第3話 歴史的背景における秩序

 自分だけが思い込んでいるという発想は、実に曖昧な感情を想像させる。

 人を好きになる時などによく言われることではないか。純也は、今までに何度女の人を好きになったことだろう。しかし、その都度フラれるのであるが、なぜフラれたのかが分からない。

 しかも、フラれたことを必死になって、気のせいだと思おうとする自分が、いじらしいと思えばいいのか、それとも、女々しいと思えばいいのか、それすら分かっていないのだ。それだけ、人を好きになるという感情が曖昧な気がして、それこそ、

「夢のようである」

 と感じることであった。

 人を好きになるという感情は、どこか浮かれた自分を見ているようで、

「これが本当の自分なのだろうか?」

 と思わずにはいられない。

 人を好きになるということがどういうことなのかということを想像すると、自分が、人に好かれているという状況を、まるで他人事のように見てしまうのだ。

 思春期が、他の人よりも遅く、さらに自分が思春期というものにいつ突入したのかということも分かっていなかったくせに、

「何を感じた時、自分が思春期に突入したのか」

 ということを、後になって分かったのだ。

 それも、結構ハッキリと分かった気がした。

 それは、人を好きになるということがどういうことなのかということを客観的に感じた時のことだったのだ。

 本当は人を好きになるということを客観的に感じるのではなく、自分の感情として感じるのが当たり前のことではないかと思うはずなのに、そうではなかったことが、思春期だと思わなかった理由なのかも知れない。

 つまり純也は、

「自分が人を好きになったから、人を好きになるという感情が芽生えたのではなく、女の子と一緒にいる同級生を見て、羨ましいと思ったことから、自分が女の子に好かれたいと思っているということであると、漠然と感じたのだろう」

 だから、いつからが思春期だったのかということが曖昧なのは、それだけ他人事のように見ていたからだった。

 人を好きになるという感情が、人に対する嫉妬心が元になっているなどとは、まさか思ってもいなかったからである。

 しかも、子供心に、

「嫉妬するというのは、浅ましいことだ」

 という感覚があったような気がする。

 人を恨めしく感じるというのは、浅ましいと思ったのは、親からの教育だけではなく、生まれ持ってのことではないかとも思っている。

 つまりは、遺伝子のなせる業であって、一種の本能に近いものだと思うのだった。

 だから、誰もが人を好きになる素質があり、その感情を持っていない人間はいないと言えるだろう。

「人を一度も好きになったことなんかない」

 という人もいるかも知れないが、それは勘違いであって、そんな人は一人もいるはずもなく、失恋した時に自分がどれほど落ち込むのか分からないことから、言い訳を最初から考えてしまっていると言えるのだろう。

 だから、友達が女の子を連れて楽しそうにしている姿を、自分に置き換えてみて、その時に、まわりに対して、

「どうだ。羨ましいだろう?」

 という感情を抱くことが、人を好きになるという感情の自分なりの表現ではないかと思うのだった。

 それだけに、自分が変わり者であって、人とは違う感情を持っているのだということを考えさせられるのではないかと思うのだった。

 だが、嫉妬心というのは、負の要素が深いのかも知れないが、感情としては、結構深いところにあるものだ。それを思うと、嫉妬心の現れが、思春期への入り口だったのではないかと考えるのも、無理もないことのように思えたのだった。

 純也は、嫉妬心を決して悪いことのようには思えない。確かに負の部分も大いにあるが、全体を考えると、決して負ではないと思うのだった。

 しかし、世間では嫉妬心を持つとろくなことがないような言い方をしている。特に小説やドラマなどで嫉妬心を持つと、それが引き金になって、犯罪が起こったり、事件が起こったりすることが多い

 だからこそ、小説やドラマのネタになったりするのだろう。

 それは、人間の欲というものに引っかかってくるからなのかも知れない。

 人間の欲というと、食欲、性欲、睡眠などと言った、生理的なものによる欲や、征服欲、支配欲、物欲などと言った、物理的なものや、満たされたいと言ったものとがあったりする。

 ただ、大きく分けたこの二つも、あるいは、細かく分けたそれぞれにも、欲求というものは、密接に結びついてくるので、嫉妬も同じように結びついてきたりする。

 たとえば、満たされたい欲求としての、征服欲、市街欲の原点とすれば、

「自分が支配者になって、人を支配したい」

 あるいは、

「自分がすべての欲求を満たすことで、何でも自分のいうことをまわりの人に聞かせたい」

 という思いがある。

 しかし、すべてを自分側だけの欲求だけでは叶わないのが世の中だ。支配者になるにしても、征服者になるにしても、相手に自分のいうことを聞かせたり、思ったような世界を作るためには、力だけではどうにもならない。

