第3話 箱庭とマトリョーシカ

「無限というものは、果たして存在するのであろうか?」

 ということを考えたことがある人は少ないように思えて、結構皆一度は考えているのではないだろうか。

 それは前述の、

「異次元へのパスポート」

 を生きているうちのどこかで知ることになるのだということと、どこか似ているような気がする。

 まさかとは思うが、この

「異次元へのパスポート」

 に気が付いた時、死期が近づいていて、それから少しの間で死んでしまうのではないかという発想はいかがだろうか?

 その発想に至った一つの原因として挙げられるのが、

「ドッペルゲンガーの発想」

 であった。

 ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分のことであり、似ている人という意味ではない・同じ時間帯で、違う場所にもう一人の自分が出現している状態をいうのだ。つまりは、

「どこどこでお前を見た」

 という人がいても、実際にはそんなところに自分がその時にいるはずがないという場合は、ドッペルゲンガーの可能性は高い。

 しかし、ドッペルゲンガーには特徴があるという。

「本人と行動パターンが同じで、本人が行ったことのないところに現れることはない。さらにドッペルゲンガーは決して喋らない」

 などと、一定の決まり事を持っているようだ。

 さらにドッペルゲンガーの最大の特徴は、

「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来死んでしまう」

 という言い伝えがあり、過去の有名人であったり、著名人などが、実際にドッペルゲンガーを見たことで死んでしまった人がいたりする。

 自殺、暗殺、自然死、事故などとその内容は多岐にわたるが、

「ドッペルゲンガーを見た」

 ということを公言したことで、まわりの人M意識してのことであった。

 もちろん、公言しない人もたくさんいるだろう。恐怖におののいて、人に話すことが恐ろしいと思っている人である。

 そんな人はどこで死のうが、まさかドッペルゲンガーを見たことで死んだなどと思うはずもない。だから、実際には、もっとたくさんのドッペルゲンガーが目撃され、本当に死んだ人もたくさんいることだろう。

 しかし、逆に、

「ドッペルゲンガーを見た」

 という人がすべて死んだというわけでもなく、言い伝えとして残っている人を分子とするならば、分母がどれほどたくさんの人なのかを思うと、信憑性というのも怪しいものになってしまう。

 ドッペルゲンガーについてどう考えるかということは、その人それぞれの考え方によるのだろうが、少なくとも、具体的に話として残っているのだから、実際に言われているだけの信憑性はあるのかも知れない。

 そういう意味で、夢に出てくる、

「異次元へのパスポート」

 を意識したということは、きっと誰も他人には話さないだろう。

 だから、信憑性以前の問題で、今回は、分子がゼロなので、計算にはならないと言えるのではないだろうか。

 この発想もあくまでも、この小説の中だけではないかと思っているが、ひょっとすると、他にも同じことを感じている人がいて、何か恐ろしい感情を抱いているのかも知れない。

 それを思うと、何が恐ろしいのか、そっちが焦点になりそうにも思い、ドッペルゲンガーの話に結びつけたのも、何かの因縁ではないかと思うのだった。

 だからこそ、

「異次元へのパスポート」

 という発想が生まれたのであって、それが、無限という発想とどのようにかかわってくるのか、考えどころでもあるのだ。

 無限というものを考えたことのない人はいないだろう。

 無限というのは、距離においての無限、時間においての無限と、それぞれにあるものだと思っている。

 距離のおいての無限という考え方は、宇宙空間であったり、古代人が考えた地球というものの発想も、一つのパラドックスとして考えられることではないかと思うのだった。

 何といっても、宇宙空間という考え方の無限というものは、果たしてどこまでそれが言えるというのだろうか?

 ただ、宇宙空間などのハッキリと分かる無限という発想ではなく、もっと身近にも考えることのできるものがある。この発想は、

「視点をちょっと変えるだけで理解できること」

 という発想にあるのではないだろうか。

 例えば、無限という考え方の一つとして、平行線という考え方がある。

 平行線というのは、

「決して交わることのない直線だ」

 と言えるものが平行線である。

 これは、どこまで行っても言えることであり、ただし、それは直線でなければ成立しない。

 さらに、曲線となると、メビウスの輪のように、普通に考えられる発想ではないことが現実になることで、タイムパラドックスが証明されることにもなる。これも、ある意味の無限ではないだろうか。

 ただし、こちらは距離の無限ではなく、時間の無限を意味しているのではないだろうか。

 時間の無限というのは、

「時間というものが必ず、時系列でつながっているものだ」

 という考えから生まれるものであるが、実際に今現在を中心点として考えるならば、次の瞬間には、今が過去になる。すると、一歩前の未来が今となるという考えであり、過去がどんどん膨れ上がっていくはずなのに、未来も終わりが見えてくるわけではない。

 さらに、未来というものが、無限の可能性を秘めているということは、普段意識していなくても、言われてみれば、誰にでも理解できることである。つまり、次の瞬間、何が起ころうとも、それは不可能なことではない。不可能などありえないともいえるのではないだろうか?

