌型」
と呼ばれるものであったりと、きっかけはまったく違うが、同じような話が二つ存在するというのも、面白いことだ。どちらかが元祖で、どちらかが派生型と考えることもできるだろうが、そもそもそれぞれが単独で存在したという考えもできるものであった。
マトリョーシカ人形を考えていると、そこから派生したものが、実は結構あったのではないかと思うのだった。
たぶん、自分の中の印章として、
「ドイツの城や箱庭などと同じように、マトリョーシカという発想も頭の奥に印象深く残っていて、そこからいろいろな発想が生まれているのではないか?」
と感じていた。
それが、パラレルワールドのような発想になっているのであろうが、この日の夢で想像できたものとして、
「やじろべえ」
という発想があった。
やじろべえというのは、日本民芸の一つとしてあるものだが、それは、真ん中に支点があり、左右に同じ重さのものを持っているような人形で、支点を中心にバランスの取れた形の玩具のことをいうのだろう。
江戸時代の小説である、十返舎一九の、
「東海道中膝栗毛」
に出てくる登場人物からの命名だというが、確かに飛脚が荷物を持って走っている姿に似ているともいえるではないか。
つまり、左右のバランスが取れているという意味で、天秤を彷彿させるものだと言えよう。
ここでやじろべえをどうして発想したのかというと、
「発想を天秤に持っていきたかったからだ」
というところに行きつくような気がする。
そして、
「天秤というと何を発想するのか?」
と言われた時に、思い浮かぶものとして、
「法曹界」
というものがあった。
これは、弁護士バッチなどに、天秤が描かれているという意味で、
「平等なお裁き」
という意味で、天秤のようなつり合いの取れたものという発想なのであろう。
それを意味するものとして、ギリシャ神話の「テミス」であったり、ローマ神話の「ユースティティアと呼ばれる二人の女神のこととして、
「正義の女神」
のことであろうと言われている。
なぜなら、正義の女神の姿は、
「それぞれの手に、県と天秤を持っている」
ということである、
銅像もそういう形で残っていて、
「司法、裁判の公正さを表す」
と言えるであろう。
そういう意味で、天秤が公正さを象徴していると言えるのだろうが、坂崎の考えとしては、少し歪んだ考えを持っているのであった。
確かに、裁判というと、
「原告には検察官、さらに被告には弁護士がついていて、それらの専門家が集めてきた証拠などを元に裁判官がジャスティスを下す」
というものである。
その裁判は、公明正大でなければいけないとされているが、実際の裁判は、なかなかそうもいかない。いろいろな事象も含まれていて、そこに金銭が絡むことも往々にしてあるからだ。
逮捕した人間を、保釈金を積むということで一定のお金を出せば、保釈してくれるということもあるくらいである。もちろん、証拠隠滅があったり、限りなくクロである被告を保釈するということはないと思うが、理不尽な制度でもある。
また、もう一つ考えられることとして、
「弁護士というものが、本当に公平だと言えるのだろうか?」
という考えがあった。
特に、ドラマや小説などを見ていると、
「弁護士というのは、公正さというよりも、一番の仕事は、依頼人の財産を守ることだ」
ということである。
どんなに理不尽なことでも、一度受けた依頼人に対して、法に触れない程度に依頼人を保護するというのは往々にしてある。弁護士によっては、法に抵触しそうなことでも平気でやってしまう人がいて、それが本当に、
「正義」
だと言えるのかということを、非常に強い印象で考えさせられる。
そういう意味で、今回の天秤の発想というのは、正義の女神という理想を、本当に今の法曹界は求めているのかということに、大いなる疑問を呈することになると、夢に見てしまうだけの激しい理不尽に襲われてしまうのではないだろうか。
こういう発想が、夢を見ていて、目が覚めても覚えているというほどの印象深さに繋がってくるのではないかと感じるのであった。
まだ、女神という意味で、身体や心が弱っている時に想像するものとして、看護婦であったり、昔でいう慰安婦のような発想が頭に浮かんできた。
慰安婦というか、ハッキリというと、風俗のおねえさんという発想であった。
看護婦の場合は、そのものズバリ、身体が傷ついたり弱ったりしている時の癒しの存在としてまず最初に浮かんでくるものである。
そして、風俗のおねえさんは、心の傷を癒してくれる存在として意識してしまうのは、男としては、当然のことではないだろうか。
そういう意味で、コスプレや、エッチな妄想の中に、ナース服が含まれているというのも無理もないことだろう。
