第7話 吉塚の恋心
同窓会から二年が経ち、吉塚は聖羅先生に出会った。街で偶然見かけて、最初に声を掛けたのは聖羅だった。最初はキョトンとしていた吉塚だったが、声を掛けてきた時の聖羅の顔が、今まで見たことがない表情だったことが吉塚をドキリとさせた。
「吉塚君だったわよね?」
と言われて、その顔が見覚えがあるところまでは分かったが、誰だったのか、すぐに思い出すことはできなかった。
「坂上です」
と言われても、ピンとこない。
「坂上聖羅です」
と言われて、初めて、相手が聖羅先生であると分かった。
いつも皆とは、
「聖羅先生」
としか読んでいなかったので、いきなり苗字を言われても、ピンとくるはずもなかったのだ。
「ああ、聖羅先生ですね?」
というと、
「あら、恥ずかしいわ。下の名前で先生と呼ばれると」
と言って、その表情がまんざらでもない様子に見えたので、どうやら、今も生徒から、聖羅先生という名前で呼ばれているということは察しがついた。
「どうしたんですか?」
と聞くと、
「さっきまで、大学時代のお友達と一緒だったんだけどね。ちょうど別れて、一人でブラブラしているところだったのよ」
というではないか。
さっきまで一緒にいたというのは、中学からの友達の由衣だったのだ。彼女とは今も文芸サークルの繋がりで、よく一緒に出掛けたりする。彼女は、
「私も小説が書けるようになりたいわ」
と言っているので、
「及ばずながら、私がお手伝いさせていただくわ」
と、聖羅も、由衣が小説を書けるようになることを欲していた。
何しろ、大学時代には小説を書ける人が何人もいたが、卒業してからは皆バラバラになってしまったために、今では友達として定期的に会うのは由衣だけになった。
小説を書いていた人といえば、赴任地が遠隔地だったり、家事手伝いをしていて、近々結婚するという人がいたりと、皆様々だったのだ。
そんなわけで、小説の話ができる人が他に欲しいと思うのも無理もないことで、由衣は和歌ができるので、そのつながりだった。そんな由衣を無理に小説の道に引きずりこもうとは思わなかった。彼女の感性は、きっと、人に誘われて開花するものではなく、自分からやりたいと思うことが大切なのではないかと思っていたからだ。
由衣とは、ふた月に一度くらいは、一緒にどこかに出かけている、
由衣は、出版社関係の仕事をしていて、旅を中心とした出版社なので、比較的忙しくはないところのようだ、
しかし、それでも出版社というだけ、なかなか時間を合わせるのも難しい。出張も結構あるようで、ふた月に一度が精いっぱいというところであろうか。
「忙しかったら、もう少し長くしてもいいわよ」
と、聖羅はいったが、
「いいの。私が会いたいんだから。ずっと仕事ばかりで地方を飛び回っていると、聖羅の顔が懐かしくてね」
と言った。
由衣も最初は教職に就くつもりでいたのだが、勉強していて、自分には教師は向かないと思ったのと、文芸サークルに入ったことで、出版社でライターの仕事ができればいいと思ったことによって、旅が好きな由衣には、旅関係の出版社は、天職だと言ってもいいかも知れない。
小説を書くのは苦手だと言っていたが、ライターのような文章を書くことにかけては、彼女は文芸サークルでも一目置かれていた。やはり、和歌を嗜んでいただけに、文章や文字を扱うのはお手のものとでもいうべきか、由衣には、やはりこの仕事は向いているようだった。
そんな由衣とその日はランチをして、いろいろな話をしていると、気が付けば、すでに夕方近くになっていたのだ。
吉塚は、高校一年生になっていた。受験を終えて、やっと高校生になれた喜びでホッとしていた時期でもあったが、クラスではまだ仲のいい友達ができるわけでもなく、一人学校からの帰りだった。
聖羅はその日、非番だったので、普段なら絶対に遭わない二人だっただけに、この日の出会いはまさに偶然と言ってもよかった。
「先生、今日はお休みだったんですか?」
と聞くと、
「ええ、大学時代の親友が忙しい人で、今日でないと予定が合わなかったので、休暇をもらったの」
と言った、
それを聞いて、吉塚は少し寂しそうな顔をして、
「そうですか?」
と答えた。
聖羅には何か思うところがあって、わざと少し話をそらしてみた。