 パラドックスを矛盾だと考えるのであれば、

「限りなくゼロに近いもの」

 という存在は、無限という発想と結びついてくるのではないだろうか。

 一つのものを半分にする。さらにその半分にする……。

 という形で、永遠に何かに向かって近づけていくのであれば、その先にあるものは、どんなに小さくなったとしても、ゼロになることはないのだ。

 数学的な言い方をするならば、

「除算において、答えがゼロになるというものは存在しない」

 ということである。

 数学的に見て、ゼロという数字は実に神秘的なものである。

「ゼロで割る」

 というのは、数学的にはありえないことであり、計算してはいけないことだとされている。

 なぜなら、

「除算というのは、積算の逆の計算方法だ」

 と考えるなら、積算において、元の数字が何であれ、ゼロを掛けると、ゼロにしかならない。

 つまり、ゼロからゼロを割ると、答えは一にしかならないと言えるはずなのに、無限に存在する数字すべてが、その解になるからだ。

「解なし」

 として理論づけるのか、それとも、計算不能として、特殊ルールを設けるのかということで、数学的には、ありえない、

 つまり、計算してはいけないタブーとされているのだった。

 これが一種のパラドックスであるとするならば、未来が今になった時、最初に考えられていた無限の可能性の中の一つを選んだことになる。

 実はこの問題が、ロボット工学における、

「フレーム問題」

 と深くかかわっていくのであるが、フレーム問題における無限の可能性、つまりは、パラレルワールドと呼ばれるものと密接にかかわっていると言えるのではないだろうか。

 無限という発想には、いろいろと派生した考えがある。至るところにパラドックスは潜んでいるのであった。

 夢に見た箱庭を思い出していると、心理療法という意味で、療養という言葉から、療養所のイメージがある、

「サナトリウム」

 というのを思い浮かべていた。

 サナトリウムというのは、伝染病に罹った人を救うという意味であったり、他の人に移さないようにするための、隔離施設という意味合いもあった。

 特に、戦前の結核のような不治の病とされていたものに対してのものが、その代表例だったと言えるのではないだろうか。

 何といっても、結核というのは、結核菌という菌がもたらす伝染病で、流行ってしまうと、人がバタバタと死んでいくという恐ろしいものであった。

 実際に隔離しての治療を余儀なくされるが、医療従事者も、その結核に罹らないとも限らない。決死の覚悟が必要なものである。

 戦後になって、特効薬である、

「ストレプトマイシン」

 などの薬が開発され、今では結核というのは、不治の病ではなくなったのである。

 しかも、結核の検査としての、

「ツベリクリン反応」

 によって、罹っているかどうかの検査も行われるようになり、義務教育ないでは、ツベリクリン検査は、義務化されていた時代もあった。

 今でこそ、数は激減しているが、まったくなくなってしまったわけではない。何とか共存する形になってはいるが、昔から結核というと不治の病の代表として君臨してきたものだった。

 そういう意味では、今の不治の病とされる。ガンであっても、いずれは医学の進歩で治らないとも限らない。さらには、最近では特に、未知のウイルスによる伝染病が頻繁に起こっていて、最近では、全世界的なパンデミックも経験していたのだ。

 まだ収まっているわけでもなく、まだどんどん増えてくる状態であるが、そのうちに、そのメカニズムも解明され、死傷率が下がってくることになるのが期待される。

 政治的にも医学的にも、パンデミックにより、医療崩壊を起こしてしまえば、それこそ、

「この世の地獄」

 になってしまうだろう。

 そんな伝染病も、昔のように、サナトリウムを各地に作って、隔離するというわけにもいかないだろう。

 実際に、結核病棟がどういうものだったのかということを知るわけではないが、坂崎は、結核病棟をコンセプトにした、いわゆる、

「コンセプトカフェ」

 を知っている。

 もう半世紀以上も昔のものを、現代によみがえらせるというのは、かつての伝染病による隔離や災いを忘れあいという意味での啓発になっていることだろう。

 今では、喫茶店と、ギャラリーを主にしているコンセプトカフェであるが、そこに結核病棟をテーマとして織り込むところは、店主の才覚だと言ってもいいだろう。

 サナトリウムというと、以前、テレビ番組の、オカルトをテーマにしたオムニバスドラマに出てきたのを思い出した。

 そのサナトリウムという施設は、昔の結核病棟をそのまま壊さずに、密かに手に入れた大学教授が、心理療法を用いての治療に当たっているところとして、利用している場所であった。