 お金であったり、民衆を養っていくだけの甲斐性のようなものがなければ、民衆はついてこない。そのためには、お金を手に入れなければいけない。だから、お金への欲が出てきて、そのために出世をしなければいけない。つまりは偉くならなければいけない。偉くなるためには、勉強して成績がよくならなければいけない。そうやって、下地を作ることから考えなければいけなくなる。

 だが、生理的な欲求は、もう少し現実的だ。

 お腹が減ったから食事をするにも、時間とお金が必要だ。そのためには、お金を儲けなければいけない。仕事をしたりして、その対価を受け取る必要がある。性欲にしてもそうだ。相手が好きだからといって、それだけではダメだ。相手に好かれなければいけない。

 つまりは、欲求を満たすためには、必ず何かの達成が必要だということである。

「達成と、欲求」

 これは相対したものではあるが、どちらかで見ても結びついてくる、

「双方向」

 のものだと言えるのではないだろうか。

 ただ、そこに嫉妬心というものが曲者であり、

「達成と欲求」

 の間に入り込んでくると、邪念が入ってくる。

 何か自分の目標を達成させることによって、初めて欲求を満たすことのできる権利を得るのである。それが一定額のお金を儲けることであったり、対価に見合う仕事であったりする。

 それらを達成することで、欲求を満たすだけの金銭や、力を得ることができるのだが、何かを達成させるためには、自分の普段表に出ている意識や力だけではなかなか敵わないことが多い。

 そういう意味で、欲求というものが力になることが往々にしてあるというものだ。

「おいしいものが食べたいから、そのために、お金を儲ける」

 あるいは、

「出世して、会社で自分の支配欲を満たさせるために、昇進試験に合格するための勉強を頑張る」

 などと言った、ことにより、目には見えない潜在した力が生まれてくるのである。

 だが、欲求を満たすということは、達成のための力になるということを忘れてしまうと、ついつい欲求が一人歩きしてしまい、欲求がまるで、人を羨む感情に結びつき、それが嫉妬になってしまうのではないかと思わせるのであった。

 嫉妬と、欲求というのは、微妙に似てはいるが、同じものではない。

 しかし、それぞれに、いい面も持っていれば悪い面もある。悪い面の方がどうしても目立ってしまうので、あまりよくは言われないが、それは、前述のように、悪い方の感情が、犯罪や事件に結びついてきてしまうという感情が生まれるからである。

 それを思うと、

「人間の感情は、同じ人間であっても、勘違いさせることが大いにあり、それが犯罪や事件に結びつくことになるのではないか」

 と感じられた。

 それだけ一人一人の考えは複雑であって、脆弱なところがある。高等動物と言われる人間であるが、何が一体高等なのか? 一体高等というのは、何を指して高等というのか? 思わす考えさせられるものである。

 達成や欲求、そして嫉妬などという人間の感情であったり感覚というものは、微妙に密接に結びついていて、相対していると言ってもいいだろう。

 しかし、それらのことを結び付けることで、抑制しなければいけないものもある。それらをしっかりコントロールできなければ、そこにルールというものは生まれず、人間が生活していく上で必要な、

「秩序」

 というものが発生しなくなる。

 秩序がなければ、皆が勝手に思い思いのことを始めてしまい、統制が取れなくなってしまう。

 そうなってしまうと、

「力の強い者」

 が勝手に頂点となり、本来、それぞれ相対するものがキチンと結びついていなければ、皆が生きていくために必要なものを得ることができなくなってしまう。

 人間が生きていくために必要なものは、食料であったり、住むところ、衣服などといった、いわゆる、

「衣食住」

 などを中心に、皆が働くことで手に入れるものである。

 昔であれば、奴隷などという制度があり、支配階級が、好き勝手にふるまうことができたが、奴隷であっても、最低限の衣食住がなければ、何もできない。

 中世になると、

「封建制度」

 というものが成立し、この封建制度の成り立ちというのが、主従関係にある立場のものが、それぞれに役目を持つことで成立する。相対的な需給によるものが、存在し、それがそのまま主従関係として結びつくことになる。

