第2話 夢という都合のいいもん

 そんな自分に運がないと思っている男は、名前を桜井純也という。純也は今年三十歳になるのだが、この年になって、初めて自分に運がないと思うようになっていた。

 最初は、どこに運がないのか分からなかったが、

「我慢してしまうところが、運の悪さを引き込んでしまうのではないか?」

 と最近になって感じるようになっていた。

 つまり、運が悪いというのは、自分の選択がすべて間違っているということに気づいたからであって、もし、気づかなければ、気にしてはいなかったかも知れない。

 それほど、運というものを気にしたことがなかったのであって、考えがまとまりさえすれば、別にそんなに悪いことはないのだろうと思っていたのだった。

 そう、

「運がない」

 というのであれば、それは自分の選択に関係なく、何をやったとしても、うまくいかないということであり、そうなってしまうと、まったく打つ手はない。それこそ、前述の三つのパターンとしては、

「何も考えない」

 というやり方が一番ではないだろうか。

「自分の道をただ突き進む」

 というのもやり方の一つなのだろうが、それでうまくいかなければ、考え方を、

「運が悪い」

 と一段階上げてしまい。そうなると選択肢は、前述の三つになってしまう。

 一見、一段階上げるということは、選択肢が増えるということで、迷いが生じると、苦痛しか生まれないと考える人間には、これほど苦しいことはないと言えるだろう。

 だが、純也にとって、ここで問題になってくるのは、彼の性格として、

「我慢することができない性格」

 だということだった。

「我慢するということは、後ろ向きでしかない」

 と思っていて、自分の意思の通りに動く方が、後悔をすることなどないと思っていた。

 もちろん、前向きな考えであり、

「若さゆえ」

 ということなのであろうが、それだけに猪突猛進な考えが功を奏することもあれば、災いすることもある。

 本人は、

「自分には、我慢することができない」

 という自覚はなかった。

 むしろ、彼には、我慢という選択肢は、そもそもなかったのである。我慢をするということは、身体を直接蝕むことになるという思いが学生の頃からあった。

「我慢などして、身体をっ壊してしまったら、それこそ本末転倒だ」

 と思っていたのだ。

 我慢するということは、自分の意思に逆らっているのと同じことになり、もし、運がないのであれば、選択肢の中にはないはずである。

 それを敢えてするということは、矛盾したことであるにも関わらず、矛盾していると思っていない。

 その時点で、自分に、

「運がない」

 と思っているわけではなく、

「運が悪い」

 と、自覚しているのかも知れない。

 自分が何を考えているのかを、無意識に自覚できるというのは、自分の長所だと思っている純也は、その背中合わせに短所が潜んでいるということを分かっているのだろうか。

「長所と短所は紙一重」

 であり、

「長所は短所の裏側に潜んでいる」

 という言葉を総合すると、長所と短所の間には結界が存在し、すぐそばにあっても、遠くにあるようにしか感じられなかった。

 それは自分が、長所は長所、短所は短所として、それぞれしか見ようとしなかったからであって、両方を同時に感じることなどできないと感じていたからであろう。

 それを思うと、我慢というものを意識していなかったのは、運の悪さを意識はしていたが、それをどうすれば克服できるのかということを考えていなかった証拠ではないだろうか。

 我慢をするということは、純也にとっては、ネガティブなことだという意識は、彼にとってあった。それは無意識にというわけではなく、意識の中に存在はしたが、行動を選択するうえで、何か影響を及ぼしたということはなかったようだ。

 中学時代に、初めて自分が思春期に入ったということを感じた時、

「我慢しなければいけない」

 という思いを感じたのは、覚えている。

「我慢ができないと、恥ずかしい思いをするのは、自分なんだ」

 ということを分かっていたからに他ならない。

 子供から大人になるというのは、精神的なことはもちろんのこと、肉体的に大きなことであった。

 肉体的な成長が、精神に及ぶのか、精神的な成長が、肉体に影響を及ぼすのか、ハッキリとは分からないが、心身ともに、切り離して考えてはいけないということではないかと思うのだった。