「学校の方は、どう?」
と聞かれて、
「ええ、入学したばかりなので、まだピンとこないんですが、どうも自分がいる場所ではないかのように思えてきたんです」
と、少し想像していた言葉に比べて、深刻な内容だった。
「ん? お友達ができないとかいうこと?」
と聞かれて。
「それもありますけど、まわりの会話に入っていけないんです。元々僕は、賑やかな雰囲気は苦手でしたから、友達の会話に入れないことは中学時代からあったんですけど、高校に入ると余計にそれを感じるんです。何か、皆表と裏がハッキリしているように見えてですね」
というのだった。
「高校生になると、大学受験を高校入学から考える人もいるというから、友達の中に溶け込んでいるように見えている人も、実は冷めた目で見ている子もいたりして、なかなか扱いにくいところがあるって、私の友達で、高校の先生になった人が言っていたけど、そういうことなのかも知れないわね」
と、聖羅は言った。
「聖羅先生の方がどうなんです? 同窓会の時には、僕たちの行っていた学校に赴任したというような話をしていましたけど」
というので、
「ええ、そうよ。あの学校に配属になって、そろそろ二年が経つかしら? あなたたちが卒業してから、あの学校では、小学生から部活ができるようになったのよ。私は今女子バスケ部の顧問をしたりしているわ」
というのを聞いて吉塚は、
「バスケットか、僕も中学三年間、バスケットをやっていたんですよ」
と言った。
「へえ、それは奇遇ね、私も中学時代にバスケ部だったのよ」
とニッコリ笑ったのを見るとと、吉塚もニッコリと笑った。
この共通点は、吉塚を有頂天にさせた。友達ができないことや、この学校は自分の居場所ではないという思いから、悩んでいた吉塚だったが、聖羅先生と出会ったことで、そんな悩みも吹っ飛んでしまいそうな気がした。
偶然出会ったこともそうだが、バスケットという話題もあると思うと、さらに有頂天にさせた
だが、それ以上にドキドキした感覚にさせたのは、吉塚が自分の気持ちに気づいたからだった。
吉塚も、中学二年生くらいから、自分が思春期であるということに気づき始めた。女性を見る目が変わってきて、まわりの女の子が気になって仕方がなかったのだが、
「何かが違う」
と思うようになった。
高校生になって、
「ここは自分の居場所ではない」
と思ったのも事実だが、それよりも、
「好きになれる女の子がいない」
という方が正解だったのかも知れない。
吉塚は、聖羅と一緒に次第に有頂天になっていくことで、その感覚に気づき、さらに自分が、
「年上でないとダメなんだ」
という思いにさせたのは、聖羅に対して、ドキドキした感情を抱かせたからだった。
その日、聖羅先生は、吉塚と夕飯を共にした。さすがに自分の部屋に入れるのは憚ると思ったのと、相手が学生で、高校一年生だということを思うと、ファミレスくらいがちょうどいいと思ったのだ。
それでも二人は、それでよかったのだ。
吉塚の方とすれば、
「学校に自分の居場所がないと思っている気持ちをぶつけることができる」
と思い、聖羅先生を目の前にすると、一気にまくしたてるように話始めるものだと自分で思っていた。
それは、聖羅の方も同じで、
「彼が何かを聞いてもらいたいという感情が溢れ出ている」
と感じていたのだが、肝心の吉塚の方が、面と向かうと、急に言葉を詰まらせてしまった。
会話にならないで、沈黙が少しの間続いたが、聖羅の方も何を言っていいのか分からなかった。なぜなら、聖羅の方でも、自分なりに悩みというか、問題を抱えていたので、話ができるだけで気がまぎれると思ったからだ。
聖羅の方の話は、吉塚の方の、
「子供の事情」
と違って、もっとリアルな問題だった。
ドロドロとしたものだと言ってもいい。当然、そんな話を子供にできるわけもなく、それならばと、吉塚の悩みを考えているうちに、自分の問題も客観的に見ることができるかも知れないと感じたのだった。
それなのに、なかなか吉塚の方から話を切り出してくれない。二人とも予定がまったく狂ってしまったことで、何もできなくなってしまったのだった。
それでも、五分もすれば、吉塚が少しずつ話始める。