 しかし、実際には、実態実験なども公然と行われていたようだ。

 新薬の治験であったり、開発などを行う機関で、収容されている人がどういう人たちだったのか分からないが、ひょっとすると、不治の病に侵されていて、助かる見込みはないが、世の中の、特に医学の進歩に、死ぬ前に爪痕を残すという意味で、自ら志願して当たっている人たちであった。

 当然、治験に参加するのだから、特効薬が開発されれば、最優先で利用することを許可されている。ただし、彼らの行っていることは、最重要機密であったのだ。

 最高国家機密にも勝るとも劣らないほどの状態を、彼らは担っていた。だから、見た目には普通の患者であり、彼らがどこに入院しているのかということも、公表してはいけないことになっている。そんな状態の入院患者をサナトリウムの人たちはどう考えていたのだろう? テレビドラマは、その存在をドラマ化したのである。だから、逆にその存在への信憑性は薄れ、

「そんな恐ろしい施設が戦後も存在したなんてことはない」

 と、世間に思い込ませたのかも知れない。

 そんなサナトリウムを彷彿させるドラマを思い出していた。

 そのドラマでは、精神異常者というような人が、その治療のために利用されているということで、実際に人体実験ということは、療養所内でも、最高機密にかかわるようなことを知っている人は一部だった。

 実際に注射をさせたとしても、それは、看護婦としての仕事というだけで、その内容の調合には、一切関わらせることはなかった。

「ここでは、皆さんには、なるべく責任を負わせることはいたしません。ただし、その分、何をしているかということに対して、皆さんが興味を持ったり、詮索することは基本的には許しませんので、そのあたりは、お考えになったうえで、勤務をお願いいたします」

 ということで、誓約書も書かせた。

 この誓約書には、法的な根拠は十分にあり、それを守らないことは、

「公序良俗違反にも匹敵する」

 という内容であった。

 つまりは、

「公の福祉」

 が最重要だということであった。

 実際に、精神に異常をきたした人が、収容されている病棟も存在し、そこには、牢のように鉄格子が嵌められていた。

 そこで、一人の精神異常者が、独房の中で、一人壁に向かって手紙を書いていた。その手紙の相手は、好きな人へのラブレターのようであり、汚い字で書かれていた。

 それは、誰にも知られたくないという意思から、その人はわざと汚い字で書いていたのであって、実は、精神異常に見えていたが、知能指数はとても高く、誰にもそのことを看破されていないようであった。

 だが、実際にこの人をここに連れてきて、強硬にここに置くようにお願いした一人の医者がいたのだが、この患者に関しては他の医師からは、

「彼を置くのは反対だ」

 という意見が多かった。

 彼の頭の中は、百年前の発想が頭の中にあるようだった。

 当時の百年前というと、明治年間のことであり、日本がいよいよ世界に目を向けるようになった時期でもあった。

 日本国内では、殖産興業、富国強兵なる言葉がスローガンとなっていて、外国に学ぶことは学び、今までの不平等条約の解消が、まず第一の目標だった。

 そんな状態で、朝鮮半島をはじめとするアジアに進出していったのだから、アジアで派遣を争っている欧米列強と摩擦が起きるのも、当然のことだった。

 しかし、かといって尻込みしていれば、いつまで経っても、日本が先進国の仲間入りができず。押すところは押すという姿勢を見せるのも大切なことだった。

「日本を甘く見ていては、痛い目に遭う」

 と、海外に思い知らせることも必要だったのだ。

 そんな時代の思いを、彼は受け継いでいるようだった。

 頭の中は、明治の人間だった。先だけを見ているはずだったのだが、

「出る杭が打たれた」

 というような状態でその状況が頭の中で交錯していたのだ。

 そんな中、どうしてその男がサナトリウムに収監されることになったのかまでは分からないが、強く推した人は彼を、自分の実験の何かに利用しようとしたのだろう。

 しかし、結果として、

「フランケンシュタインを作ってしまった」

 ということになった。

 しかし、その医者は、フランケンシュタインになっても仕方がないというリスクは感じていたようだ、最後には、秘密裏に抹殺することを考えていたのだが、その男がそのことを察していたのかどうか、壁一面に恋文を書き、その横に、数式の羅列がしてあった。