 だが、思春期というのは、まず身体が反応を起こす。そして、自分が何かを欲していることが、恥じらいとなって及ぼす精神的な思いを抑えることで、欲求不満をコントロールしているのだろう。

 欲していることは、性欲であるということは分かっている。身体がムズムズするのはそのせいだ。

 だが、それを表に出すというのは、恥ずかしいことである。誰かを好きになるという感情を表に出すことは決して恥ずかしくないと、思春期以外では、そう思えるのに、思春期であれば、その思いを表に出すのは、恥ずかしいことだと思うのだ。

 それはきっと、自分だけではなく、まわりの皆も同じだという感覚があるからで、

「皆と同じでは嫌なんだ」

 と、思うのは、思春期ならではのことなのであろう。

 思春期というと、

「背伸びしたい気持ちになる年頃」

 と言ってもいいだろう。

 他の人よりも目立ちたいと思うのも無理のないことで、それだけに、

「他人と同じことをしていては、決して目立つことはできない」

 と思うのであった。

 なぜなら、他人と同じことをしていると分かっているということは、少なくとも最初に始めたのは自分ではなく、誰かが始めたので、

「他人と同じことだ」

 と分かるのであって、最初に始めたのでなければ、何人目であっても、それは、

「二番煎じ」

 でしかないのだ。

 つまりは、レジェンドでない限り、二人目であっても、十人目であっても、大差はないということになるのだ。

 よほど改革的なことであっても、先駆者がいるのであれば、先駆者には絶対に勝てないのであって、その改革的なことが、同じことであっても、別のことだと思わせるくらいであれば、レジェンドにかなうかも知れない。

 それは、あくまでも、別のことであり、始めた自分がレジェンドなのだからである。

 レジェンドというのは、誰にもマネのできないことだと思えるので、二番煎じはマネにも劣ると言ってもいいだろう。

 その二番煎じを意識もなくできるというのは、恥じらいを恥じらいとも感じない人であって、思春期における本当の恥じらいというのは、

「二番煎じをモノマネではなく、それにも劣る、サルマネにしか過ぎない」

 ということを理解していないからではないだろうか。

 モノマネというのは、その人の特徴を研究し、一つの芸として完成させたものなのだろうが、サルマネというのは、ただ見ていて、その通りにするだけの、本能でしかないだろう。

 しかし、本能というものは、人間ほど劣っている動物はおらず、本能というものに関しては、人間には、どんな動物にも及ばないということなのであろう。

 つまり、サルマネはサル以下であり、サル以下になり下がったことを意識せずに行動することが、恥であると言えるだろう。

 意識がないだけに、もし、このメカニズムを知ると、どれほどの思いを抱くだろう?

 思春期において、自覚のない自己嫌悪にたびたび見舞われることがある。その中に、この思いを感じている時があっても、それがどういうものなのかを分からないという、漠然とした感情が渦巻いているのではないだろうか。

 本能というのは、人間には必ず備わっているものであって、備わっていない人間なんていないだろう。

 いや、それは人間だけではなく、動物すべてに備わっていると言ってもいいだろう。

 ただ、その中で人間だけが、思考能力というものを持っていて、考えるということができる。

 その分、他の動物には、その能力の中でも、本質として備わっていなければいけないものが、

「本能」

 というものだ。

 本能というのは、

「生きていくうえで、必要不可欠なものであり、考えることのできない動物であっても、本能があることで生き延びられることができる」

 というものである。

 例えば、何を食べれば生きていけるのかということを知っておかなければならない。逆にいえば、何を食べると危ないかということも、意識として知る必要がある。その意識が本能である。

 意識というものに思考能力が備われば、それが考えるということで、人間にしかできないこと。しかし、思考能力おないものは、本能として、動物すべてに備わっているものだと言えるだろう。

 そして、その動物の中には、人間も含まれる。だから、人間は生きていくための本能と同時に、考えるという思考能力も備えているということで、他の動物にはないものを持っている、高等動物ということになるのだろう。