「僕は、どうも学校で自分の居場所がないような気がして仕方がないんですよ」
と小さな声で言った。
それを聞いた聖羅は、
「苛めに合っているということ?」
と聞くと、
「いいえ、違います」
という。
「じゃあ、皆から無視されているとか?」
と聞くと、
「そういうわけでもないんですよ。まわりがどうのというよりも、僕自身がまわりに溶け込めないという感じなんですよ。友達もできないし、彼女がほしいとは思うんですけど、彼女にしたいと思うような女性がいないんです」
という。
「友達ができないことに関しては、あなたが何か興味を持てるものが見つかれば、自然と人は集まってくると思うのね。だから、私はそんなに心配はしていないわ。でも、彼女にしたいような人がまわりにいないということは、あなたが、どういう女性を好きなのかということにかかわってくるのでだけど、あなたは、どんな女性がいいと思っているの?」
と聞かれて、吉塚は、
「僕は、どういうタイプというのは、分からないんです。かわいいタイプがいいとか、綺麗な人がいいとかいう感覚ではないんです。自分が見て、この人がいいと思えばその人が好きな人なんですね」
という。
「じゃあ、ひょっとすると、吉塚君は、同い年の女の子というのが、自分に合っていないと思っているんじゃないかしら?」
と聖羅がいうと、
「あっ、そういうことなのかも知れない。どうして、そのことに気づかなかったのだろう?」
と言った。
「じゃあ、年上がいいとか、年下がいいとか、そんな感じなのかしら?」
と言われて、
「僕は年上に甘えたいと思っているのかも知れない」
と吉塚が言って、聖羅の方をじっくりと見た。
その表情は生々しい表情に見えて、聖羅はまたドキドキしたのだった。
聖羅の方は、今まで年下に好かれたという経験はなかった。
むしろ、どちらかというと、年下からは敬遠される方だったかも知れない。一度、大学時代に年下の男の子と付き合ったことがあったが、その時には、すぐに別れることになったのを覚えている。
その年下の子は、完全に女性に甘えるタイプで、どうやら、マザコンだったようだ。母親のことをいまだに、
「ママ」
と呼び、それをおかしなことだとは思っていないほど、感覚がずれていたのである。
その子は、小学生の時に両親が離婚し、母親に育てられた経緯を持っていた。母子家庭ゆえに、
「母親を自分が守るんだ」
という感覚が強かったのだろう。
しかも、母親は甘えられると喜ぶのだそうだ。だから、なるべく甘えるようにしているという。
そういう意味では、一般的なマザコンというわけではないが、母親に対しての感情を、別の形で年上の女性に求め、そして甘えたいという気持ちに変わりはなく、これも一種のマザコンなのではないかと思うのだった。
最初こそ、
「私が、ちゃんとした青年に戻してあげるわ」
という気持ちもあってか、彼との付き合いを決意したのだが、想像以上に頑ななところがあり、母親に対しての感情が、次第に聖羅に対しての感情とダブってしまい、自分でもよく分からない状況になっていたようだ。
そうなってしまうと、さすがに聖羅でも太刀打ちできなくなってしまい、別れることを決意したが、聖羅の中で、彼のことがトラウマのようになり、一時期、
「年下と付き合うことは自分にはできない」
と思うようになっていたのだった。
実際に年下とそれ以降、付き合ったことはおろか、知り合うこともなかった。
知り合ったとしても、相手がすぐに警戒し、知り合うという感情が芽生える前に、相手が離れていくのだった。
「あの人、すごい上から目線のように感じるんだ。近づくことのできないオーラのようなものもある」
と言って、怖がってしまうのだ。
もちろん、聖羅は上から目線などという感覚は一切なかった。どちらかというと、年上の包容力で、相手を包んであげていると思っていたくらいなのに、まさか、そんな上から目線などと言われてしまうなど、聖羅としては心外であった。
だが、吉塚と一緒にいると、今までとは感覚が違っていた。なんといっても、元自分の教え子であり、年齢的にも年の差二けたではないか。
男性の方が年上なら、十歳くらいの年の差は、そこまで気にすることはないのだろうが、女性が年上というのは、気にならないわけもない。
