第7話 ピエロと咬ませ犬

 二人のいびつなSM関係は、お互いの中にトラウマを作っていた。

 それは、佐和子の、

「余計な感情」

 がもたらしたものであることに違いはないのだが、それを、

「悪いことだ」

 として、単純に片づけてしまうと、問題の解決にはならないだろう。

 二人は、お互いに好きだという感情を抱いていたが、その感情は、

「交わることのない平行線」

 のようだったのだ。

 だから、無意識とはいえ、余計なことをしている佐和子の気持ちをゆいかだけではなく、当の本人である佐和子にも分からなかったのだ。

 だが、ずっとこのまま永遠に分からない感情であるわけはない。そのうちに佐和子本人が、

「私は余計なことをしているのではないだろうか?」

 という感情を抱くようになってきた。

 しかし、その感情がどこから来るのかまでは分かっていない。だから、その感情は無意識のうちに生まれるものだということを感じるようになったのだった。

 そのため、

「何とか、余計なことがどういうことなのか自覚して、早くこの思いから脱出しないといけない」

 と思うようになったのだが、どうしても分からない。

 なぜなら、ゆいかを見ていて、ゆいかも何かおかしいのだが、それが自分が原因であるとはどうしても思えなかったからだ。

「自分が彼女の苦悩を吸い取ってあげている」

 という潜在意識が頭の中にあるからだ。

 つまりは、

「自分にはゆいかに対して、余計なことをしているという意識はない」

 という思いがあり、それが苦悩の矛盾であることに気づかせなかったのだ。

 二人はそのまま大学に進学し、別々の道を歩むことになったのだが、時々会っていた。

 佐和子の方では、

「大学に入学すれば、たくさん友達ができて、ゆいか以外の人を知ることで、ゆいかとの本当の関係を自覚することができ、正常な関係に修復できるかも知れない」

 と思っていた。

 佐和子の中には、この関係が決していい関係であるとは思っていなかったのだ。

 だが、ゆいかの方では、悪いとは思っていない。不安こそあったのだが、悪い関係だと思っていない。なぜなら、罪悪感、背徳感というものを、佐和子がすべて引き受けていたからだ。

 それも、佐和子が起こした、余計なことの、

「二次災害だ」

 と言っても過言ではないだろう。

 ゆいかは、ずっと一人でいた。それがゆいかの性格であり、一人でいても寂しいとは思っていなかった。

 ひょっとすると、

「佐和子がそばにいなくても、辛くはない」

 と思っていたのかも知れない。

 もちろん、自分が支配する相手がいなくなるというのは、それなりに寂しいことではあるが、いないならいないで耐えられないわけではない。

「孤独を知っている人間は、孤独になったことで、辛いと感じることはない」

 と、ゆいかは思っていた。

「孤独というのは決して悪いことではない。なぜなら、なくなってから寂しさを感じるくらいであれば、それは孤独とは言わないからだ」

 と思っていたのだ。

 寂しさを感じるのは、

「孤独ではなく、孤立」

 である、

 孤立した時に、まわりを意識してしまい、人と一緒にいた時の自分を思い出すことができることで、どうしても思い出してしまい、耐えられなくなるのだ。

 孤独な人間は、人と一緒にいた時の楽しかったという思い出を、自分の中で都合のいい解釈をすることができ、

「孤独は決して悪いことではない」

 と考えられるようになるのだった。

 元々、ゆいかは孤独が好きだった。

 一人でいることを悪いことではないと納得させられるだけの言い訳がゆいかの中にあった。

 だから、佐和子と近づきになれた時も、

「孤独な自分が人とかかわることで何か違和感はないのか?」

 という感情にはならなかった。

 だが、一度もそんな感情にならなかったわけではなく、佐和子と付き合っている時に、幾度かなったような気がする。

 何度もなるということは、何かきっかけがあるからであり、それだけ、行動パターンが似ているということなのかも知れない。

 お互いに相手を欲する時というのは、その感情が最高潮にならないと、結ばれることはなかった。お互いに相手を貪るのだから、それも当然のことである。

 佐和子の方には、ゆいかが感じている、

「孤独」

 というものがどのようなものなのか分かっていなかった。

 ただ、

「いつも一人でいるのに、それを寂しいという感情になっていないように見えるけど、なんでだろう?」

 と思っていたのだ。

 佐和子の場合は、孤独を感じたことはなかったが、孤立は感じたことがあった。小学生の頃に感じていたことであったが、ある意味、物心ついた頃から、孤立を感じていたようだ。