 主人は、従者に向かって、生きていく上で必要な食料を作るための土地を与える。従者は主人に向かって、主人が困った時、たとえば、隣国との争いになった時、兵役として、主人に尽くす、あるいは、年貢として、与えられた土地から生産された穀物の一定量を、差し出すという関係である。

 いわゆる、領主による。

「領有統治権」

 と、臣従による、

「貢納と軍事奉仕」

 という形で、双方に義務付けられる形である。

 これは一種の契約のようなもので、その担保となるのが、土地と考えればいいであろう。基本的にこれらの封建制度は、世襲によって受け継がれ、封建制では、

「職業選択の自由はない」

 と言ってもいいだろう。

 そういう意味で、封建制度の一番の欠点は、

「自由がない」

 ということであり、それは、

「絶対的な中央集権ではない」

 ということを示している。

 幕末から明治維新にかけて、封建制度が崩壊し、急速な中央集権が確立されていったが、それは、それまで確率されてきた、

「鎖国制度」

 が諸外国に脅かされ、隣国である清国のような、

「植民地にされないようにするにはどうすればいいか?」

 ということが問題になったのだ。

 そのため、

「日本国の中で、内乱が続いていたりすれば、諸外国から簡単に植民地にされてしまう」

 という懸念から考えられたのが、日本特有で、万世一系の皇祖のある、

「天皇制による、強力な中央集権国家の設立」

 ということであった。

 だから、日本における明治維新のスローガンは、

「殖産興業と富国強兵」

 であった。

 産業を奨励し、国を豊かにすること、そして、国防を整えることで、侵略を防ぐという考え方である。

「力の強いものが社会に君臨し、その力を背景に国家運営をしていく」

 という考えが一つの秩序として生まれてきた。

 それは、それぞれに立ち振る舞っていては、秩序が守れないということと、個々の都合を考えていれば、外敵から身を守ることができないということであり、そもそもの明治維新の目的である、

「自由を求めることと、外敵からの侵略を防ぐ」

 という意味で、秩序を守るための強い力が必要なのだ。

 そのためには、外敵とみなしている相手を勉強しなければいけない。

 敵を、ただ仇敵だという意識で見るのではなく、

「見習うべきところは、しっかりと見習う」

 ということが必要になってくるのだ。

 そういう意味で、外国がどのような統治をおこなっているかということが研究され、民主主義というものが考えられるようになった。

「議会政治」

 であったり、

「立憲君主」

 のような、法治国家を作る必要があった。

 そのためには、憲法を制定し、国会や議会を作るために尽力を惜しまないことが大切だったのだ。

「外に学ぶこと」

 という考えが柔軟であったからこそ、その後、日本は世界有数の先進国に上りつめ、軍事国家としても、強力な軍隊を持つことができた。

 歴史の歯車がうまく絡み合わなかったこともあって、いずれ日本は軍国主義化していき、第二次世界大戦においては、大東亜戦争に突入せざるおえないという、悲劇的な歴史に突入しなければならなかったのは、残念なことであった。

 しかし、戦後、敗戦したことにおいて、戦勝国である連合国によって占領された時の教育により、今の日本人が教えられたことが、本当にすべて正しいのかというと、理不尽な教育があったのも事実であった。

 そもそも、日本と、米英蘭、そして中国との戦争を、

「太平洋戦争」

 というが、これもおかしなことである。

 元々、米英蘭に宣戦布告した理由として、詔に掛かれていることは、

「欧米の侵略から、東アジアを守り、そのために、大東亜共栄圏を作ることで、東アジアの植民地を開放する」

 というのが、戦争のスルーガンであり、

「今回の戦争は、さきの中国とのシナ事変を含めて、大東亜戦争と命名する」

 と、閣議決定されたのだから、本当は、

「太平洋戦争」

 ではなく、

「大東亜戦争」

 というのが正しいのである。

 だが、それを認めてしまうと、戦勝国である連合国が、

「アジアを侵略した」

 ということになり、容認できるものではない。

 したがって、戦争の名称は、

「大東亜戦争」

 が正しいのであって、それは日本が占領軍から解放され、独立が成った瞬間から、名称を大東亜戦争と呼称すればよかったのだが、そのまま太平洋戦争という名称で呼ばれるというのは、本当に正しいことなのだろうか?