そもそも、教え子というのは、先生に憧れる時期というのが、絶対にあるもので、そんな憧れでしかないのであれば、教え子にドキドキしても、まったく意味のないことではないだろうか。
だが、聖羅は吉塚にドキドキした。それは、いつも教え子として、小学生たちを見ているからなのかも知れない。まだ、発育もしていない子供たちを見ていると、同じ教え子でもすでに、成長期も終えようとしている彼に、子供の頃を知っているだけに、成長した大人の男の子を見ているのではないだろうか。
「先生」
と、吉塚は慕うかのように声を下げて、真剣さをアピールするかのように、聖羅に語り掛けた。
「吉塚君」
と、聖羅の方も、吉塚の気持ちをできるだけ、正面から受け止めてあげようと思ったのだ。
というのが、元教え子に対しての誠意ある態度だと思ったのだが、果たしてそれだけだったのであろうか。聖羅の中で今までになかった感情が芽生え始めているのではないだろうか。
「いや、今までになかったわけではなく、本当はあったのだが、大学時代のトラウマから、自分の感情を押し殺そうとしていたのかも知れない」
と感じていたのだろう。
そう思うと、自分のこの感情が、いくら、十歳も年下であっても、相手に大人の男を感じたのだから、立派な恋愛対象になりうると思ったのだ。
すでに、もう教え子でもない。恋愛対象と思ったとしても、それは悪いことではない。
「吉塚君なら」
と、聖羅が感じたのは間違いないようだ。
吉塚の方としても、実は、聖羅が恋愛感情を持つのより、少し遅れて、聖羅のことを恋愛対象としたのだった。
つまりは、聖羅が吉塚に、
「自分は恋愛対象という目で見られている」
と思ったのは、勘違いであった。
かつての先生ということで、子供の頃に感じた憧れを思い出していただけで、子供の頃というのは、憧れがすべてだったような気がする。
何しろ、まだ思春期にも入っていないのだから、女性をオンナとして見ることはできないでいた。ただ、何かムズムズするものがあると思っても、それがどこから来るものなのか分からないのだ。
それは、男の子であっても、女の子であっても同じもので、ただ、小学生の頃は女の子の方が発育が早く、思春期に入るのが早かったりするものだ。
何といっても、女の子には、特別な変化が訪れる年齢でもあるからだ。
男性と女性の一番の違いは、子供を産むことができるのが、女性だけということで、女性が懐妊できるようになるために、初潮というものを迎え、それにより、身体は一気に大人の女性になるのだ。
一般的に、十歳を超えるくらいから、初潮の兆候は出てくるという。思春期の訪れに比べれば、かなり早いと言えるだろう。
精神的な思春期というのは、年齢差はあるが、小学六年生くらいからが一般的ではないだろうか。
もっとも、女性としては、初潮を迎えたことで、そのまま思春期に突入することもあるというので、一概には言えないかも知れないが、男のこの場合には初潮という確固たる現象があるわけではない。だから、思春期は一般的に中学に入ってからが多いのかも知れない。
そういう意味では、吉塚は晩生の方だった。
自覚している思春期の始まりは、中学二年生の終わり頃くらいからだっただろうか。
それも、まわりの男の子に、彼女がいるのが羨ましいという感情から生まれてきた、女の子に対する目が直接自分が思春期に陥っている状況だということが理解したその時であった。
どこか、他力本願的な思春期突入であったが、思春期に入ったと思うと、それまでと感情がまったく一変していた。
思春期への突入が他の子たちよりも遅かったということを自覚していることで、焦りのようなものも感じていた。
別に晩生でも悪いことではないという自覚はあるが、女性がついている男の子を羨ましいと思うことで、最初に感じたのは、憧れや羨ましさではなく、嫉妬だったのだ。
だから、フリーな女の子を探すというよりも、他の男の子と付き合っている女の子にばかり目が行ってしまい、
「俺なんかに太刀打ちできるわけはない」
と思っているだけに、どうにもならない状況に、嫉妬を感じてしまうのだった。
だからこそ、自分の思春期が少し歪に感じられるのだった。
普通の恋愛が果たしてできるのか?