 孤独との違いも分かるはずもない。孤立を感じると、その解消法を分かっていたkらだった。

「孤立を解消するには、友達を作ればいいんだ」

 ということが分かっていたからだ、

 この感情は、理屈というよりも、算数のように、

「決まった式からは、決まった答えしか見出すことはできない」

 という当たり前の発想を抱いていたからであった。

「孤立しているのは、一人でいるということであり、それが嫌ならまわりに人を作ってしまえば、孤立とは言わなくなる」

 というだけの計算であったのだ。

 だから、佐和子はいつもまわりに友達がいる。

 ただ、孤立を避けるというだけの算術でしかなかったのだ。

 そこに寂しいという感情はなかtった。寂しさがそこに存在すれば、

「それは孤立ではなく。孤独なのだ」

 ということを知らなかった。

 だが、ゆいかの方ではその理屈を分かっていた。佐和子がゆいかに惹かれたのは、

「自分が知らない世界を、ゆいかが知っているからだ」

 と思ったからだ。

 それを、

「SMの世界だ」

 と単純に思ったのでは、ゆいかのことを、ほとんど知らない、というか、分かっていないと言えるのではないだろうか。

 それ以外の大きなこととして、

「孤立と孤独の違いを分かっている人」

 ということだったのだ。

 少なくとも、ゆいかの方が冷静にものを見ることができるのだが、逆に佐和子の方が不安というものを強く感じることができるのだった。二人が引き合ったというのは、そういうところにあったのではないだろうか。

 お互いに、

「自分の知らない世界を相手が知っていて、いずれ、その世界を見せてくれる」

 と思っているからではないか。

 ゆいかの方はその自覚があり、佐和子にはない。だから、二人は、

「交わることのない平行線」

 の上を歩いているのであって、そこに、目に見えない結界が存在しているのではないかと思うのだった。

 そんな過去のある二人だったが、そんなことなどまったく知らない純也は、合コンが終わってから、数日後に、佐和子に連絡を取った。今までの純也であれば、連絡をすると思えば、数日も置いたりはしない。約束をするしないに関係なく、その日か、遅くともその翌日くらいには、

「昨日はありがとうございました」

 と、礼儀としての連絡は取ることだろう。

 既読スルーになるかならないかで、今後の対応も決まってくるので、どちらにしても、連絡を取ることに問題はないのだった。

 だが、今回は、純也の中に連絡を取らないだけの理由があったようだ。それは、

「気になる人ではあるが、かかわってもいいのかどうかが気になる」

 ということであった。

 付き合う付き合わないという問題であれば、礼儀を尽くすことに対しては何ら問題はないのだが、かかわっていいものかどうかが問題であれば、下手に連絡をして、相手に対してこちらにその気があるかのように思わせるのは、危険なことだからだ。

 そんなことを女性に対して感じたことはなかった。どちらかというと、相手と話をすれば、好感以外の何物も持たない方だったので、その日のうちに連絡くらいは絶対に取っていた。

 現在、三十歳になるまでに、合コンも何度か参加したことはあったが、参加しても、うまくいったためしはなかったのだ。

 ほとんどは人数合わせだったので、そのつもりで行っていたし、皆が自分を人数合わせ以外で誘わない理由も分かっていた。

 それは、学生時代からの嫌な思い出があったからだ。

 一度、大学二年生の時に参加した合コンで、あの時も四対四だったのだが、相手の一人が、小学生の時の同級生だった。

 相手は、その頃と違って、警戒心が強くなっていたのだが、天真爛漫な雰囲気をそのまま額面通りに受け取ってしまい、昔馴染みという気持ちから、小学生の頃を思い出し、懐かしいと感じたことで、気が大きくなったのか、少し横柄な態度になっていたようだ。