コスプレを好む男性の中には、ナース服だけではなく、セーラーに代表されr学生服、さらには婦警さんのポリスの恰好などがよく言われるコスプレなのではないかと考えているが、そのほとんどは、コンプレックスから生まれているものも多いような気がする。
ナース服は、精神的、肉体的に弱っている時、優しく接してはくれるが、
「決して触れてはいけない相手」
として目の前にいる。
さらに、
「決して触れてはいけない」
という同じ感情であるがきっかけが違っているのが、他のコスプレであり、
学生服などは、
「未成年の女の子に手を出すことができない。手を出してしまうと、淫行になってしまい、犯罪者になってしまう」
という感情であったり、
婦警さんなどは、相手が国家権力に守られていて、しかも、護身術も身に着けているということで、男としては、絶対に手を出してはいけない相手という意識がある。
だから、せめてコスプレで、欲求不満を解消させようということで、コスプレの風俗も存在するのであろう。
そういう意味では、コンセプトカフェも同じようなものだ。
普段から、普通に女の子と接することができないと思っている、いわゆるヲタク。たとえば、
「マンガなどに出てくる、二次元の女の子しか好きになればい」
というような草食系男子であったり、アイドルのように、決して手を出すことのできない相手、逆にいえば、自分だけでなく、他の男も同じ立場でいることで、平等な立場を感じている人など、見た目には消極的な連中を相手にしている商売である。
ヲタクをすべて否定しようという気にはならないが、
「俺は、他の連中とは違う」
と思っている人は多いだろう。
しかし、そのことを感じた時点で、さらにまわりの人からは、
「あいつはヲタクだ」
というレッテルを貼られてしまうことだろう。
ヲタクというのは、それも分かっているに違いない。ただ、最近、コンセプトカフェによく行ったりする坂崎だったが。中には想像しているようなヲタクとは違う人もいたりする。
彼らの中には、
「芸術を純粋に好きだ」
という人もいたりして、そういう連中とであれば、ずっと話をしていても、話題に尽きないものである。
彼らには芸術を愛するだけの、他の人にはない感性があり、それを認める人もいたりする。
「そんな連中だってヲタクはヲタクだ」
という人もいるかも知れないが、それでもかまわないと思うのだった。
芸術というのは、いろいろある。坂崎の中で芸術というと、三つくらいに大きく分かれるのではないかと思うのだった。
まずは、音楽である。
楽器などを使って、一つ、あるいはそれ以上のものを表現しようというのは、太古からもあるものだ。
人と人の気持ちを伝えるものは、何も言葉だけではない。音楽だって気持ちを伝える手段として昔から伝えられてきた。
そもそも言葉には、国境というものがあるではないか。
その話は聖書の中に出てくる、
「バベルの塔」
の話に代表されるものである。
そもそも、人間は誰もが共通に分かる言葉を話していたという。古代バビロニアにおいて、国王であるニムロド王が、実現不可能と呼ばれるような点にも届く塔を建設しようとして、壊れてしまった。それを、
「自分に近づこうとする傲慢な人間に怒りを表して、それを壊した」
という説が有力である。
しかも、塔がある程度完成したところで、王は、天に向かって弓矢を射ったという。それが神を怒らせたという説がある。
「天に唾する」
という言葉にあるように、
「人に害を与えようとした場合、結果的に自分に返ってきてひどい目に遭う」
という今では、SNSなどにおいて、
「ブーメラン」
などという言葉で表せられるものであった。
神はそんな愚かな人間を見て、怒りを感じ、
「人間を、永遠に彷徨わせる」
という意味で、言葉が通じなくして、誰もがそのことで疑心暗鬼になり、そのまま世界各国に散ってしまったということが、
「地域によって、言語が違う」
ということの証明であるかのように言われているのだ。
なるほど、確かにその謂れはもっともらしいものである。
この話は、
「ノアの箱舟」
の後に書かれた話であり、人類を浄化したにも関わらず、相変わらずなことをやっている人間に、またしても神が怒りを示したというものである。
ニムロド王というのは、ノアの孫だとされているところからも、時代的には近いということは象徴的なのかも知れない。
そんな時代から、人間は、言語が統一されていなかった。
現代でもよく言われることとして、
「音楽に国境はない」
ということであるが、これは、音楽であれば、言葉がなくとも、相手の気持ちが分かるということを言っているのではないだろうか。
確かに、その地方に根差した音楽というものは存在する。それだけジャンルも豊富にあるからだ。中には、レゲエやサンバ、演歌などのように、世間一般的に全世界では知られるようになったのは、歴史上では最近というものも少なくはないだろう。