そんなことを考えてしまい、実際に同年代の女の子と付き合おうと思っても、なかなかうまくいかない。
相手が自分を見る目、というよりも、自分が相手を見る目が、恋愛感情になれないのだ。基本的に吉塚の恋愛感情のもとは、
「嫉妬」
なのだ。
憧れや、癒しを求めるものでもない。だから、相手に好かれる。相手のことを好きになるという、一般的な恋愛感情を持つことができなかったことで、相手の女の子が、自分をどのような目で見ているのかということを気にすることはなかった。
そういう意味で、
「吉塚君は、人畜無害なところがあるわね」
と言って。彼に好感を持っている女性もいたりしたが、ほとんどは、
「何を考えているのか分からない」
と、彼の自分たちに対する感情の薄さが、本当に健康な青年男子なのかと思わせるものであったのだ。
吉塚は、同年代や、年下に対して、それほど恋愛感情を抱いたことはなかった。
一度だけ、相手に告白されて有頂天になったことがあり、二つ返事で、承諾し、付き合い始めたことがあったが、すぐに別れてしまった。
理由とすれば、
「何を考えているのか分からない」
と言われたことがすべてであり、結局は、どのような経路を通っても、最後にはそこに行きつくしかないという悟りのようなものを、吉塚は感じたに違いない。
しかし、今までに感じたことのない感情を、吉塚は聖羅に再会して感じたのだ。
それはきっと、卒業してから初めての再会であれば、感じなかったかも知れない感情だと思えた。
つまりは、卒業後に一度、同窓会で再会した時のイメージがあるからで、あの時は、聖羅に対して、さほど強い感情を抱いていたわけではなかったが、それ以上に、変わってしまったように見えた雰囲気に、
「彼女が変わったのか、それとも、自分が成長したのか、どっちなのだろう?」
という思いを抱いたのを思い出したからだ。
その時の結論としては、
「彼女が変わった」
という方に気持ちが傾いていると思っていた。
それだけ、あの時はまだ思春期にも入っていなかった時期であり、女性というものを意識していなかったからだろう。
しかし、今は違う。思春期に突入し、嫉妬という感情を知ったことで、もう少しで嫉妬を恋愛感情と勘違いしてしまいそうになるところだったことを、聖羅との再会で感じさせられた。
「僕が今、聖羅先生に感じている感情こそが、恋愛感情というものなのかも知れない」
と思った。
それは、憧れであり、大人の女に対して甘えたいという慕うという感情なのではないかと思ったからだ。
もちろん、聖羅先生が、自分のことを恋愛感情で見ているなどとは思いもしなかったので、先生の視線を浴びながら、その先生の思惑がどこにあるのか、知る由もなかった。
考えてはいたが、どうにも堂々巡りを繰り返してしまうことが分かった気がして。必要以上に、考えないようにしようと思ったのだ。
「委ねるというのが、これほど気持ちのいいことだったとは思ってもみなかった」
と吉塚は感じた。
それは、まるで母親の胎内にいて、羊水に浸かっている時のような感覚だと言ってもいいのではないか。
もちろん、母親の胎内のことを覚えているはずもなく、感じているのは、漠然とした感情でしかないのだが、それを聖羅先生は、マザコンのような印象で見ているということはなかった。
大学時代のトラウマは、あくまでも、同じような感覚に陥りそうに思う時にだけ、感じるもので、明らかにあの時のマザコン野郎とは違っているのは分かっていた。
今思い出しても、虫唾が走るくらいの気持ち悪さが、あの時のマザコン男にはあったのだ。
何がマザコン男と、吉塚で違うのかというと、
「マザコン男には、支配欲があるのだ」
ということであった。
マザコンで甘えたいという感情の裏側で、男としての感情である、
「相手を支配したい」
という欲があり、
しかし、吉塚にはそれがない。やはり、自分を先生として見てくれていて、自分もかつての教え子だという見方をしているからなのだろうか。
それを思うと、吉塚と一緒にいることは、かつてのマザコン男に感じたトラウマを感じることはないだろうと思うのだった。
マザコン男は、人によっては、
「可愛らしい」
と思う女性もいるだろう。
しかし、それ以外の大多数の女性は、彼に対して嫌悪と悪寒を感じ、
「同じ空間に存在し、同じ空気を吸っていたと思うだけで気持ち悪い」
という、最悪の感情を抱かせることになるのだが、それも、彼は男として、
「自業自得なのではないか?」
と感じさせた。
吉塚にはそんな感覚はまったくないことで、余計に恋愛感情が一気に膨れ上がってくる、二人だったのだ。
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