 彼女は、そんな純也に困っていたようだが、有頂天になっている純也に相手の気持ちが分かるはずもなかった。

 その時、相手がなるべくこちらを傷つけないようにしなければいけないと思っていたのを勘違いし、

「相手もまんざらでもないんだ」

 と思い込んでしまったことで、相手のことが見えなくなり、自分中心の会話になっていた。

 これが見ず知らずの相手であれば、ここまではしなかったはずなのだが、知り合いだと思った時、自分が合コンの中で、一人ではないという思いから、気が大きくなったのだろう。

 そして、相手も、自分という存在がいてくれるおかげで、寂しくなくてもいいと感じてくれるものだと思ったに違いない。

 もちろん、勝手な妄想であるが、妄想だけに、一度膨れ上がってしまうと、容赦がないというのが本心ではないだろうか。

 彼女が、

「孤立していたわけではなく、孤独を楽しんでいたのではないか?」

 というのに気づいたのは、だいぶ後になってからだった。

 彼女がその時困惑していたということは、その日の合コンが終わってから気づいたのだ。

 自分の中で、有頂天な時間が過ぎ去ってしまうと、急激に我に返ってしまい、

「どうして、あの時、彼女は困ったような顔をしていたんだろう?」

 と、本来なら、その時に気づいていなければいけないものを気づかないでいた。

 しかも、その時気づかなかったのであれば、そのまま気づかないであろうはずなのに、なぜにこんなに早くに気づくことになったのか、どうにも不可解な心境であった。

 有頂天になっている頭の中で、

「俺は一体、何をしていたんだ? 穴があったら入りたいくらいだ」

 と感じた。

 しかし、何に対して恥ずかしいのかということは、おぼろげにしか分からなかった。

「相手が同級生で、知り合いだったというのがまずかったのか?」

 と思ったが、知り合いだったからと言って、それだけで有頂天になるというのもおかしい。

 昔から知っている相手が、大人になって自分の前に現れたことで、

「昔気になっていた人が、綺麗になって、僕の前に現れてくれたんだ」

 と思ったのかも知れない。

 そう思ったのだとすれば、

「彼女が自分にも気があるから、綺麗になっていくれたのだ」

 という、とてつもなく歪んだ考えに至ったのかも知れない。

 その日会ったのは、本当に偶然にしかすぎない。自分でも再会したことを偶然だと思っていたくせに、彼女は自分との再会を待ち望んでいて、しかも再会した時のために、綺麗になってくれたなどという都合のいい考えに至るなど、これほど、都合のいい考えもないというものだ。

 傲慢というべきか、それとも妄想癖が頂点に達していると言ってもいいのだろうか。どちらにしても、ここまで自分の妄想が思い込みに繋がるとは、思ってもいないことだろう。

 相手に対する期待が大きすぎると、相手はそのことにすぐに気づくのだろう。

 相手は、過去の自分を知っている人と出会ったことで、気まずいと思っているとすればなおさらのことである。

 知られたくないと思っているだけに、相手に対して、自分の視線は非常に狭くなる。その狭くなったところに、うまい具合に、相手が突っ込んでくれば、相手の都合で何でもが進んでしまうように思えて、不安が増大してしまうに違いない。

 それを思うと、彼女は、純也に対してものすごい警戒心を持ったことだろう。

 せっかく、自分が今まで積み上げてきたものを、一気に粉砕されるように感じたのだとすれば、相手にとって、その場にいることは苦痛でしかない。

 かといって、その場で逃げ出すことはできない。

 もし、逃げ出してしまえば、何かあったと周りから詮索され、きっと純也に聞くだろう。

「彼女とはどういう関係で?」

 と聞かれると、純也のことだから、

「待ってました」

 とばかりに、考えていたことをべらべらしゃべるであろう。

 それは、あることないこと喋られることになる。そういう意味ではその場にいないのは、却って恐ろしい。言い訳をする機会すら奪ってしまったことになるからだ。

 言い訳は後からするほど、どうしようもないものはない。その時であれば、どんなに苦しい言い訳であっても、後から言うよりは、数段マシであろう。それを思うと、純也を残してその場から立ち去ることはできなかった。

