017 彼氏から
「……家には帰りたいよ」
「分かってる。その小さな手荷物だけでは何もできないだろうからな」
家に帰ることもなくそのまま連れてこられた雫が持っているのは、茜とのお出かけのために用意したバッグだけである。
「もちろん奴らがすぐにお前の家の場所を突き止めることはないだろうから、今日は帰っても大丈夫だろう。ただ、しばらくすればバレる可能性はある。一旦はこの本部に身を潜めた方がいいかもしれない」
「家には父さんがいるんだけど……」
「お前の家族にも被害が及ぶ可能性はある。直接相談したほうがいいかもしれない。場合によっては一緒に保護することも考えられる」
「父さん、今日から出張なんだよね」
「そうか、それは仕方ないな……。また考えるとしよう。ひとまず一度家に帰って荷物をまとめて欲しい。一応俺もついていく」
雫と比呂は小部屋を出ると先程降りてきたエレベーター前に向かう。改めて広間でパソコンを操作していた総督の元へ。
「総督、一旦雫の家に行こうと思います」
比呂がそう言うと総督は振り向いて少し心配そうな顔を見せた。
「大丈夫か? 奴らはまだいるかもしれないよ」
「問題ありません」
「……そうか。なら行ってこい」
「ありがとうございます」
そう言うと比呂はそのままエレベーター前に歩き始めた。総督は比呂のことを相当信頼しているようだ。
「そうだ。峰原さん、さっき聞き忘れたんだけど」
雫は比呂について行こうとしたところで総督に呼び止められた。
「はい」
「今回奴らに狙われた理由に心当たりはあるかい?」
これは雫もさっきからずっと持っていた疑問。正直明確な理由は自分でも分かっていない。
「いえ、私もちゃんとは分からなくて……」
「じゃあ、最近周りで何か大きな変化があった?」
雫は下を向いた。……そう、分からないとは言ったものの一つ引っかかることはあった。それは雫にとってあまり信じたくないことであった。
「……実は、私の友達……いえ、付き合ってた彼氏が銃の事故で死んでしまって……その時私も一緒にいたんです」
「……ああ、ニュースで話題になってたあれか。それは災難だったな……。でも確かに何か関わりがあるかもしれない。信じたくはないが、もしその彼が黒陰に何かしらの関わりがあったなら、一緒にいた君から何かを聞こうとした可能性は否定できない」
「もちろん信じたくはないです……」
総督は俯いたままの雫の肩にポンッと手を置いた。
「今は深く考えなくていい。君自身が生きることを考えて欲しい」
「……分かりました」
「ほら、エレベーター来たみたいだ。気をつけて」
「ありがとう……ございます」
エレベーター前では比呂がこっちを見て手招きしている。雫は俯いたままエレベーター前に向かった。
※※
ビルの外に出た二人はビルの外にちょうど止まっていたタクシーを捕まえて乗り込んだ。
「雫、住所は?」
「ああ、えっと——」
運転手に家の住所を伝えると運転手がうんと頷いた。そのままタクシーは動き出す。
「……タクシーなんだ」
さっきここに連れてこられた時は総督の車であったが、今回はそうではないらしい。
「タクシーは狙われづらいからな。公共サービスに手を出すことを奴らは基本しない」
そう比呂は答えるとスマホをしばらく操作していた。それが終わると、また窓の外を見始めた。そして再びお互いに黙り込む。比呂は見た目もかなりおとなしく見えるが、想像以上に会話を好まないのかもしれないと雫は少し考えた。
「……あのさ、比呂」
しばらく沈黙が続いていたが、タクシーが首都高速に乗り入れたところで雫は口を開いた。雫は一度深呼吸をすると少し恥ずかしそうに窓の外を見ながら言った。
「私を助けて……ありがとね」
「……問題ない。それが俺の役目だ。まあ、いずれはお前も人を助けられるようになってもらいたいけどな」
「……そうだといいけど」
まだ自分が人を助ける立場になり得るのかは分からないが、現在の雫の実力では何もできないだろう。比呂は少し間を置いた後、小さな声でつぶやいた。
「……彼氏が亡くなったらしいな。総督から連絡があった」
「そう……なんだよね」
雫は悲しい表情を作って小さく頷いた。比呂の言葉にはあまり感情が乗っていないように聞こえた。比呂にとっては死というものが身近なものなのだろうか。
再び沈黙を貫いていた2人であったが、比呂がまた口を開く。
「……なあ雫、辛いか?」
「……!」
突然の比呂の言葉に驚き、大きく目を見開いた。雫は一度比呂のほうを見てから下を向いた。比呂は言葉を紡ぎ続ける。
「大切な人を失って、そして今度は自分の命が狙われた。正直俺でも耐えられないと思う。それでもお前はよく耐えている。お前は偉い」
そう言うと比呂は振り返り、雫のほうを見た。雫は下を向いたまま比呂の言葉を聞いていた。
「お前はこれから戦わなければならない。この世界の運命と。簡単に逃れられないその運命に立ち向かわなければならない。長く苦しい日々が始まる」
「……」
「だから無理するな。今は弱音を吐いたっていい」
比呂はしばらく雫を見つめていた。雫は下を見たままだったが、ふと頬に涙が伝った。突然銃を向けられてからいろいろなことがあり、恐怖より混乱のほうが上回っていたが、比呂の言葉を聞いて心に溜まっていた感情が湧き出した。
「……怖い……怖いよ……」
雫は気持ちが抑えられなかった。そう——12月12日、宗太が死んでから全てが変わってしまった。楽しかった日々が突然のように失われた。
「こんな運命……ひどいよ……」
比呂は再び窓の外を眺めた。比呂がどんな表情で外を見つめているのか、雫の涙でいっぱいの瞳では確認できなかった。
「……だからさ、こんな運命ぶち壊さないか?」
窓の外を見つめながら、比呂は雫にぎりぎり聞こえるような声で、でもはっきりと聞き取れる声でつぶやく。
「俺たちでこの世界を変えよう。今の俺たちにできることは運命に立ち向かう、ただそれだけ。全てを変えてやろう。俺たちは——」
比呂は一呼吸をおいて言った。
「——この腐りきった銃社会を……生きてるんだからさ」
比呂のその言葉が雫の脳内に何度もこだましていた——。
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