「人間というものは、持っている能力の一割も使っていない」

 と言われている。

 それは脳の使用部分という意味であるが、それだけ、潜在している能力を使い切れていないということだ。

 そして、その使い切れていない部分の能力を、

「超能力」

 と呼び、それを使える人間を超能力者と呼んで、特殊な人間として扱っているのだ。

 しかし、前述の、

「一割しか使っていない」

 ということを、それだけだと考えるのであれば、超能力者というのは、別に珍しいものでもないでもないと言える。

 そして、その能力を他の動物の理論で考えると、

「人間でいう超能力というのは、他の動物でいうところの本能だと言えるのではないだろうか?」

 つまりは、

「人間には思考能力があるので、考えたことが一番だと思い込んでいるので、本能であったり、潜在しているだけの能力を、特殊なものだとして見てしまうのではないか」

 と考えると、本能をどこか軽視してしまい、高等動物である人間にしか備わっていない思考能力を最大限の力だと思うことで、本能を特殊だと思いながらも、思考能力にはかなわないと思っているのだろう。

 だから、本能であったり、超能力には憧れはあるが、持っていたいとまでは思わないに違いないと考える。

 そういう意味で、超能力や本能は、潜在している能力だと考え、

「潜在意識がなせる業」

 とも言われる夢という存在を、不思議で、アンタッチャブルなものだと考えているのかも知れない。

 そもそも、人間は超常現象のようなものを、総称して、

「夢の世界」

 と、混同して考えるふしがある。

 偉大な力だとは認めながら、思考能力にはかなわないという矛盾した考えが、本能をさらに未知のものだとして解釈させるのであろう。

 そう思うと、夢の世界に思いを馳せるのは、不思議なことではないような気がした。

 子供の頃から、

「夢というのは、神秘な感覚があるが、都合のいい見方しかできないものだ」

 と考えていた。

 純也が夢について気になるようになったのはいつのことだったのかはハッキリと分からない。なぜなら、夢が絶えず、その時代のことだけしか見ないものだとは言えないからであった。

 夢は、かなりの広い範囲見ることができる。それは空間であっても時間であっても同じことであり、夢というものが、

「その人に都合よく見ることができるからである」

 つまり、本人の意識の中であれば、いくらでも、フィクションを作り出すことができる。それは虚空であっても、真実に限りなく近いものである、なぜなら、それが、

「潜在意識のなせる業」

 なのだからである。

 潜在意識というのは、自分で意識していると感じる、顕在意識というものと対照的であり、一般的な意識と呼ばれるものは、この顕在意識なのである。

 顕在意識を一般的な呼び方である意識と呼ぶとすると、意識は考えることのできるものであり、ほとんどの場合、無意識に考えているのだ。

 しかも、現実世界で考えていることであるから、常識以外は、発想できたとしても、それは妄想でしかない。人間の思考能力は現実に起こることしか、想像できないのだ。

 だから、妄想はできないことであり、意識と比較して、想像という総称で呼ばれることであろう。想像の中には、顕在意識が見せるものと、潜在意識が見せる妄想もある。そして、その潜在意識が見せる妄想を、眠っていて見るのが、夢なのである、

 そういう意味で、夢というものが、

「潜在意識のなせる業」

 と呼ばれるのであろう。

 さらに、夢というのは、

「どんなに長い夢であっても、見ている時間というのは、目が覚める寸前の数秒間でしか見ていない」

 と言われている。

 実際に、夢を見ている時間は、眠りに就いてから起きるまでの、いわゆる睡眠時間よりも長いわけはない。その数時間の間のどれくらいの時間見ているかというのは、見ている本人には分からない。

 まして、まわりの人間に分かるはずもなく、目が覚める寸前に見ているものだと言われているのも、科学実験によるものであろう。

 ただ、人間の思考には、電気が関係しているということが分かっているので、眠っている人間の脳の電磁波を調べることで、どのあたりで夢を見ているのかということは、ある提訴分かるのではないだろうか。

 夢はとにかく、かなりいい加減に都合よく見ていると考えてもよさそうなので、研究でそのように分かったと言われれば、その通りに信じてしまうのも当然のことであろう。

 そして、夢を見るのが、目が覚める寸前であるということを、純也は信じ切っている。目が覚めるまでには、現実に引き戻されてから、少し時間がかかっている。その間に自分が夢の世界から引き戻されていると考えると、納得できる部分があるのだ。