 そうなれば、少しでも相手に分かってもらえるように、目くばせをするなどして、うまく自分の都合のいいように持っていくしかない。

 だが、そんなテクニックが彼女にあるわけでもないので、とりあえず、何も言わずに、目立たないようにしているしかない。

 純也が余計ないことを言わないのを願いながらであった。

 その時、純也は余計なことを少なからず口にしたであろう。有頂天になっている相手にはもうどうすることもできない。

 しかし、だからと言って、彼女が考える、

「最悪の事態」

 に陥ることはなかった。

 ホッと胸を撫でおろすことができるくらいの状態に、

「少し寿命が縮んだ」

 という思いを抱きながらも、彼女は、果てしなく長く感じられるであろう時間を何とかやり過ごすことができたのだ。

 きっと、その時には精も魂も尽き果てていただろう。

 本当であれば、一応合コンなので、

「誰かいい人がいれば、私も」

 という欲をかいていたかも知れない。

 しかし、それどころではなく、冷や汗を掻きどおしだった状態で、周りを見ることもできず、さぞやまわりも、二人の空気に入り込むことはできなかったに違いない。

「どうせ、私に声を掛けようと思うような男性がいるはずもない」

 と思っていたようだ。

 そんな彼女のことを後になって、そんな風に感じていた。少し大げさかも知れないが、「もし自分が彼女の立場だったら」

 と考えると、さぞやたまったものではないに違いないと考えるのだった。

 当然、連絡を取るのも怖い。

 それからしばらくは、合コンに誘われても、怖くていけなくなった。もちろん、皆は、

「何で、急に断るようになったんだろう?」

 と思っていたことだろう。

 そのうちに、誰も純也を誘うことはなくなっていって、誘われないことをいいことに、そのうちに、合コンでのあの時のことが、遠い過去に感じられるようになっていった。

 そんな合コンを数年もやっていないと、すっかり忘れているものだと思い、就職してから一年目に、最初は、普通に誘われたのを断っていたが、そのうちに、

「人数合わせなので、気軽でいいよ」

 と言われたことで、行ってみることにした。

 すると、三年ぶりだったにも関わらず、その場の雰囲気を、

「まるで昨日のことだったように思うくらいだ」

 というほど、実に身近に感じられた。

 身近に感じられると、今度は、以前の恥ずかしい思いがまるでなかったことのように、スーッと忘れてしまっていたのだ。

 だからと言って、またしても、有頂天になるようなことはなかった。自分から目立とうという気分にもならない。

 合コンというよりも、普通の食事会というイメージで、食事を楽しむという意味での参加だと思うようになったのだ。

 その分、気は楽になり、最初の自己紹介以外では、

「ただ、黙々と食べていればいいんだ」

 と思うようになっていたのだ。

 一人黙々と食べていると、まわりの会話も聞こえてくる。それを聞いていると、

「俺なら、こう言うんだけどな」

 という思いに駆られることもあったが、それはあくまでも、他人事だから思いつくことだということを分かっていた。

 だから、自分が会話に積極的に参加するということもない。

「これだったら、お見合いのような、一対一の方が気が楽かも知れないな」

 と感じた。

 基本的には、

「後は若い者だけで」

 ということで、二人きりにしてくれるからだ。

 二人きりであれば、変な気を遣わなくてもいい。相手がまわりにいかに気を遣っているかということを気にしなくてもいいからだ。

 何かあっても、自分が嫌われるだけのことであり、相手を絶対的に気に入らない限り、男が断られる分には、見合いでは当たり前のことなので、これほど気が楽なことはないだろう。

 純也が、佐和子と話をした合コンは、入社初年度に、数回あったくらいで、二年目以降は誘われることはなかった。

 別に純也が嫌われたわけではない。二年目になれば、後輩が入ってくるので、新人ではなくなっただけのことである。

 つまりは、一年目に誘われたのは、

「新人枠だった」

 ということである。

 先輩も同じだったようで、そういえば一年目に、

「今のうちに参加しておいた方がいいぞ」

 と言われたのを思い出した。

 二年目以降は、一年目で、

「こいつは都合がいい」

 と思われたやつだけが、二年目以降も誘われることになるというわけであった。

 その都合のよさというのは、一種の、

「咬ませ犬」

 のようなものであり、ある意味人数合わせと変わりはないが、それ以上に、ピエロにさせられることもあるのではないだろうか。

 ピエロというのは、咬ませ犬とどう違うのだろうか? 咬ませ犬というと、相手に咬ませるということで、相手を動かすことが問題になる、しかし、ピエロというのは、相手が云々ではなく、こちらがいかに相手を引きつけるかということが問題だ。