 そこに政治的な思惑が含まれているとすれば、大東亜戦争という言葉が、もう少し世間に浸透していてもいいはずなのに、されていないということに結びついているのかも知れない。

 この時の戦争は、時代背景も難しいところがあった。

 第一次世界大戦が終了して、二十年くらいしか経っていないにも関わらず、その間に世界ではいろいろなことがあった。

 列強による植民地支配の拡充。共産主義の台頭。さらに、帝国と呼ばれる国家の崩壊。世界恐慌に端を発した、経済の深刻な不安。それにより、

「持たざる国」

 による国家改革と称する、ファシズムの台頭など、第二次世界大戦が起こる土台が、着々と出来上がっていった時代だったのだ。

 そんな時代に日本としても、中国大陸との間でいろいろと問題を抱えていた。

 その中の一つが、

「満蒙問題」

 であった。

 満蒙問題というのは、日露戦争後に手に入れた、満州鉄道沿線における満鉄経営問題とその近辺の居留民の保護問題。さらにロシアがソ連となったことでの共産主義の台頭への脅威の問題などがあったことである。

 さらに、日本国内の問題として、一番大きかったのは、

「食料問題」

 だった。

 大正末期に起こった首都直下型の関東大震災復興がまだの時代、さらに追い打ちをかけるように、世界恐慌に巻き込まれての、経済不況、そこに持ってきての、東北地方の不作問題、さらに日本国民の人口が増えたことでの、食糧問題があり、日本国内だけでは、日本人を賄っていけなくなった。

 当時の農民は、娘を売らなければ、その日の食料も賄えないほどの食糧難だったと言われるほどであった。

 そこに持っていき、満蒙問題を考えると、満州支配が、日本の食糧問題とを一気に解決することができるものだと考えるようになった。

 当時の中華民国は、内乱に明け暮れていて、蒋介石を中心とする国民党軍と、張作霖を中心とする満州を拠点にして北伐軍が争っていたが、日本政府も、関東軍も張作霖を援助していた。

 しかし、密かに関東軍に逆らうようになった張作霖に見切りをつけた関東軍は、満州鉄道を爆破することで、張作霖の爆殺を図ったのだ。その後、満州では反日がさらに加速し、各地で、暗殺、略奪などと言った事件が、関東軍や、居留民に対して行われるようになり、さらに、満州鉄道の平行線に中国の線路が建設されるようになると、衝突は免れないものとなった。

 そこで、関東軍が画策し、満州鉄道の爆破を口実に、日本本土の数倍の面積を誇る満州全土を半年で制圧するという電光石火の作戦である満州事変が勃発したのであった。

 ここでは、日本政府は、外交的にも、政府方針として、不拡大を表明したが、満州全土を支配しないと問題の根本的な解決にはならないと分かっている関東軍がしたがうはずもない、結局陸軍に押されて、政府も、事後承認の形で拡大を承認し、関東軍は、特務機関という諜報部隊を使い、天津から、清国最後の皇帝であった溥儀を脱出させ、満州に送り込んだ。

 そして、彼に執政をやらせることで満州国を建国し、その翌年には、溥儀を満州帝国皇帝に担ぎ上げたのだ。

 しかし、この国家は、独立国家としての体裁を取っているが、あくまでも、関東軍の傀儡国家でしかない。最終的には関東軍の承認がなければ、皇帝であっても逆らうことができないというのが、満州国の実態であった。

 閣議で、国務総理がまったく発言することがないというのが、そのことを物語っていた。関東軍に逆らっては、いつ何時、暗殺されないとも限らない。

 満州国皇后が、男の子を生んだので、密かに殺されたのだが、それが皇帝の子ではないというのが理由であった。

 満州国は中国本土と変わりがないほど、アヘン中毒に侵されており、皇后もアヘン中毒だったという。関東軍はアヘン貿易で財政を賄っていたこともあって、そこに傀儡国家の運命があったと言っても過言ではない。

 日本政府、陸軍内部では、その後の作戦について、割れていた。

「中国本土を制圧する必要がある」

 という一派と、

「満州国の安定をまずは図ることで、ソ連の南下に備える」

 という一派とがあって、対立していた。

 さらに、陸軍内部での、統制派、皇道派と呼ばれる二つの派が、陸軍の主導権を争って暗殺やクーデターなどが頻繁に起こっていた。さらに、関東軍の日本政府を無視した暴走に歯止めがかからないなどの問題と、さらに、世界では軍縮問題が沸き起こり、それらの問題のため、日本は国際連盟の脱退を余儀なくされ、世界的に孤立してしまった。