 彼が秘密裏に葬られると、その部屋から、彼が敷き詰めて書いたはずの文字はすべてが消えていた。誰かが消したわけではないのに、消えていたのだ。

 本当は消すつもりでいた方はあっけにとられてしまったが、すべての証拠を隠滅するという考えは、旧日本軍の考え方ではかなり徹底されていたことである。その証拠に、かつてハルビンに存在した、

「七三一部隊」

 が、一切の証拠を残すことなく、この世から抹殺されたことでも分かることであった。

 しかし、さすがオカルト作品。誰がやったのか分からないが、完ぺきに彼が存在したという証拠は消されていた。

 その殺されてしまった彼が、どれほどの天才であったのかということは、その時には分からなかった。

 しかし、そのサナトリウムが、

「完全に建物が老朽化してしまい、建て直すしか方法はない」

 ということが決定した際に、この建物を壊すように計画され、いよいよこの建物が壊されて、壁が瓦礫と化してしまった時。

「あれは何だ?」

 ということで、皆が瓦礫に注目した。

 その際に、それまで完全に消えてしまっていた建物の壁に罹れていた、例の計算式と、ラブレターのような文面が出てきたのだが、その壁のあちらこちらに、黒々と何かがへばりついたようなものがあった。

 それはシミのようであり、雫のようにも見えたのだ。

「あれって、血痕じゃないのか?」

 と、誰かが言った。

 推理小説が好きなその人には、血痕にしか見えなかったのだ。

「なるほど、血痕と言われれば血の痕に見えなくもない」

 と言い出すと、

「なぜ、血痕が? しかも、壁を壊す時にはなかったはずの大きな文字があるじゃないか? 血痕に気づかなかったというのもおかしなことだが、それ以上にこれだけ目立つのが書いてあったのに、それに気づかなかったというのは、本当に恐ろしいものだ」

 と取り壊しを請け負った業者の責任者がそういった。

「これはどういうことなんですか?」

 ということで、警察も立ち入り、調査されることになった。

 ただ、あの事件があってから、十年以上も経っているので、その時の責任者などは、すでに退所していた。あの時のことを覚えている人もいなかったのだが、なぜ、今さらこのような内容のことが発見されることになったのかなどということは、謎でしかなかったのだった。

「ここのサナトリウムというのは、昔から、何か怪しいことがあったんだよ」

 と、工事の人の一人がそのことを言いだした。

「君はここのことを知っているのか?」

 と聞かれた工事請負員の一人が、

「ええ、父親が以前この近くに住んでいたらしくて、このサナトリウムの怪しいウワサを聞いていたらしいんです。精神異常の人間ばかりを集めて、密かに何かお研究をしていたのではないかというウワサや人体実験まで行われていたのではないか? という話まで聞いたことがあったくらいです。あれは、ちょうど十年くらい前だったでしょうか? 一人の男性が気がふれて死んでしまったということなんですが、それを役所にも届けることなく、秘密裏に始末したということも聞きました。その時、その男が壁に何かを書いていて、それが、彼の死とともに消えてしまったというオカルトチックな話も聞かされました。その時の話を、今ここで立証しているようで、私はそれを思うと。怖いとしか言いようがないんですよ」

 というのだった。

 話はさらにオカルトチックになってしまい、最後には、その壁に書かれている数式というのが、実はあれから数年後に発見された数学的な権威のある方程式だったという。

 実際には、すでに数年前に外国で発表されているので、今さら言ってもしょうがないのだが、解き方もすべて寸分の狂いもなく、数年前に説かれたのと同じだった。

「じゃあ、これを解いて死んだ人の魂が、発見者に乗り移ったとでもいうのかい?」

 と言われて、

「ええ、そうじゃないかと思います。いや、そうでなくてはいけないと思うんですよ。このままだと、何も報われないじゃないですか。その人は自分が発表しても、どうせ誰も取り合ってくれない。しかも自分の運命は、ここで他人に握られているんだ。その証明をしてくれる人なんかいない。だから、他の人に委ねることにしようと考えたんじゃないですか?」