 結果的には同じことであっても、最初の目的が違うのだ。つまりは、ピエロと咬ませ犬というのは、目的を指して、そういうのだった。

「ピエロと咬ませ犬って、相対している言葉には、とてもじゃないけど聞こえないけど、実際にはそういうことなのかも知れないな」

 と、純也は感じた。

 純也は、自分のことをピエロだと思っていたが、よくよく考えると、咬ませ犬であって、ピエロではないような気がした。

 ピエロにもなっていない、ただの咬ませ犬である。

 ピエロというのは、日本語でいえば、道化師である。

 道化というものを演じることができるのが、道化師、道化師は道化師でしっかりとした役割があるのだ。。

 その一番が、

「人を引き付けること」

 であり、

「奇抜な化粧をほどこして、しかも、自分の顔が分からないようにして、相手にこちらの感情を見透かされない」

 という特徴がある。

 よくミステリーや探偵小説などで用いられるキャラクターではないか。

 それは恰好が奇抜でありながら、誰なのか分からない。

 しかも、その表情を読み取ることができないので、何を考えているのか分からない。

 話の中で演じる役割は、

「ただ、恐怖を煽るだけの脇役なのか」

 それとも、

「相手に表情から感情を読み取られることがないことでの、犯人の演出なのか?」

 ということで、道化師が現れただけで、警戒心を煽られるのだ。

 しかも、

「ピエロ」

 というよりも、

「道化師」

 と言った方が恐ろしい。

 ピエロというと、どちらかというと昭和の頃にあった、

「サンドイッチマン」

 というイメージが強い。

 注目を集めることで、宣伝効果を上げるという、宣伝目的のものがピエロだというイメージが凝り固まっている。

 しかも、ピエロのことを、道化師と表現するのは、実に珍しい。どちらかというと、ミステリーなどのような小説に描かれた人を、道化師という方が多いのだ。

 パチンコ屋や、商店街の宣伝であったり、サーカスなどの大道芸の宣伝であったりと、幅広く、昔は使われていた。

 今も、ビラ配りなどはあるが、奇抜な恰好のものはなく、せめて、動物の着ぐるみくらいがせめてであり、道化師はおろか、ピエロなども見なくなった。

「某ハンバーガーチェーンくらいじゃないか?」

 と言われるが、それも、

「最初に見た時は、怖いというイメージしかなかったけどな」

 と言っている人がいたが、まさしくその通りだった。

 ピエロというのは、とにかく、表情がないと言ってもいい。

「奇抜な化粧を施しているので、何を考えているのか分からないから怖いのだ」

 と思ったのだが、表情がないわけではない、

 何が怖いのかというと、

「ずっと同じ表情なのが怖い」

 ということであった。

 ずっと同じ表情だから、何を考えているのか分からない。しかも、ピエロというのは、いつも同じ顔だということで、決まった定番の表情があるではないか。

 だからこそ、怖いのだ。

 しかも、口裂け女のように、口が裂けていて、恐ろしさを醸し出しているかのようであった。

 それを、今度は、

「道化師」

 と呼ぶと、却って怖くない。

 チンドン屋や、サンドイッチマンであれば、ピエロであり、単独であれば道化師、そう呼ばれることで、恐怖が煽られる気がするのだ。

 咬ませ犬ともなれば、別に怖いことなど何もない。

 相手に咬ませることで、効果が生まれる。咬まないと何も起こらないのだ。

「だったら、相手を煽って、怒らせるか?」

 というのであれば、それこそ、ピエロの恰好をしている方が、よほど、相手は刺激を受けるのではないか。

 しかし、そうなると、相手が怯えてしまって何もできなくなってしまう。それが本末転倒な結果をもたらしそうで、考えさせられるのであった。

「咬ませ犬とピエロ」

 この相対的に見えることは、どのように自分の性格に結びついてくるのだろうかと、純也は考えるのだった。

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