 そこで考えられたのが、欧州での破竹の勢いを示していた、ドイツと結ぶということでの、ドイツ、イタリアというファシズム主義の国と結んだ、

「日独伊三国同盟」

 だった。

 これが、結果的に連合国を決定的に敵に回す結果となり、日本は、シナ事変を経て、大東亜戦争に突き進むことになるのだった。

 シナ事変というのも、現在では、

「日中戦争」

 という表現が用いられている。

 しかし、歴史的にこの表現は正しくない。

 元々、盧溝橋事件に端を発した中国との闘いには、いくつかの呼称があった。

「シナ事変」

「北支事変」

「日華事変」

 と呼ばれるものである。

 ただ、そのどれにも戦争という呼称はつけられていない。そこには大きな理由が存在していた。

「事変と戦争では、その質が違う」

 というのがその理由で、

「事変というのは、お互いに宣戦布告を行わず、お互いが戦闘あるいは、紛争状態に突入したことであり、戦争というと、形式にのっとって、宣戦布告を行ったうえでの戦争となったものをいう」

 という定義があった。

 つまり、このシナ事変においては、お互いに宣戦布告を行わずに勃発した紛争だということなのだ。

 確かに盧溝橋事件では、中国軍と日本軍における突発的な衝突が招いたものであったが、実はこの事件に関しては、当時の両陣営において、和解協定が結ばれていて、紛争は一度終わっているのだ。だから、シナ事変の本来の始まりは、盧溝橋事件ではないという説もあるくらいだ。

 お互いに休戦協定を結んでいるのに、挑発してきたのは中国軍だった。朗坊事件、公安門事件などという挑発に、とどめとなったのが、通州においての中国軍の日本人虐殺事件であった。それが日本人の感情を逆撫でし、

「中国憎し」

 になったのだ。

 さて、この事変がなぜ戦争にならなかったのかというのが、一つの問題であったが、それには訳がある。

 中国側も日本側も決して相手に宣戦布告をしようとはしなかった。

 そもそも、宣戦布告というのがどういうものであるかということを考えれば分かることなのであるが、宣戦布告をするということは、

「全世界に、この両国は戦争状態に入ったということを公表することであり、そうなると、第三国は、この二国に対して立場を明らかにしなければならない」

 ということである。

 つまり、どちらかの国に加勢をするか、あるいは、段三国として、中立を宣言するかということをである、両国ともに、支援をすることは許されない。もし行うとすれば、和平交渉を考えていなければできないことであった。

 日本国としても、中国としても、アメリカや列強に中立に立たれてしまえば、物資が入ってこなくなる。それを恐れたのだ。

 特に中国は、列強から物資を

「援蒋ルート」

 というものを確保して、アメリカ、イギリスが物資を支援していた。

 日本としても、元々物資の少ない国なので、列強からの輸入が途絶えることは死活問題であった。

 つまり、両国とも列強からの援助や輸入が滞れば、たちどころに戦争どころではなくなってしまう。それを恐れて、宣戦布告をしなかったので、昭和十二年から、十六年までを、

「シナ事変」

 と呼び、日本が米英蘭に宣戦を布告して、戦争状態に突入したことで、列強とは晴れて日本を敵とする連合国の仲間入りができたことで、宣戦布告をしても、同盟国からの物資の支援が滞ることはなかったのだ。

 晴れて、宣戦布告をした中国だけではなく、他の欧米列強に対して戦争を挑むなどというまるで自殺行為に挑まなければならなかった日本は、ある意味、泥沼だったと言ってもいいだろう。

 この宣戦布告から後、中国側が宣戦布告したことで、日本も同じように宣戦布告、それによって、両国は戦争状態に入ったと国際法でも認定されることになり、やっと、

「日中戦争」

 と呼称を付けられるようになった。

 そのため、この紛争は、前半を、

「シナ事変」

 そして、後半を大東亜戦争の中にある、

「日中戦争」

 という、事変と戦争が共存する形になったのだ。

 それを今ではこの二つを合わせて、日中戦争と呼ばれているが、実際にはその呼称は間違いだということである。

 開戦からの序盤でせっかく、起死回生の勢いを持つことができたのだが、そこで和平に持ち込むことができなかった。いや、戦勝ムードに駆られて、和平を結ぶ機会を逸してしまったのが、日本にとっての命取り、シナ事変における、トラウトマン和平工作失敗と並んで、日本は外交面で、破滅から逃れることができた場面を二度も逸したのであった。

 それが、大日本帝国の悲劇だったと言ってもいいだろう。

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