 と、真面目にそういった。

 この話が真面目であればあるほど、信憑性は考えられず、何をどうすればいいのか、まるで狐につままれたように、皆立ち尽くしているだけだった。

 ただ一つ言えることは、このままこの建物を壊してはいけないということで、この壁を元通りにして、他の部分は新しいものにして、サナトリウムとしてではなく、展示館のような形で世間の目に触れるようなことがなければ、魂も報われることはないと、思っているようだった。

 そんなサナトリウムを、まるで箱庭のイメージで考えてみると、そのサナトリウムの向こうに、箱庭が見えてくる感じがした。

 ただ、実は、そのサナトリウムというのが、箱庭の中にある一つの建物だと考えると、箱庭の外から見ている自分を想像することができるのであった。

 箱庭の中に、サナトリウムが存在し、そのサナトリウムを壊したところに、テレビドラマでは、計算式や恋文のようなものが発見できた。

 計算式と恋文、まったく関係のないもののように思えるが、どちらが表なのかを考えてみると、それぞれに相対的な発想が生まれてくるような気がする。

 計算式というのは、人間の冷静な判断力によって見えている範囲であり、逆に恋文というのは、誰かを意識して、人間としての熱い感情を思わせるものではないかと感じさせた。ただ、ドラマとしては、そこまで感じさせられたわけではなく、あくまでも、オカルトチックな話に、サナトリウムという昔あったとされる不気味なものを描いたということで、作られたものなのではないだろうか。

 オカルトというのは、ラストのところで、大どんでん返しを起こすという作風であり、その途中は伏線を引く場合もあるが、よほどの伏線でなければ、印象に残らなかったりする。

 そういう意味で、番組の主旨をオカルト的な番組という宣伝をしていれば、それなりに視聴者は掴めるはずだった。

 ただ、脚本家の考える作品としては、どこかに自分の特徴を生かしたような部分をちりばめるというところが、その人の作風であったりするのだろう。それが、この相対的な発想だということだったことが、イメージとして残っていたのだ。

 箱庭の夢を見た時、同時に思い出したこのサナトリウムという発想。その時に、実はもう一つ思うものがあったのだが、そのことに気づいたのが、まだ完全に目が覚める少し前だったような気がした。

 そのもう一つ思い出したものというのは、ロシア民芸と呼ばれる、マトリョーシカ人形だった。

 昔、意識したことはあったのだろう。子供の頃だったと思うのだが、それをマトリョーシカ人形という名前だということを知ったのは、かなり後になってからのことであっただろうが、名前を知らなくても、その人形がどういうものであるかということは、ほとんどの人が知っているのではないかと思った。

 だが、名称を知っている人も想像以上にいるのではないかと思ったのが、あの人形のことを、マトリョーシカ人形というのだということを、話の中でマトリョーシカ人形の話題が出てきた時に、その人から教えられたからだった。

 それで、マトリョーシカというのがどういうものなのかということを調べた時、ロシアの民芸だということを知ったのだった。

 そのマトリョーシカ人形というのは、大きな人形の中に、もう一つ人形が隠れていて、さらにその中を開けると、さらに小さな人形が出てくるというもので、深く考えてみると、前述のように、大きさが半分になり、さらに半分になり、ということを繰り返していくと、本来であれば、消えてなくなりそうな感じであるが、実際に消えてなくなることはない。

「限りなくゼロ」

 に近づくだけだった。

 だが、この発想には、もう一つくっついてくるものがあった。

 それは、自分の身体の左右に、鏡を置いた時に、どう見えてくるかという発想にも似ている。

 どんどん小さくはなっていくが、最初の鏡に、反対側の光景が映る。そこには、さらにまた反対側の光景が映るというように、自分の姿が、左右の鏡によって、永遠に、そして無限に映し出されるという発想だ。

 これも、半分ずつになっていく発想から、

p限りなくゼロに近い」

 という発想と同じではないかということだ。

 マトリョーシカ人形がこの発想と同じかどうか分からないが、坂崎の発想の中で、このように、

「限りなくゼロに近い」

 というものが、どこかで連鎖した発想として思い浮かんでくるというのは間違いないようだ。

 これこそ、無限を思わせる発想であり、どこから発想が始まるのかは別にして、

「発想というものは、循環していくものではないか?」

 と思えてくる気がしたのは、忘れることのない夢を見るからなのかも知れないと感じるのであった。

 まるで、わらしべ長者の発想になっているかのような気がしたのだ。

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