それでも、ロック、クラシック、ジャズなどのように、全世界で共通の音楽として知られているものもある。
今から五十年ほど前に流行った音楽で、
「プログレッシブロック(通称:プログレ)」
というものがあるが、その音楽の基本は、
「ロックを基調にして、ジャズやクラシックの性質を加味した音楽」
と言われている。
当時としては、前衛音楽とも言われていて、まだまだ音楽黎明期だった時代に、革命的な音楽だったと言ってもいいだろう。
実際の流行った時期は十年もなかったが、間違いなく全世界を駆け抜けるように大ヒットしたジャンルであった。
ただ、時代がその時だったというだけで、いずれが絶対に流行る音楽だったに違いないだろう。そういう意味で、最近流行りとなっていたらだろう? もっと長く流行りは続いたであろうか? 流行りが終わってしばらくすると、そんな音楽が流行った時期があるなどということを知らない人も、たくさんいたに違いない。
それだけ、プログレという音楽は奇抜であった。
「流行るには時代が早すぎたのかも知れない」
と感じている人は多いかも知れないが、果たしてそうなのか、坂崎は疑問に感じていたのだ。
プログレという音楽を知ったのは、高校生の時だった。軽音楽部の連中から、
「俺たちとは音楽性はまったく違うんだけど、昔、プログレっていうのが流行ったんだよ。俺は結構好きなんだけどね。音楽をあまり知らない連中にはピンとこないかも知れないけど、音楽を志す人間にとって、プログレやヘビメタは避けて通ることのできないジャンルになるんだ。どっちも好きだという人は少ないかも知れないけど、どっちかの影響をほとんどの人は受けていて、俺の場合はプログレに嵌ったかな? 元々、クラシックから音楽に入ったんだからね」
と言っていた。
「そうなんだ」
というと、
「うん、プログレも、ヘビメタも、音楽の系譜から行くと、同じところからの枝分かれだったりするので、まったく違うように見えるけど、実際には、派生は同じところからであって、考え方がちょっと違っただけで、別の音楽ができたということなんだろうな」
と言っていた。
後からヘビメタもプログレも聞いてみたが、自分には、プログレが合っているような気がした。
ヘビメタは、どちらかというと、個人の技術が優先され、プログレの場合は、全体的なバランスがクラシックであったり、ジャズを奏でるという感じであった。
もちろん、一概には言えないのであって、その証拠にプログレの中には、
「世界有数のピアニスト」
であったり、
「世界最高のギタリスト」
と言われているアーチストもたくさんいる。
それだけ、音楽性に特化したものがプログレだと言えるのではないだろうか。クラシックが基調になっているものは、一曲が結構長かったりする。昔のLPレコードの片面すべてが一曲などというのは珍しくはない。その分、その一曲が、組曲化されていたりするのも多かった。
インストロメンタルも多く、それだけ音楽性に富んでいると言えるのではないだろうか。坂崎は自分が音楽をやるわけではないので、ヘビメタには嵌らず、プログレの方に嵌ったのだ。
プログレを聞きながら本を読むなどということも結構あったりした。
ホラーやミステリーを読む時にプログレを聞くというのが日課になっていて、特にプログレは、冬に聴くものだと思っている。もちろん、個人的な感覚であるが、雪が深々と降っている中で聴くプログレというのは、実に味のあるものだと言えるのではないだろうか?
それを思うと、音楽に芸術性を感じないわけにはいかない。ある意味、
「一番芸術性を感じさせてくれるのが、音楽だ」
と言えるのではないだろうか。
特に、
「万国共通の言語」
という意味での音楽は、素晴らしいものがあった。
「聴いているだけで、いろいろなことを想像させてくれる」
というのが、音楽の醍醐味であり、プログレを例として、
「いろいろ音楽も派生していくものだ」
と考えると、音楽の歴史などを勉強するのも楽しいと思い、高校時代には、
「音楽の歴史」
なる本を結構読んだ記憶がある。
楽器ができなくても、音楽を聴いていて、いろいろと頭の中で妄想もできる。本を読みながらなど、いろいろ思いを馳せていると、次第に、何かを聴かないと本を読めなくなっていそうで、自分でもその感覚を面白いと思っていた。
音楽というものをいかに自分で把握できるようになるかということが、
「芸術というものをいかに理解するか?」
ということに繋がってくるように思えてくるのだった。
まずは、音楽というものの芸術性を考えてみたが、芸術には他にもいろいろあるではないか。坂崎は、他のものにも思いを馳せていた。
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