 目が覚めた時になんとなくであるが覚えている夢というのが、一番記憶が鮮明な夢である。

 つまり、完全な記憶など、ハッキリと目が覚めてからの夢には存在しないのだ。それだけ現実離れした都合のいい夢だったということなのだろうが、夢は、基本的に覚えているものの方が少ない。

「夢を見たけど、漠然とした記憶が残っている」

 というものと、

「夢を見ていたという記憶はあるが、目が覚めるにしたがって、どんどん忘れていき、起きてしまうと、まったく覚えていない」

 というもの、さらには、

「夢を見たという自覚がない」

 という三つのパターンに別れるのではないだろうか。

 後になるほど、確率的には多いもので、最初の、

「漠然とした記憶」

 であっても、夢の記憶が残っているなどというのは、実にまれであった。

 実際に、夢を見たのかどうか、ハッキリと自覚がない」

 という方が一番多く、八割くらいは、そんな感覚ではないだろうか。

 つまり、夢というのは見ていない時の方が、かなり多いものだと考えていいのではないかと思うのだった。

 それだけに、夢というのは、目が覚めて自覚がないだけで、本当は見ていたのかも知れないという思いも、まんざら嘘ではないような気もする。それだけ、睡眠中の意識と、現実世界での意識には隔たりがあり、さらにそこには結界のようなものが、張り巡らされているのではないかと思うのだった。

 さらに、

「夢というものは、怖い夢の方が覚えていることが多い」

 ということが分かったのだ。

 確かに目が覚めても覚えている夢というのは、明らかに怖い夢が多い。その中でも一番怖いと思っているのは、

「夢の中に、もう一人の自分が出てくる」

 というものであった。

 しかも、そのもう一人というのは、夢を見ている自分ではなく、夢の中の出演者の中に、二人の自分がいることだった。

 最初は一人しかいない。もちろん、主人公である自分だ。そして夢を見ているうちに、そのクライマックスになった時、

「もう一人の自分:

 が出現する。

 ビックリして目が覚めるのだが、考えてみれば、その瞬間がクライマックスだというのは、その瞬間に目が覚めるからだった。

 そこから先は本当に見ていないのか覚えていないのか分からない。それが、

「夢というものは実に都合のいいもの」

 という解釈になるからだった。

「いつも同じところで目が覚めるのかも知れない」

 という感覚になるのは、夢が都合のいいものだからだ。

 しかし、その都合がいいという言葉の都合というのは、何について都合がいいというのだろう?

 夢を見ている自分には、まったく都合のいいことではない。ということになると、夢は見ている自分が操っているものではないということなのだろうか?

 他に誰かが操っているのだとすると、一番しっくりくる夢というのは、自分だけが見ているものではなく、他の誰かと一緒に見ているものであり、

「夢の共有」

 という、バカげた発想が生まれてくるのではないだろうか。

 夢を誰かと共有しているのかも知れないということは、今までにも考えたことがあった。

 小学生の頃、友達と夢の話をしたのだが、それは、その友達が自分の夢に出てきたからだった。

 夢を覚えているのだから、自分の中で、

「怖い夢だ」

 という認識があったからで、その話をした時、友達もビックリしたように、

「そうなんだ。俺も似たような夢を見た感じなんだ」

 と言っていた。

 ひょっとすると、友達は自分よりも、夢の記憶が曖昧だったことで、自分に話を合わせただけなのかも知れない。そう思うと、どれほど話に信憑性が生まれ、理屈に合っていると感じれるであろうか。

 しかし、実際には、夢の共有だと考える方が、しっくりくるのは、自分としては、納得させられた気がするからであろう。

 その時感じたのは、

「もう一人の自分が出てきたということは、誰と夢を共有しているのだろうか?」

 という思いであった。

 ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことがあるだろうか?

 世の中には、よく似た人が三人はいると言われるが、それはあくまでも似ていると言われる人であり、本人ではない。

 しかし、ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分が同じ時間に別の場所で存在しているということなのだ。しかも、それを見たら、見られた本人は近い将来に死んでしまうという言い伝えがあり、実際に、歴史上の人物であったり、著名人が、自分nドッペルゲンガーを見たと言って、すぐに死んでしまったという事実があると言われている。

 ドッペルゲンガーには、いくつかの共通点があるようで、

「本人の行動範囲以外には現れない」

「決して声を発しない」

「まったくの無表情で、感情を表さない」

 なとと、他にも言われていることがあるが、夢に出てきた、もう一人の自分もまさにその通りであった。本人の行動範囲というのも、夢自体が意識から外れることはないのだから、当然であり、後の二つも、

「夢ゆえに」

 とまさに、夢であるからこそ、ドッペルゲンガーの存在しうるものだと言えるのではないだろうか。

 今では、ドッペルゲンガーなどという言葉を知っているから、夢との繋がりも何となく分かる気がするが、子供の頃に知っているはずはない。それなのに、

「もう一人の自分」

 が夢の中に出てくると、それがまるで一番怖い夢であったかのように感じるのが、当然のように思うことが不思議だった。

 夢の中に出てくるもう一人の自分は、無表情のはずなのに、最後は、まるで口裂け女のような形相になった。しかも、その無表情だったというのも、夢から覚めてから思い出そうとしたその顔は、のっぺらぼうのように顔がない状態だったのだ。

「それなのに、どうしてその人が、もう一人の自分だということを分かるというのだろう?」

 というところがおかしな話だった。

 しかも、のっぺらぼうなのに、気持ちの悪い笑顔になるのだ。ドッペルゲンガーの話とは食い違っている。

 だから、夢を見ている時に、

「ドッペルゲンガーではないのだ」

 と思い、ビックリしてしまって、その拍子に目が覚めるのではないかと思うと、これには説得力があり、納得もできるというものだ。

 もう一人の自分だとは言い切れないくせに、夢を見て、

「もう一人の自分が出てきたから、怖い夢を見たという意識から、目が覚めてしまったのではないか」

 と思うのだ。

 しかも、怖い夢だからこそ、忘れることなく覚えているのだ。

 そう思うと、辻褄の合わない矛盾した話だと思いながらも、どこか納得している自分に対して不思議に思うのだった。

 だからこそ、他のことに関しては、夢を疑わないような気がしてくるのだ。少しでもおかしな部分は曖昧な記憶として残しておくことにして、目が覚めてからその理屈を追いかけようとしても、決して出来上がらない理屈を追い求めるという意識が、夢を曖昧にし、怖い夢しか記憶に残らないようにしてしまったのだろう。

 それが、

「夢というものは都合のいいもので、曖昧な記憶は、曖昧さを裏付けているかのように思える」

 と感じるのであった。

 時々感じることとして、

「自分の運の悪さは、夢と何か関係しているのではないか?」

 と思っていた。

 夢を覚えているのが、怖い夢だけというのも、運の悪さを反映しているかのようで、それが果たして正夢なのか、それとも、夢を曖昧にしている意識が、運の悪さゆえに感じているのかを感じさせた。

 夢というものは、人と話している時は、基本的に話題にならないものだ。それを純也は、

「曖昧な夢を話題にしても、仕方がない」

 と思っていたのだが、夢が曖昧に感じるのは、ひょっとすると自分だけではないかと思うようになっていた。

 他の人は、

「夢を話題にすることはタブーであり、話題にしないことこそ、公然の秘密のようなものである」

 と思っているのではないかと思えた。

 話題にするとどうなるかということは、自分には分からなかったが、その理屈を知らないのは自分だけであり、その理由が夢というものが曖昧なものだと思っているからではないかと感じるのだった。

 これは夢に限らず、

「自分だけが何かを思い込んでいるのではないか?」

 と感じていることって、誰にでもあることではないかと思えた。

 それが、純也には夢のことであり、人それぞれに、思い込んでしまっていることがあり、少なくとも自分の近隣の人には、同じ発想の人はいないと考えているのではないだろうか。

 もし、いたとすれば、それが、

「もう一人の自分であって、皆が考えている、ドッペルゲンガーなのではないか?」

 と思っているとすると、夢というのは、自分の中で、他人と無意識のどこかで共有しているのではないかと考えられ、そこに、

「夢の共有」

 という発想が孕んでいるのではないかと思うのだった。

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